DTM

 今回のタイトルDTMは、デスクトップ・ミュージックの略で、ご存知の方もまたご自分でもやっているという人も多いと思う。一応何の事かと言えばパソコンを使って楽曲の制作や電子楽器を演奏するという事だ。

 さて私のDTM歴は以外と長く、かれこれもう25年以上やっている。

http://napdan325.hatenablog.jp/entry/2017/08/16/123119

  勿論、長ければいいという訳ではない。やはり最終的には音楽的センスやそれをプログラミングする知識と技量が問われる訳で、自慢では無いがその点に於いて私は、自分の能力の無さを素直に認めるだけの度量は持ち合わせている。

 しかしとにかく趣味なのであまり悲観する事はなく、実際に自分では弾けないピアノやギターの速弾き、そして超絶テクを打ち込んでは楽しんだりしていた。とは言え実在する楽器が出せる音域を越えたり、サックス奏者がいつまでも息継ぎをしない等といったシュールな表現は避けていた。

 ところが先日、我家のDTMシステムをコントロールするパソコンが作動しなくなり、出来る限りの復旧を試みるも全ては徒労に終わった。

 如何せん古いので仕方無いと言えばそれまでだが、入力用に使ってきたDX7やギターMIDIコンバーターSC-88とMU80といった音源モジュールは健在で何とも心残りなのである。

 考えてみればこれまで特にDTMだけに熱中してきた訳ではない。何か月も電源を入れない事もしばしばであった。ところが、いざ動かないとなると無性にやりたくなるのが人情というものだ。

 それから暫く私は考えた。このままこれを止めてしまうか否か。私はもう決して若くはないし今後DTMを続ける確証もない。それでも一応はネットで最近のDTM事情などを検索してみた。

 その結果、最新のソフトや周辺機器はすっかり様変わりしたかように思えたが、唯一昔と変わらない事があった「この趣味にはお金がかかる」。だが初期投資さえすれば後のランニングコストはせいぜい電気代くらいのものだろう。

 私は自分を奮い立たせる言葉を思い出した「今を尊ばなければ一体いつという時があるのか」

 さて、この先どうなるのだろうか =続く=

 

         f:id:kaze_no_katami:20190509190804j:plain 

令和に思ふ

 これまでに二度の改元をリアルタイムで経験した。とは言っても前回同様今回も特段何処かに出掛けたり何かをした訳では無い。ただ家に居て淡々とテレビを見て過ごしただけだ。

 以前ここで述べた通り私は天皇制を否定せず、どちらかと言えば好意的立場をとるものである。とは言いながら皇居前広場まで出かける程心酔する心算もない。

 さて、この御代替わりに於けるこれまでの一連の報道を見て、私が第一最初に思った事は、『皇后になられた雅子様の御加減は如何』、であった。特に笑みを浮かべながら車の窓を開けて手を振る姿が妙に心に残り、それを危惧したのだ。

 確か適応障害という病名だったと思う。2003年(平成15年)以降、雅子様は色々な行事を欠席されたり、それでいながら友人とレストランに出掛けてワインを飲んだ等という喧しい報道がなされた事もあった。そしてその時期は私自身がまさに精神科に通院していた頃であり、その二年前、勤務先で経営者の端くれに就任していながら、出社する事すら覚束ない最悪の状態になってしまった期間と重なっていた。

 そのような経緯もあり、誠に恐れ多い事ながら私は雅子様の状態が何となく判るように思えた。従って彼女を批判する輩は私の敵そのものであったが、とは言え私に妃殿下を庇う事など出来る筈も無かった。

 その後私は多くを失いながらも幸いなことに何とか原状復帰を果たし、今日に至っている。

 今、雅子皇后が寛解されたかどうかは知らない。恐らくそのような公式発表はないと思う。しかし最近は以前より調子がいいようにも見える。とにかく聡明な方である事はそのキャリアからも間違いないのであろうから、ご自分の体調を踏まえながら国事行為や公務他に臨まれる事を願って止まない。

 もし我々が本当に様々な多様性を認めようとするのであれば、たとえ現人神の妃とは言えど決して滅私奉公を義務付けられた存在ではない事を肝に銘じるべきと思料する。

 雅子皇后のお印はハマナス。その花言葉は「悲しくそして美しく」だという。そこには何か秘められた深い意味があるのだろうか。

 この令和が年貢の納め時になるかも知れない。多分私もそろそろ腹を括る時が来たのだろう。

 

             f:id:kaze_no_katami:20190502122756j:plain

小賢しい餓鬼

 平日の朝、真新しいランドセルを背負った小学生達が、上級生や父兄等に導かれ集団登校している姿をよく見かける。もしかしてひょっとすると彼等は将来この国をも背負って立つかも知れない、そんな事を考えてまた、ふと、私は思い出した。自分にも小学生だった時があったのだと。

 子供の頃私は、所謂早熟で身体も同級生よりは大きく、たいして勉強はしなかったが成績はまずまずだった。そして小学五年生の頃には早くも声変わりをしてしまい、音楽の授業ではまるでウイーン少年合唱団の一員からいきなりフランク永井になったような気になった。その後その声からアート・ガーファンクル小田和正を目指したエピソードはまた別の機会に譲るとして、当時は同級生が幼く見えてしまい一人で本ばかり読み耽り、一緒に遊ぶ事は少なかった。

 それでも学校ではイジメられたり疎外される事も無く、四年生の時からはずっと学級委員に選ばれ学校全体の生徒会に出席する一方、クラスでは週一回の学級会に於いては議長として純真無垢、純情可憐、無知蒙昧な少年少女達を仕切っていた。我ながら随分尊大な言い様だが、その頃は実際にそう思っていたのだ。

 さて、その学級会には当然担任の教員も出席する。ところが小学五、六年時の女性担任は毎回のように自ら議題を提示し会を管理しようとしていた。

 恐らく彼女は自分の生徒を一個の人間と見なしておらず、その証拠に我々対し、あたかも低学年の児童と対峙しているかの如く、おこちゃま言葉を使って話しかけていた。

 それを我慢出来なかった私は、事ある毎に衝突を繰り返していた。勿論、衝突と言っても暴力沙汰などではなく、あくまで論戦に終始した事は言うまでもない。

 そんなある日学年全員の徒歩遠足があった。目的地は学校から片道5km程度の古墳らしき跡地。ただその前夜は大雨が降り小高い丘陵とは言え高低差のある泥濘んだ道に転倒する者続出。我々のクラスでも女子児童の一人が泥だらけになった。

 地面は社会科で何度も耳にした関東ローム層。水分を含めば滑りやすくなる事位は子供でも充分予想出来た。にも拘らず何故どうしてもそこを通らなければならなかったのかと言う疑問が私には残った。

 果たしてその週の学級会の日、私が教壇に立ち議事を開始しようとすると、いつものように担任が先ずその日の議題を提示し私がすかさずそれに反論。遠足の反省会を行うべきと主張した。私は心に残った疑問を同級生達にぶつけ、それについてどう考えるかを問うたのだ。

 私の言葉に担任は少なからず驚いた様子だった。痛い所を突かれたような顔をしたが、結局、彼女は遠足について全て計画通りのコースを辿ったに過ぎないと説明し、何ら落ち度は無いという姿勢を崩さなかった。それに対し私はその日の状況に即した臨機応変な対応が必要だったのではないかと食い下がり、不毛な議論は決着を見ないまま学級会は時間切れで終わった。

 考えてみれば(否、考えなくても)私は実に鼻持ちならない嫌な子供だったと思う。こんな餓鬼が身近にいたらとてもではないが付き合いきれない。担任の心境を思うと慚愧の念に堪えない。

 しかし私はあの時、確立された権威に歯向かう時に感じるある種の恐怖感を覚えがらも、確かに純粋な気持ちでぶつかって行ったのだ。目を閉じればあの日自分が見ていた光景がはっきりと浮かんで来る。

 だが一方で私はこうも考える。「私の言っている事に間違いがあるか」と相手を追い込み威嚇したに過ぎなかったのではないだろうか。そして今自分は、それを引きずったまま嫌な大人になってしまったのではないか。

 過去の日々は取り返しのつかない過ちと、数え切れない後悔で充ち溢れている。 

         f:id:kaze_no_katami:20190424230541j:plain

 

桜(SAKURA) 2019

 去る3月20日、長崎からスタートを切った桜前線が、およそ一か月かけてこの4月22日、北海道松前町に到達したとのニュースがあった。これで厳しい冬を過ごした北国でも漸く桜が開花する。

 勿論これはいつもの風物詩。日本の春は桜と共に訪れ新しい年度が始まり、暖かな風に心なしかウキウキするような気がする。

 今年、私はいつになく桜を見て回った。とは言っても特別遠出をした訳ではなく、せいぜい車で30分程度の範囲内ばかり。運転をするので残念な事に花見酒という訳にはいかなかったが、それはそれで結構楽しいものであった。

 最初の頃はただ眺めるだけだった。しかし周囲の人達が皆写真を撮っているので、釣られて手軽なiPhoneのカメラで撮り始め、そうなると次第にその画質が気になり始め、結局古いニコンデジタル一眼レフカメラを引っ張りだす事になった。

 そうしている内にパソコンのHDDにはそれらの画像がかなり溜まり、ふと、折角なのでスライドショーにしてみようという考えが浮かんだ。

 その結果は以下の通り。もし良かったら御覧頂きたい。

www.youtube.com

 

          f:id:kaze_no_katami:20190424060848j:plain

天叢雲剣

 いよいよ元号が平成から令和に変わる日が近づき、今上天皇陛下が退位することを伊勢神宮に報告される「親謁の儀」のニュースをテレビで見た。天皇の退位に際し執り行われる儀式は全部で十一あると言われているが、当然そのような事までは知らない。

 私は特段国粋主義者では無く、ただごく普通に自分が生まれたこの日本という国を愛しており、また天皇制を否定するものでも無い。

 このように述べた瞬間、こいつはネトウヨだと思い不快感を抱く人がもしいれば、どうぞ今直ぐ立ち去って頂いても構わない。

 さて、上記の「親謁の儀」を行う為に三種の神器の内、勾玉と剣が皇居から携帯されたという。ご存知の通りこの二つの正式名称は「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)と「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)である。

 三種の神器天皇の正統性を証明する物とされており、二つでは足りないのではないかと疑問に思ったところ、伊勢神宮御神体がもう一つの神器「八咫鏡」(やたのかがみ)との事で、わざわざ持って行く必要は無かったのだと納得した。

  残念なことに「親謁の儀」についての知識は全く無いが、「親謁」とは天皇が自ら参拝する事をさすそうなので、天照大神へ退位する旨報告するという事なのだろう。

 ところで私は以前、このブログにおいて先に述べた「天叢雲剣」につき記述していた事を思い出した。

 以下のリンクを再掲するので興味があれば御一読されたい。

kaze-no-katami.hatenablog.jp

 

                                 f:id:kaze_no_katami:20190418220432j:plain 

#イマソラ

 音楽ネタの続きで今回はシャープ#について。と冗談はさておき、フェイスブックツイッター等では「#」(ハッシュタグ)を使うことが出来る。

 万一#をご存知無い方がいると困るので一応ウィキペディアのリンクを貼っておく。
ja.wikipedia.org

 さて、そこで私は一体何をしているかと言えば、殆ど毎日その日の空の模様をiPhoneで撮影しそれをせっせとツイートしているのである。

 始まりは全く偶然だった。ある日ふと見上げると本当に綺麗な青空が広がっており、思わず写真を撮ってツイッターに上げたところ、いきなりフォロワーでもない人から💗 ( いいね ) の反応があったのだ。

 その人を辿るとプロフィールに空の画像を撮ったり見たりするのが趣味と書いてある。「そんな人もいるのか」と思わず感心して彼のフォロワーをチェックすると、どうやら空好きは彼一人では無くかなり多数のマニアがいる事が判ってきた。そして彼等が使っている呪文のような言葉が「#イマソラ」だったのである。

 それ以来私は、時折そのハッシュタグを付けて写真を投稿するようになったが、それだけでは芸が無いので何か洒落たコメントはないかと考えた。そして古今東西の歌詞を書いてみてはどうかという結論に達し、尚且つこれを日々のルーティンとしてしまったのだ。

 せっかくなのでどのような物なのか以下に幾つか添付する。出来れば歌詞を見て曲名を考えて頂きたい。

 

     f:id:kaze_no_katami:20190414181902j:plain

 

     f:id:kaze_no_katami:20190414182722j:plain

    f:id:kaze_no_katami:20190414182825j:plain

     f:id:kaze_no_katami:20190414182900j:plain

    f:id:kaze_no_katami:20190414183019j:plain

    f:id:kaze_no_katami:20190414183140j:plain

      f:id:kaze_no_katami:20190414183223j:plain

    f:id:kaze_no_katami:20190414183312j:plain

        f:id:kaze_no_katami:20190414183506j:plain

   f:id:kaze_no_katami:20190414183521j:plain

 

        f:id:kaze_no_katami:20190414200155j:plain

 ざっとこのような感じであるが如何だったろうか。古い歌が多い事のは否めないが、ツイッター上では歌詞の部分を検索エンジンにコピー&ペーストすれば曲のタイトルが判るようにしている心算で、これを毎日考えるのは結構大変だったりする。

 そして私はまた明日の天気予報を睨みながら、どのような#イマソラにしようかあれこれ思いを巡らしているのである。

                               f:id:kaze_no_katami:20190414120710j:plain

キャンディーズ賛歌(スピンオフ)

 前回キャンディーズのハーモニーについて投稿した。沢山の方々からのアクセスや☆ (スター)、そしてコメントを賜り改めて心より御礼申し上げる。

 その原稿を書いている最中は懐かしさからか関連するエピソードを次々と思い出し、取敢えず見境なく書き綴っていたが、気がつくと途轍もない長さになってしまい、泣く泣く削除した結果があの投稿となった。

 それでも取敢えず没にはしたものの、中には我ながら捨てるに惜しい興味深いかも知れない記述もあり、別途保存していたので今回はその中の一つを披露したい。

 さて、キャンディーズの解散が決まり終焉に向けてカウントダウンが始まった頃、私は彼女等のアルバム全制覇計画を立て何とかそれを完遂した。

 そこで一番気になったのは、何故か楽曲や歌唱とは全く関係の無いレコード自体の音質だった。因みにキャンディーズのレコードはすべてCBSソニーが制作販売しており、当時同社はノイマン社製のSXー68というカッティングマシーンを導入、音質の高さを盛んに吹聴していた。

 一方キャンディーズに限って言えば、中期に発表された作品のどれもが、高域への偏りが凄まじく兎に角キンキン、シャリシャリした音作り。はっきり言ってこれを高音質とは言い難い代物であった。これはAMラジオで目立つ音質に仕上げた心算だったのだろうか。

 勿論それだけならばプリアンプのトーン・コントロールを弄ればいいのだが、問題はレコードから音を拾う時に起きていた。なんと高域が時折ガリガリ ( これは気にならない人には多分判らない程度の極僅かな歪 ) という音で一瞬潰れてしまうのだ。

 そこから私の悪戦苦闘の日々が始まった。即ち、如何にしてその高域をクリアに拾うかである。

 先ず疑ったのはレコード針とそれが付いているカートリッジ。当時私はパイオニア製DCサーボモーター・ダイレクトドライブ ( 世は未だベルトドライブ全盛期だった ) のプレーヤーを使用しており、カートリッジは付属の物しか持っていなかった。

 そんな或る日、たまたま近所の大型スーパーがオーディオ・バーゲンセールと称した催しを開催、チラシ広告には公示価格5万円以上のエンパイヤ4000D/1というカートリッジが何と90%オフという超破格値で印刷されていたのである。

 早速それを入手。ところがこれがとんでもない代物で高域を強調する事甚だしく、ただでさえキンキラキンのキャンディーズのレコードには決して使ってはならないアイテムだったのだ。

 最早こうなっては、多くのオーディオ誌で高評価を受けているSHURE-V15 TYPEIII を入手するしか選択肢は残されていない。更なる出費は貧乏学生にとっては痛いが、私は清水の舞台から飛び降りた。

 SHUREは評判通り素晴らしい音だった。しかし、残念な事にキャンディーズのレコード関しては何ら改善されなかった。相変わらずボーカルが高い音域になると微かに音が潰れるのである。勿論針圧などを変えて種々試みたのは言うまでもない。

  失意の私は問題追及の為、レコードとカートリッジ片手に学友の家へ赴いた。彼は当時としてはマニア垂涎のシステム、即ちDENONのターンテーブルとそれを納めるケース、オルトフォンのトーンアーム。要するにレコードプレーヤーをコンポーズしており、それだけである程度のステレオセットは優に購入する事が出来た。これで再生できるか否かが判断基準の一つとなり得る。そう考えたのであった。

 果たしてその結果は。何と完璧に音を捉え高域にも追従し、決して潰れるような事は無い。しかもあのエンパイヤのカートリッジでも同様なのだ。全くもって見事としか言いようが無かった。

 しかしここで私はある疑問に突き当たる。「そもそもこの問題の本質は一体どこにあったのか。製造者のCBSソニーとしてはかかる現実を把握しているのだろうか」

 素人であるところの私の理解では、レコードは先ずマルチトラック・レコーダーに伴奏と歌を録音し、それをミキシングして2トラック2チャンネルにトラックダウン、所謂マスターテープを作る。その時、プロのエンジニアがJBL等のスタジオモニターを聴きながら行うのである。その作業の中で一体どうしたらこんな音質になってしまうのか。

 私の疑惑は音盤を削るカッティングマシンへと注がれた。あのノイマン社製SXー68の事である。あれがマスター・テープからレコードとして片チャンネル45度ずつ合計90度の溝を削り取っているのだ。カッティングの精度が高すぎるあまり、コンシューマーの再生機器の能力を超えてしまったとでも言うのだろうか。

 今や楽曲を入手するにあたっては勿論CDも健在だが、完全デジタル化されネットからダウンロードする時代になった。しかし最近になって再びレコード化する動きもあるようだ。アナログにはデジタルではカットされるようなレンジが存在し、そもそも周波数の波がギザギザな訳が無い。

 時は流れ、私は昔のステレオ・システムを全て処分してしまい、現在は所有するレコードを聴く事が出来ない。だが、もし新しく購入するとしたら、必ずキャンディーズのレコードを持参して電気屋に行き、あの高域をきっちり再生出来るかをある種の指標にしようと考えているのだ。 

          f:id:kaze_no_katami:20190411230156j:plain