レクイエム 3.11

 同時代を生きる者として、やはりこの日の事を避けて通る訳にはいかない。

 あの時あの場所で、一体何が起きたのか、何が出来て何が出来なかったのか、何をすべきで何をしてはいけなかったのか、何が解決し何が未解決なのか、何が解明され何が不明のままなのか、そして我々はそこから何を学び何を残せばいいのか。

 2011年3月11日、その日私は昼頃、出張先の函館から羽田に戻り、本来ならその足で出社するところであろうが、前夜の深酒のせいもあって所謂直帰、そのまま帰宅した。

 居間のテレビを点け鞄の荷物を整理していると、突然、緊急地震速報のあの不気味な音が鳴った。私が手を止め画面を見入っていると、やがて壁が軋むような音がして部屋と建物全体が揺れ始めた。それがあの未曾有の惨禍の始まりを告げる、破壊の神ポセイドンのいわれなき怒りの合図であった。

 幸いな事に私と私の知人縁者に然したる実害は無かった。しかし暫くして、震源地から離れていながらその影響の大きさを実感する事が起きる。それは計画停電と呼ばれる、地域ごとに輪番で電力の供給を止め、更なる電力トラブルを回避する施策で、身近なライフラインがこんなにも脆弱な物と実感するには充分であった。

 停電は事前に実施日時が公開された為、大きな混乱は起きなかったが、これまで殆ど経験した事の無い闇夜を懐中電灯と蝋燭だけで過ごし、早めに就寝する以外、対処法は何も無かった。 勿論、それは大切な人や家を失った被災者の方々には申し訳ない位の些細な不便さではあったが、震災直後の被災地の暗闇が、いかに心細い物であったか僅かなりとも体感する事は出来た。

  世にカタストロフやパンデミックと呼ばれる悲惨な出来事の歴史がある。世界規模で一番大きく有名な例は8,500万人が死亡したという十四世紀のペストだろう。また記憶に新しいところでは阪神淡路大震災、9.11同時多発テロ、昨年日本各地で起きた水害もあった。

 それらの惨状は技術の進歩により瞬時に可視化され、我々により強い印象を残す事となった。人は大自然の猛威や同じ人間の狂気の前に立ち尽くし、己の無力さを痛いほど思い知らされる。

 八年前、目の前のテレビ画面は、荒れ狂う海と化した市街地を遡行して行く夥しい数の瓦礫を、まるで当然の如く映し出していた。そして私はただ茫然とそれを見るしか術は無かったのだ。そこはかって訪れた事のある海辺の街、或いは今そこにいても何の不思議も無い有名な景勝地

 あれから八年という歳月を経て、漸く私にはある種の覚悟のようなものが芽生え始めた。それは災害が起きても即座には誰も助けてはくれないという事実。やがて到着するであろう援助を待つ迄の間、自分の身は自分で守らなければならないという現実。そしてそれを不当だとは考えない自覚。

 失われた2万余人の尊い命と、自らの身命を賭して最期まで最善を尽くした数多の崇高な御霊、今なお不自由な環境での生活を余儀なくされていたり、心に深い傷を抱きながら懸命に生きている人達、それとは対照的に、愚かさを露呈しながら未だに自画自賛を繰り返す当時の為政者達、それら様々な交々に思いを馳せる、この3月11日をそのような一日にしたいと私は思う。あなたはどうだろうか。

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Anniversary

 昨年の3月27日、この「風のかたみの日記」という雑記帳のようなブログを始めてから、今月で丁度一年。そして今回は偶然にも第100回目。しかも累計アクセス数は切りよく20,000件を超えた。

 それらの数字があたかも互いに連動しているかの如く目の前に表れたのを見て、筆者として非常に感慨深い。これもひとえに、何の役にも立たず、場合によっては読者諸氏を、愉快ならざる気持にするかも知れない事ばかり書いているこの文章を、見捨てる事無くお立ち寄り下さった皆様方のお陰と、衷心より深謝申し上げる次第。

 

           誠にありがとうございます

 

 さて、振り返ってみるとこの一年、私にとって喜怒哀楽、随分色々な出来事があった。勿論それは一個人だけに限った事ではなく、生きとし生ける者すべてに共通する。即ち一年という時間があれば、誰しも季節の移ろいと共に、望む望まないに関わらず様々な経験をせざるを得ない。たとえそれが心に重くのしかかるような事であっても。

 私などに教訓めいた事が言える筈も無いが、人生は好天の日ばかりでは無い。一寸先も見えない嵐の闇夜に一人荒野を彷徨うように、傷つき、挫け、もう二度と立ち上がれないと思う程、人は息も出来ない迄力尽きてしまう事もある。そしてそのような辛酸を舐めながら、我々は多くを失い僅かを得て生きて行かねばならない。

 それはとてつもなく孤独で長い道程かも知れないが、それでも今、この一瞬が、尚も明日へと続いている事に変わりは無いのではなかろうか。

 決して不幸では無いという事は幸せだという事である。そんな風に肩肘張らず軽い心持で、新しい御世でも楽しみながらこのブログを続けようと私は考えている。

 

            これからも何卒よろしくお願い申し上げます。

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カラオケっ!

 とにかくカラオケが嫌いだ。誰があんな物を考え出したのか。あっ、ちょっと待って頂きたい。中にはこれを真に受けて、既に頷くか嘲けているかも知れないが、私はそこそこ楽器は弾けるし、楽譜だって書ける(読めるなんてレベルの低い話では無い)。歌にはあまり自信はないものの、リズムを外す事は有り得ない。更に言えば、いわゆる絶対音感、A(ラ)=440Hzの音も音叉等ガイド無しで常に発声出来る。

 ところが唯一つ致命的な欠点がある。何と信じられない事に音痴なのだ。具体的に言うと旋律を100%狂い無く歌う事が出来ない。いや、もう一度待って貰いたい。勿論それは普通の人の耳では全く判らない程度の音程のずれ。しかし、なまじっか音に対し異常なほど敏感になってしまった私にとっては耐え難い苦痛である。

 では何故カラオケばかりそれ程嫌うのか。私の場合、例えばギターやピアノの弾き語りをする時は演奏の方にも神経が行っているので、歌にはそれ程気が回らない。最悪なのがあの忌々しいカラオケなのだ。

 あれで歌うと、若干フラットしたりして音を外した事実を、歌いながら自分の耳で瞬時に、そして完全に捕らえてしまう。すると歌っている事自体、楽しいどころかまるでシェイクスピアの悲劇のような物と化す。

 従ってカラオケがある店に行くだけで、パブロフの犬の如く条件反射し実に不幸な世界に一人落ち込み、少しもくつろげない。それでも諸般の事情でスナックやクラブにどうしても行かねばならない場合があり、半ば強制的に歌わされる事もしばしば。

 そこで考え出したのは、歌い出しの20秒程に全ての神経を集中する事だ。その手順は、イントロが流れ出すとその曲のサビ等、一番高い音を頭の中で素早く確認し、必要があれば機械のツマミを上下して、自分にとって最適なキーに調整する。そしてまるで少年のような透き通る声で歌い始める。

 すると、それまでざわついていた店内が一瞬水を打ったようになる。その時私は、してやったりと満足げに皮肉な微笑みを浮かべる。まあ、あまりいい性格とは言えない。

 だが、次の瞬間から私はもう歌う事に飽きてしまう。精神集中はあまり長くは続かない。

 そのようにして歌う事を嫌い避け続けていると、次第に声量は落ち、音域は狭まり、歌自体更に下手になってゆく。つい最近自宅でこっそりドレミ・・・と歌ってみると、高いF(ファ)迄しか出なくなっていた。かってはあのアート・ガーファンクル小田和正かと言われていた(実に嘘くさい)のに。

 昔、夜の繁華街では、男子の社交場クラブにはピアノの先生が常駐、スナックには3曲千円で歌の伴奏をしてくれる流しのギター弾きがやって来た。彼等はまるでNHKのど自慢アコーディオン弾きのように、客のキーやテンポに合わせフレキシブルに対応していた。

 やがて8トラックテープのカラオケが登場、リズムに全く乗れず、それでも我関せず誰も聴きたくない「昴」等を有り難がって歌うオヤジ共が、彼方此方に出没し始める。

 以後、カラオケ機器は更に進歩を続け、キートランスポーズ、ディレイ、コーラス、リバーブ、ダブリング、イコライーザー、エキサイター等々のデジタル・エフェクトを駆使しプロの伴奏と比し何ら遜色が無くなった。

 そしてまた、ふと私は想う。あの頃のピアノ弾きや流しのギタリスト達は、一体何処へ行ってしまったのだろうか。

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白銀は招くよ

 初めてスキーに行ったのは社会人になってからだった。それも自ら望んだ訳ではなく、会社の先輩達から無理やり誘われ仕方なく行った次第だ。

 何故、それ迄スキーをした事が無かったかと言えば、ずっと水泳を続けていた為で、冬は陸上トレーニングか温水プールで泳いでいたからである。

 従って、スキーに限らず所謂ウインタースポーツの類は一切経験が無く、丹下健三が設計した代々木の室内競技場が、冬場はスケートリンクになり、同世代の男女がスケート靴を持って正面玄関から入っているの眺めながら、寂しく競泳用水着を持って細々と横にある練習用プールの入口を入って行ったのだ。

 それは兎も角、私は強制的に購入させらたスキーウエアだけ用意して、夜行バスに揺られ長野県のスキー場にやって来た。板とブーツはレンンタル。

 朝からボーゲンの特訓を受け、昼頃にはなんとか緩斜面を滑る事が出来るようになったが、一人で滑っていたところ大ゴケをしてビンディングがずれ、ブーツが入らなくなってしまった。

 それでも一応常識ある人間として、邪魔になってはいけないと考え、板を担ぎゲレンデ脇を歩いて降りた。しかしそこは新雪のままで太股まで雪に埋まり、完全に体力を使い果たして、そのツアーはそこで終わった。

 初体験で散々な目に会いながら、しかし何故か私は諦めなかった。それから1か月後、今度は樹氷が有名な山形蔵王へ行ったのだ。そして翌年もその次もシーズン中は何度かゲレンデに立ち、徐々にスキルもアップして行った。

 やがて気がつけば、いつしか会社でスキー部を作り、会員を募って年に1度ツアーをセット、初心者の面倒を見つつ、個人的には上越、信州、北海道と足を延ばした。

 さて、私は何故そこまでスキーが好きになってしまったのだろうか。

 恐らくスキーというスポーツは若干道具を身に着けるものの、何ら動力に頼らず生身で出せる最高速度を体験出来ると考えられる。

 速度は速くなればなるほど、一歩間違えれば死に至るという危険性を伴う。そして死に近づく事は、ある種の恍惚感を呼び覚ます。それが根っからのスピード狂人間に合致したのだ。

 そう、私は自分の技量だけを頼りに、死と隣り合わせの危険な滑降をしているのだ。勿論、私はW杯の選手のようなスピードは出せない。そんな事をしたら本当に死んでしまう。それでも足の脛にブーツが食い込むような、そんな感覚とともに前へ前へと体重をかけてゆく。

 これで急斜面に突っ込んで行くのだ。斜度がきつくなればなるほど腰が引けないよう前傾が必要になる。それはかなりの恐怖感を伴う。そうやって私は長年に渡り怪我も無く、幾つもの斜面を駆け下りてきた。 

 季節はまさにスキーシーズン。私はその後、腰を痛め、残念な事にスキーが出来る状態では無くなった。エッジを磨き、ワックスを塗り、シーズン到来を待っていたあの頃が、今は無性に懐かしく思えてならない。

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カリフォルニア・ロケット燃料

 今回のタイトルは知る人ぞ知る、知らない人は勿論知らない、「カリフォルニア・ロケット燃料」。名前からして何とも勇ましいと言うか、元気が出そうな響きがあるではないか。

 しかしよく考えてみると、アメリカの主たるロケット発射場はケープ・カナベラルで、それはフロリダ州にある。加州にあるのは宇宙旅行用のモハーベや軍事関係のヴァンデンバーグ位だ。

 それではこのカリフォルニアで特別強力な燃料を製造しているのであろうか。答えは多分否である。ここで多分と断るのはそこまでトレース出来ないからだ。

 さて、もったいぶるのは止めて早々にこの言葉の正体を明かすと、宇宙とは恐らく全く何の関係も無い、ある疾病に有効かも知れない薬の組み合わせを指している。

 これ以上書くと何やら自分の個人情報を切り売りするようで、抵抗が無い訳ではないが、まあ特段隠す必要も無いので続ける事とする。

 かって私は不幸な事に、酷く気分が落ち込み、何もしたくなくなるという状態が暫く続いた。これは生まれて初めての体験で、舞台俳優でも無いのに突然奈落の底に落ちたような気分だった。夜は眠れず気持ちばかりが焦る。

 それでも、このような悲惨な日々を放置しておく訳にもいかず、私は殆ど躊躇せずに、これも初めて精神科に特化した病院に向かったのだ。この辺の思い切りの良さは、先ず私は自分の脳内で一体何が起きているのか、それを探求したい欲求と、辛うじて残っていた僅かばかりの気力のお陰である。

 はたして病院に到着し手続き終了後座って待っていると、奥の方から泣き叫びながら飛び出して来た若い女性と、それを追う母親らしき二人が目の前を駆け抜けた。それを見て私は、「遂に来る所迄来たな」と覚悟を決めた。

 その後は問診やDSMというマークセンス・テストみたいなものを受け、その結果下された判断は「中度のうつ」。そして抗うつ剤睡眠薬の処方。

 それからというもの、とにかく私はうつ病に関する図書を読み漁った。中にはテレビ等に出演している自称臨床医の女性が書いたとんでもない内容の著作物もあったし、友人の奥方からは「ツレうつ」なる漫画本も送られて来た。

 情報収集した結果、取敢えず私が達した結論は、服用している抗うつ剤が古い事とその処方量が少な過ぎるのではないかという推論だった。

 更にネットで米国の資料などをチェックし、そして私は遂に見つけた。「カリフォルニア・ロケット燃料(California Rocket  Fuel)」。これは当時新薬であったSNRIとNaSSAの組み合わせで、最強のうつ病攻撃ロケットである。私は医者を説き伏せ、自ら処方箋を作成し自分の要求を叶え服用した。

 しかし、全ては徒労に終わり、その後、かれこれ2年近く様々な薬を飲み続けたが全く改善されず、他には頭に電気を流すショック療法も考えたりしたものの、一時しのぎで再発しやすいとの事で止めた。

 そこで今度は、全ての治療を止める事に決め、転院して徐々に投薬を減らし、約半年後には完全に薬が抜けた状態となった。そして気が付けば気分も改善されていた。

 ここで一つだけ詳らかにしたい事実がある。それは心療内科と謳っている病院又はクリニックは非常に多いが、これは別に精神科専門医ではない単なる内科医でも開業出来るという事である。

 そもそも日本精神分析学会長はあの「帰ってきたヨッパライ」の北山修氏だった。しかし彼にしても、盟友加藤和彦自死を止める事は出来なかったではないか。

 世の中にうつ病で悩み、辛い毎日を送っている人は相当数に上り、残念な事に自ら大切な命を絶つ人も減少はしていない。私などが偉そうな事を言える立場ではないが、唯一言、生き続けて貰いたい。そして出来れば一緒にロケットに乗って宇宙とやらに行って見ようではないか。

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冬の花火

 其の人は類稀なる美貌の持ち主で、そして花火が好きだった。勿論、他にも好きな事は沢山あった。映画、美術展、読書、ハイキング、日本酒等々。しかし、その中でとりわけ花火を見る事にかけては、殆ど貪欲と言える程の情熱を持っていた。

 何処から情報を仕入れて来るのかは判らなかったが、其の人はいつも花火大会の予定を私に告げた。その時の瞳はまるで少女のように輝いて見えた。そう、彼女もかっては少女だった筈だ。

 幸いな事に大きな花火大会は休日に行われるので、私は言われるままに予定を合わせ、一緒に出掛けて行った。

 或る時は車で渋滞する高速道路を走り、また或る時は混みあった省線に揺られて目的地へ向かった。そして帰路、彼女は充分満足したように私の傍らで眠っていた。

 花火大会は夏場の催しと思っていたところ、そうではない事を私は彼女から教えられた。それはとてもありきたりの温泉地で行われているとの事だった。私はまた車のエンジンを起動し、熱海へ向かった。

  闇の中、うっすらと遠くに初島の影を望む海辺の部屋で、食事を摂り、灯りを消し、窓を開け放ち、何かが訪れるのを腰をかけ、待った。

 そして遂に、シュルシュルと火球が光跡を残して夜空を駆け上り炸裂、かって目にした事がない鮮やさで大輪の花が開き、僅かに遅れて音が鳴る。すると冷たく冴え亘った冬の空気がピリピリと少し振動した。

 「もっとこっちに来て」彼女が言った。その大きな瞳に花火が映って見えた。その時私は其の人を一生離さないと思った。

  思い出は止めどなく流れる泪のように脳裏を駆け巡る。何故、彼女はそんなに花火が好きだったのだろう。

  あの時の優しい温もりもそして心も、今はもう全て遠い昔の話。

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舐めたらいかんぜよ

 前回、「ノーテンパー」について書いたところ、そんな言葉は聞いた事が無いという方がおり、年代の違いか地域性の問題か、何れにせよ題材としてあまり普遍性が無かったのだと反省した。

 そこで次は何を書いたらいいのか考えてみたが、また同じ過ちを繰り返すのではないかと不安になるばかりで、一向にアイデアが浮かばない。

 しかし、いくらネタが思いつかないと言っても、何を書いてもいい訳では無い。少なくとも書いていい事と悪い事ぐらいはある。そんな事は百も承知。美辞麗句とまでは言わないが、最低限、品位、品格位は保っていたい。

 この品格という物は、普段の会話の場でも非常に重要な事であり、ついつい氾濫するSNS用語などを安易に使用しては、かえってキモイとか言われる可能性があるので、注意したいものである。

 さて、上述とはあまり関連性は無いが、かって私が経験した環境に於いては、今で言うところのセクハラ、パワハラは何の疑いも無く存在しており、流石に目を覆いたくなるような事も平然と行われていた。

 勿論それらは許される事ではない。その中で私が閉口したのは所謂猥談。これを事あるごとに喋りまくる手合が至る所に存在し、全く始末に負えないのである。どのような話か具体例を挙げたいが、憚れる内容なので想像にお任せするしか無い。

 それについてある時、一つの見解に似た話をする者がいた。曰く、

 勤め人同志、気心の知れた内輪で飲んでいる分にはいいが、客先やまた偶然飲み屋で知り合った見も知らない他人と会話する事がある。その際、話題として避けるべきは、先ず政治。そして宗教、更に贔屓のプロ野球球団。この3件は罷り間違えば取り返しのつかない修羅場を迎える可能性がある。結局、喧嘩にならない話題は下ネタという事に落ち着くのだ。

 しかし、と私は思った。いい歳をした紳士が話す事ではないだろう。それではまるで農協の団体さんと同じではないか。(済みません、JAを敵に回す心算は毛頭ありません)

 議論を重ねた結果、漸く妥協点を見出した。食べ物の話題がそれに変わることが出来るという結論である。それも、某タイヤメーカが格付けする世界各地の高級料理店ばかり話されたら辟易とするが、所謂B級グルメの店の紹介合戦なら誰でも参加出来るし、第一罪が無い。

 これをもって暫く安心していたところ或る時、私は久々に下ネタを聞き、その卓越した着眼点に目を見張った。

「舐めたらあかんぜよ、と言うのは嘘。本当は、舐めたらイクぜよ」

                                失礼しました。

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