昔書いた童話

 大学生だった頃、友人から「童話」を書いてくれと頼まれた。彼が所属する同人サークルの小冊子に載せる為だった。

 私は童話には殆ど興味が無く、それ迄に読んだと言えば、せいぜいテグジュペリの「星の王子さま」位しか思い当たらなかった。しかもあの物語自体、童話なのかも疑わしい。それでも暇を持て余していたのだろう、何故か引き受けていた。 今回はいつもと趣向を変え、埃まみれのその原稿を引っ張り出してきた。

 

「木霊」

 僕はもう少しで泣き出しそうだった。こんなに遠く迄一人で来たのは初めてだったし、僕の大好きなお母さんからはいつも「森には恐ろしい鬼がいるから、絶対行ってはいけません。」と言われていたのに、今朝、そのお母さんと喧嘩した後、気付くと僕は森へと続く細い一本道を歩いていた。

 だけど今日はこんなにいい天気で、木立の間から小鳥達のさえずりが僕を誘っているし、それに僕の気持ちを少しも分かってくれないお母さんを、少し心配させてやろうという気も手伝って、思い切って森の中に入って行った。

 しばらく歩いてみても鬼なんかいる様子は無く、僕は木漏れ日の当たる柔らかい草の上に寝転がって、「お母さんなんか嫌いだ」と呟いた。すると急に目頭が熱くなって涙が止めどなく流れた。そして僕はいつの間にか眠っていた。

 それからどれだけ時間がたったのだろう。目が覚めた時はもうほとんど夜になっていた。僕は驚いて飛び起き、あたりを見回したけれど、微かな月明りではさっき通ってきた道もまるで分らず、小鳥のさえずりの代わりにフクロウの声が不気味に響いているだけだった。

 僕は急に怖くなり泣き声で「お母さーん」と叫んだ。

 すると、遠くで誰かが「お母さーん」と呼んだ。僕によく似た子供の声だった。『誰か同じように迷った人がいるのかな』

 「誰かいるの?」僕は期待しながらもう一度叫んだ。「誰かいるの」また遠くで誰かが答えた。

 「僕はここだよ」・・・「僕はここだよ」

 何処かにもう一人子供がいることは間違いない。この森の中で独りぼっちじゃないと分かると僕は少し元気が出てきた。

 でもその時、『森の中には鬼がいる』というお母さんの言葉を思い出し、あの声の主が鬼だったらと考え、「君は鬼なの」僕は恐る恐る、でも大きな声で聞いた。「君は鬼なの」相手も怯えながら尋ねた。

 「僕は鬼なんかじゃないよ」僕は答えた。「僕は鬼なんかじゃないよ」遠くから返事が聞こえた。『相手が鬼じゃなくて良かった。でも待てよ、怖い鬼なら僕を騙して食べちゃう事くらい朝飯前だろうな。それに、さっきから僕と同じ事しか喋らないのはどうしてだろう?』僕はそう考え思い切って「君は誰だい? どうして僕と同じことしか言わないの」と聞いてみた。

 今度はすぐ近くから声がした。「僕はコダマだよ」

 「コダマ?」僕はびっくりして、あたりを探したけれど誰もいなかった。「そうコダマさ」「何処にいるの」「君の目の前の大きな木の中さ」「木の中で何をしているの」「何もしていない、時々人間が来て大きな声で呼ぶのに答えるだけさ。ところで君はどうしてこんなに夜おそく、ここにいるんだい?」

 「お母さんと喧嘩してここに来たら、いつの間にか眠っちゃったんだ」

 「どうして喧嘩したんだい。お母さんが嫌いなの」「違うよ、お母さんは大好きさ。だけど・・・」「だけどどうしたの」「僕は新しいお父さんなんか欲しくないんだ」

 するとコダマは木の枝をゆすってカラカラと笑った。「何がおかしいんだい」僕は怒ってそう言った。「ごめんよ、だけど君は幸せだね。お母さんがいるし、お父さんだってもうすぐできるんだもの。僕は君が生まれるずーっと、ずーっと前から、この森に一人でいるんだよ」

 「僕はお母さん一人でいいんだ」

  コダマはカラカラと笑って言った「それは困ったね。でもきっとお母さんは君の為に新しいお父さんを探して来たんだと思うよ」

 「そんなの嘘だよ。お母さんは僕なんかどうでもいいと思っているんだ。僕の事、もう嫌いなんだよ」僕は泣き出した。

 「そんなことはない。ほら今誰か君を探して森の中に入って来たよ」

 「どうしてそんな事が分かるの」「僕は森の中のことはみんな分かるんだ。フクロウ君よりもね」

 するとずっと遠くから僕の名前を呼ぶお母さんの声がした。「お母さん」僕は叫んだ。それに答えるようにお母さんの大きな声が聞こえた。

 「僕の言う通りだろう。だけどお母さんだけじゃないよ、男の人も一緒だ。きっと君のお父さんになる人だね」

 僕は何も答えなかったけれど、コダマはまたカラカラと笑った。「いいことを教えてあげよう。二人が迎えに来たら、君のお父さんになる人の手を握ってごらん」

 「どうして」コダマはそれには答えず「さあ、もうそこまで来ている。それじゃあさよなら」

 コダマが言い終わるとすぐ、お母さんが男の人と息を切らして駆けつけて来た。

 僕はお母さんに抱きついて泣いた。『ごめんなさい』と言おうとしたけども、言葉にならなかった。男の人は黙って微笑んで僕を見ていた。

 「さあ帰りましょうね」お母さんは僕の手を取った。僕はコダマに言われた通り、もう片方の手を恐る恐る男の人に伸ばした。

 男の人は頷いて僕の手を握った。その手は大きくごつごつしていて、お母さんのように優しくなかったけれども、その代わり力強く暖かかった。僕もそれに負けないよう力を込めて握り返した。

 二人に挟まれて歩き出した僕は、後ろを振り向き大きな声で「さよなら」と叫んだ。お母さんは不思議そうに僕の顔を見た。「コダマにさよならって言ったんだ」僕は二人を見上げて得意げに言った。「おかしな子」お母さんと男の人は嬉しそうに笑った。

 僕はそれに合わせてカラカラと笑う、コダマの声が聞こえたような気がした。

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怨念の行方

 別にお盆だからと言う訳では無いが、いきなりおどろおどろしいタイトルである。しかしこの八月はお盆に限らず、我々が死者との関わりを持つ機会は多い。例えば広島と長崎の原爆投下、或いは御巣鷹山日航機墜落事故。そして極めつきは310万人もの国民の命が失われた戦争の終結である。

 このような惨禍を振り返り、後世に伝える為、それぞれ毎年厳かに式典が執り行われるが、これらの正式名称には「追悼」、「記念」または「祈念」といった言葉が用いられる。だがそれとは別に、あくまで通称ながらも共通して使われる二文字がある。「慰霊」だ。

 我々は比較的安易にこの「慰霊」という言葉を使うような気がする。慰霊祭、慰霊碑、慰霊の旅、慰霊登山、等々。慰霊とは文字通り「霊を慰める」という意味であり、ここで言う「霊」とは死んだ者の魂を指す。

 だが、少し待って欲しい。今は西暦2019年、令和元年である。この時代に「霊」だの「魂」などという科学的裏付けの無い物の存在を、真しやかに言えるのであろうか。その昔、怪しげな霊媒師達が薄暗い密室に客を集め、口や鼻からエクトプラズムと称して白い布を出していた交霊会などとはレベルが違うのである。

 ところで予めここで断っておきたい。私は決して非科学的であることを理由に、そのような式典を否定する訳ではなく、戦争や災害、そして不慮の事故等で亡くなった人達を悼む気持ちは、人並みに持ち合わせている心算であり、状況さえ許せば悲劇が起きたその日時に、その方角を向いて暫し首を垂れ、手を合わせている者である。

 さて、ここからが本題。 我々は何故、慰霊と称して存在の不確かな「霊」を慰める必要があるのか。理由は至って簡単である。霊は祟るものだからなのだ。

 人は原始の時代から死者に対し怖れを抱いて来た。やがて、特にこの世に怨みや未練を残して死んだ者の魂は、怨霊となって祟り、様々な災厄をもたらすとされた。有名なところでは先ず菅原道真の名が挙げられる。

 菅原道真(845ー903年)は時の右大臣でありながら太宰府に左遷され、そこで客死する。ところが彼の死後、都では疫病が蔓延し政敵であった藤原時平は死亡、続いてその妹や娘の息子二人も死ぬ。更に御所に落雷があり、醍醐天皇はその時の火傷が元で落命する。これを道真の祟りと考え、その凄まじさに恐れをなした朝廷は、死せる道真を太政大臣に任じ、怨霊を御霊(ごりょう)として崇める事(御霊信仰)により、怒りを鎮めようとしたのである。

 勿論これは今から千年以上も昔の話だ。それと現在の慰霊には何の関係も無いと思うかもしれない。しかし似たような事例がつい百年程前にもあった事をご存知だろうか。

 現在の天皇北朝の血筋であるが、皇室の正式見解は南朝正統論を採っている。これは明治維新後、北朝を支持する公家と南朝こそ正統とする武家の対立を収める為、明治天皇南北朝時代三種の神器を持っていた南朝を正統としたからである。

 この事がその後何をもたらしたか。それ迄朝敵であった筈の楠木正成新田義貞後醍醐天皇南朝)に加勢した武将達に、何と明治年間になってから、従二位や正一位といった位階が贈られ、更に湊川神社藤島神社等が創建されたのである。これを御霊信仰と言わずして何をもって説明がつくと言うのであろうか。

 そして、御霊信仰にはもう一つの側面がある。即ち、怨霊を鎮めれば、逆に守護神になるという、いわゆる災い転じて福と成す的な都合のいい発想である。その結果、菅原道真は今や受験生御用達の学問の神様となっているのだ。

 これを前提に考えれば、皇居二重橋前楠木正成銅像がある事も十分納得がいくと思う。軍事の天才であり忠臣の鏡でもある正成が、まるで最後に立ちはだかるラスボスの如く、馬を駆り帝を守っているのだ。

 同様に東京の北の玄関、上野には西郷隆盛像がある。西郷が明治政府に反旗を翻し、西南戦争が起きた事は周知の事実だが、彼もまた死後、正三位が贈られ、遂には銅像となって会津等、新政府に敵対した藩の残党が残る東北地方から、帝都東京を守る役目を与えられたのである。

 更に現在、甲子園では連日、高校野球が繰り広げられているが、時折スタンドに志半ばで倒れた仲間の遺影を持って応援する姿を散見する。

 勿論気持ちは判る。しかしよく考えればそれは非常におかしな事である。銅像や写真に、一体如何なる力があると言うのだろうか。

 以上述べた通り、人は死者に対する畏怖、畏敬から災厄を起こす霊を鎮めようとして崇め奉った。そうする事により霊は荒ぶる怨念を捨て守護神になると信じた。そのような考えは遠い過去から引き継がれた記憶であり、恐らく今もなお、我々のDNAの中に脈々と生きている。それ故に「慰霊」という言葉に何の抵抗も感じないのではなかろうか。

 我々は今、さも合理的な思考に従って、物事を判断しているような気になっているかも知れない。しかし根底に「御霊信仰」が残っている可能性は否めない。

 死者に対して敬虔な気持ちを持ち続ける事は、ある意味美徳であり良い伝統と言えるだろうが、唯「慰霊」という言葉を口にする時、ほんの少しの疑問と一抹の不安を覚えた方がいいかも知れない。それが「死んだ英霊に対し申し訳がたたない」という言葉を盾に、国の方向さえもミスリードした過去からの警鐘となり得るだろう。

 お盆は仏教でいうところの盂蘭盆の事で、亡くなった家族や先祖を追慕し、報恩の思いを感じる期間だという。その時に私はこんな事を考えてみた。

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Happy Birthday, SNOOPY 🎉

 甚だ唐突ながら、8月10日はご存じSNOOPY(スヌーピー)の誕生日である。つい「ご存じ」という言葉を使ってしまったが、このキャラクターの事を全く知らないという御仁は多分少ないと思う。何故なら、街を歩けば老若男女を問わず、Tシャツや手提げバッグといった様々なスヌーピーグッズを、何の衒いも無く身に着けている姿に、かなりの頻度でお目にかかるからだ。彼等は一体スヌーピーの何を理解し、共にあろうとしているのだろうか。

  今さら説明の必要は無いと思うが、スヌーピーはピーナッツ(PEANUTS)とタイトルされたコミックに登場するビーグル犬。そしてこのピーナッツの主人公は決してスヌーピーでは無く、チャーリー・ブラウンという「丸い頭の子」で、彼はスヌーピーの飼い主なのである。

 おや、早くも此処で、それは知らなかったという人も出て来たかも知れない。そんな事も知らずに、やれカワイイだとか、大好きなどと言っている日本人のなんと多い事か。

 ところで私とこのピーナッツとの出会いは中学生の頃まで遡る。読書好きの同級生の女の子がある時、読書感想文の題材に大胆にも漫画の「ピーナッツ」を取り上げ、如何にも面白そうに書いていた為、それを読んで興味を持った私は早速、当時ピーナッツ・ブックスという名で鶴書房が出版していた、新書サイズのペーパーバックを購入した。因みに価格は1冊240円。

 本の冒頭には登場人物の紹介があり、チャーリー・ブラウンについては「寛大で優しい心の持ち主だが、何をやってもいつもヘマばかり。誰からも尊敬されず、いつも孤独で憂愁な表情をして女の子達の猛烈な罵言や意地悪に堪えている」、スヌーピーは「猟犬のくせに草むら恐怖症。いつも犬小屋の屋根に寝て人間達を冷笑している。だが現状には満足せず、犬からの脱却を夢みている」と書かれている。

 これを読む限り、あまり楽しそうな内容とは思えず、取り立てて面白くもなさそうだ。実際のところ、数ページめくって絵と文字を目で追ったが、はっきり言って最初はピンと来なかった。それでもクラス一番の文学少女がご推奨なので、我慢して読み続けるうちに、ジワジワとその隠れた深い味わいが判るようになって来た。そして気が付けば、私はすっかりピーナッツの世界にハマってしまい、次々とこのシリーズを買い漁っていたのだ。

 さて、この一見素朴な四コマ漫画の、一体何が私の心を捉えたのか。それは何と言っても、登場人物同士の会話や独り言、そして彼等がその時々に見せる豊かな表情、加えてそれらの中に含まれる皮肉や風刺、哲学といったものが、捻くれ者の私の琴線に激しく触れたからである。

 そしてそれは、吹き出しに書かれた台詞の和訳に拠るところが大きかったと私は考える。枠外には英語の原文も併記されているが、辞書を片手に直訳は出来ても、米国の生活文化に対し経験が無く、理解も及ばない者が、細かなニュアンスを感じ取る事は困難だ。それを本書の訳者二人の絶妙な意訳が可能にしているのである。

 その二人とは詩人の谷川俊太郎と日系二世の翻訳者、徳重あけみ。谷川氏の「二十億光年の孤独」という詩集の名前くらいは知っていたが、作品を読んだ事は無く、徳重氏については全く何の情報を持っていなかった。

 それでも、わかり易く、面白く、お洒落なこの翻訳は、本当に素晴らしいの一言に尽きる。もしこれが無ければ、ピーナッツが我が国に於いてこれ程の人気になる事も無かったであろうし、そういった意味で翻訳者の貢献度は非常に高い。

 しかし尚、特に理由も無くキャラクターグッズを身に着けていながら、全くコミックを読んだ事が無いという人は、少なからずいると思われる。それは実に残念な事である。

 自分の飼い犬に名前を憶えて貰えず、連戦連敗の野球チームの監督兼エース、謎の「赤毛の女の子」に一途な想いを抱き、凧上げをすれば必ず「凧喰いの木」に奪われてしまうチャーリー・ブラウン

 チョコレートチップ・クッキーに目が無く、野球、テニス、アイスホッケー等様々なスポーツに精通し、いつも同じ書き出しの小説原稿を出版社に送り続け、ヴァン・ゴッホの絵を所有、ある時は第一次世界大戦のエースパイロット、ある時は世界的に有名な医師や弁護士、まともに飛べないヌケサク鳥の無二の親友、大の猫嫌いのスヌーピー

 いつも弟のライナスやチャーリー・ブラウンをガミガミいじめてばかりだが、天才ピアニスト、シュローダーの前では恋する乙女のルーシー。

 深遠なる真理を探究する哲学者のようでありながら、安全毛布を手放せず、何故かハロウィーンにはカボチャ大王が現れると信じているライナス。

 学校の成績は常にDマイナス、抜群の運動神経の持ち主で、枝毛が枝毛している揺るぎない存在感のペパーミント・パティ。そのパティをいつも先生(sir)と呼ぶメガネをかけた優等生、マーシー。加えてその他大勢の登場人物達。

 ひとたびピーナッツの頁を開けば、彼等は必ずあなたにとって離れられない友人となるに違い無い。そしてその時、それでも「スヌーピーはカワイイ」と言えるか否かの判断がつくのではないかと私は考える。

 ピーナッツは1950年10月から2000年2月まで、全米7紙の新聞で殆ど毎日連載され、約1万8千のストーリーがあるという。その中で一際異彩を放つのは、スヌーピーが宇宙服を着用しているシリーズだ。そこには「初めて月世界へ行ったビーグル犬」という文字がある。

 今年の7月20日は人類がアポロ11号で月面に着陸して、ちょうど50周年にあたる記念日だったが、直前のミッションで月を周回したアポロ10号では、司令船がチャーリー・ブラウン、月着陸船はスヌーピーと名付けられていた。従ってスヌーピーはこの時、月面から16kmまで確かに到達したのだ。

 そしてNASAは今でも有人宇宙飛行に貢献した者に対し「Silver Snoopy Award」と名付けられた銀製のピンバッジを授与しているのである。(尚、NASAのウエブサイトにはsnoppy.htmlというページが存在する)

 これは千葉県浦安あたりの埋立地で、連日大挙して押し寄せる客に対し、媚びを売るしか能が無い、やたらと耳や足のでかいネズミの化け物でさえ成し得なかった快挙である。と、相変わらず捻くれ者の私は内心そう思っているのだ。

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ENCORE !! ENCORE !! (後編)

  前回(前編)に対して、フェイスブックの「友達」から以下のコメントを頂いた。

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 一瞬戸惑ったが、直ぐに「そうだったのか」と納得した。あのオフコースも解散してから既に30年。しかもその間、チンペイとベーヤンのアリスや財津のチューリップのように再結成をする事は一度も無かった。これではレジェンドにはなり得ても、その存在にリアリティー等あろう筈が無い。

 従って小田和正氏についても、「一人で音楽活動を行い、コンサートでは会場狭しと走り廻っている姿しか知らない」という人が大勢いたとしても何の不思議もないのである。 

  かって1970年代から80年代にかけて、それまでフォークとかロックと呼ばれていた音楽が、いつの間にかニューミュージックという造語に変わってゆく中、多くのミュージシャン達はステージに立つと、有ろう事か本業の歌や演奏よりも、MCの方に力を入れているとしか思えない時期があった。如何に面白おかしい喋りで観客の心を掴むかが、より人気を得る必須条件と言っても過言では無かった時代だ。

 しかしそのような状況下、オフコース小田和正鈴木康博両氏は、殆ど黙々と演奏し続けるスタイルを頑なに貫き通した。それは強い意志によって制御された行為と言うより、元々二人とも軽口をたたくような性格では無かった為と推測されるが、コアなファンはそれを許し、彼等の不器用さと美しい音楽を愛した。

 それが何と今では、軽妙なMCで笑いを取る。会場の花道を駆け回る。時として客席にまで入って一緒に歌う。そんな姿に、かっての、あのお通夜のようなコンサート会場とのギャップを感じ、戸惑う事もしばしばあった。

 確かに小田氏は寡黙でしかもエリート、近寄りがたい雰囲気を持っている。それでいて体育会系なので年下の者は呼び捨て、辛辣な事も平気で言う。得意の優しく切ない歌とは裏腹に、時として高慢且つ気難しい性格と思われる可能性は否めず、その長いキャリアから誰もが必ず「小田さん」とさん付けで呼ぶ。これではどう考えても人付き合いが円滑だったとは思えない。

  例えばTBSで毎年放送されている「クリスマスの約束」という番組の第1回目。小田氏は意中のミュージシャン数名に自ら出演依頼書を送ったが、結果、誰一人として参加する者はいなかった。それが2001年の事である。

 その約10年前の1990年に出版された「TIME CAN'T WAIT」(朝日新聞社)の中で小田氏は、自らの「日本グラミー賞 」構想について述べている。そこには日本のミュージックシーンにアーティスト同士が互いに尊敬し合う土壌を作ろうと画策、積極的に活動し、しかし結果として挫折した事が書かれている。

 この事から彼は「クリスマスの約束」という番組の内容を、少しでもそれに近い状態にする事を目指したと考えられる。私は彼が、何事もアウトサイダー的な孤高の世界だけに生きていた訳では無かった事を知り、妙に感心して認識を改めた記憶がある。現在のフレンドリーな姿勢が彼の目指すところであったのだろう。

 さて、肝心なENCORE!!  ENCORE!! と題された今回のコンサートについての感想であるが、これはもう拙い批評するようなものでは無く、ただそこにいたというだけで私は充分満足している。かっては夢見る乙女であったろう多くの女性客も、多分同じように感じたと思う。

 それでも若干私見を述べるとすれば、小田氏が観客の潜在的要望を酌み、歳を重ねて尚、オリジナルのキーのまま、あのカウンターテナーで3時間も歌い続ける姿には頭が下がる思いである。そして特筆すべきはバックアップ・ミュージシャン全員が、自らの担当楽器の他、コーラスにも参加しているという事。特に高度なハーモニーアレンジを駆使する小田氏の要求に応えるその実力は素晴らしいの一言に尽きる。

 尚、私が目にしたコンサートの模様は映像収録ライブとして撮影されており、いずれブルーレイ化されると思うので、興味のある方はそちらを当たって頂きたい。

 最後に今後何を期待するかと言えば、それはもう、かっての相方、鈴木康博氏との共演に尽きる。鈴木氏は規模は小さいが現在も精力的に活動を続けており、私は昨年、東京日本橋にある三井ホールで行われたコンサートを見る機会を得た。そこで彼はセンチメンタル・シティー・ロマンスのメンバーをバックに、小田氏同様、昔と変わらない伸びのあるボーカルとギタープレイを披露していたのである。互いに様々な想いはあるにしても、是非二人のデュオを聴いてみたいと考えるのは私だけだろうか。

 2018年5月4日、熊本から始まった小田和正のツアーは全国で24会場、64公演、約55万人動員して、2019年7月31日松山にて無事千秋楽を迎えた。各スポーツ誌は、彼が最後に「また会おうぜ!」という言葉を残したと伝えている。<終>

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ENCORE !! ENCORE !! (前編)

 去る6月27日、私はあのジュリーこと沢田研二が客の入りが少ないと怒って帰ったという「さいたまスーパーアリーナ」へ、ENCORE !! ENCORE !! とタイトルされた小田和正のコンサートを見に出掛けた。

 今年71歳になった同氏が昨年のツアーの追加公演を始める事は知っていたが、どれも大きな会場ばかりなので、何となく大儀に感じられ躊躇していた。ところがNHKの密着ドキュメント「小田和正」という番組を見て久々に血が騒ぐのを覚え、無性に行きたくなってしまったのだ。

 早速日帰り可能な範囲内で行われる公演を、手当たり次第にネット予約したが、ことごとく抽選に漏れた為チケット入手には至らず、殆んど諦めざるを得ない状況だった。

 そんな折、たまたま大学の同級生に会った時にその話をしたところ、彼が申し込んでみると何と一回で当選し、一緒に行く機会を得たのである。

 さて、私と小田氏並びにオフコースとの付き合いはかなり長い。と言っても勿論個人的に知り合いでは無いのだが、遡れば中学の頃、ギター雑誌に「ジ・オフコース/群衆の中で」というレコードの広告を見たのが最初だった。しかしその頃は洋楽ばかり聴いていたので全く眼中には入らず完璧にこれをスルー。

 次には、高校の同級生の女の子がオフコースのオリジナル「でももう花はいらない」を歌っているのを聴いて、なかなか洒落た曲だと思いギターをコピーしたが、それ以上には進展しなかった。

 更に大学に入って同級生の家へ行った時、今度はライブ盤で「水曜日の午後」を聞き、これはもしかしたらチョッと素晴らしいかも知れないと感じて、その同級生とは一緒にバンドをやっていたので、私がピアノ、彼がギターを弾き遂にステージでその曲を歌うに至った。

 ところでオフコースは圧倒的に女性ファンが多く、彼等を好きだと言葉にする事自体、なよなよした軟弱人間に思われそうなのでかなり憚られた。従って人知れずレコードやラジオ番組を聴取し、コンサートへはガールフレンドの付き合いで見に来たという厄介なスタンスを取り続けなければならなかった。

 そんな私がオフコースに強く惹かれた理由は唯一つ、当時彼等は他の同業者に比べ音楽性が非常に高く、特に小田、相方の鈴木康博両氏のハーモニーワークは、他に類を見ない程の完成度を誇り、加えて楽曲がソフィスティケートと言うかアーバンと言うべきか、所謂洗練されていると感じたからである。

 それ以降、彼等の新譜は必ず購入し、女子大の学園祭を含めコンサート会場へ足を運ぶこと数知れず、さすがにファンクラブには入会しなかったが、気が付けばいつしか立派なオフコース・フリークになっていた。

  私には一つ思い出がある。1977年1月、オフコースが実質的に5人のバンドになって間もない頃、たまたま新橋ヤクルトホールの前を通ったところ、一階の喫茶店にその5人の面々がくつろいでいるのを窓ガラス越しに発見、思わず足を止めてじっくり確認すると、気配を察したのか小田和正氏が顔を上げ私と目が合った。

 すると彼が私を見て確かにニヤッとした。多分その時彼は、そこに自分達の存在を認識して立っている若い男に気づいたに違いない。そしてほくそ笑むような表情をしたのだ。

 未だそれ程売れていなかった彼に対し、私はそのようにして、先の見えない将来への自信を与えたと確信している。シングルカットされた「さよなら」が大ヒットするのはそれから2年後の事だった。

 もしかしたら70歳を過ぎても尚、小田和正氏が音楽を続けていられるのは、あの日私の姿を見たせいかも知れない。と日記には書いておこう。<続>

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I💗 MARTIN(その10)最終回

 思いの外長い連載となったこのマーティンに関する記述を、そろそろ終了しようと考え、取敢えずタイトルに「最終回」と入れてみた。

 今更ではあるが、私の手元にはこれ迄に収集したマーティンの詳細な資料が相当量あって、それを紐解けば大論文とは言えないまでも、かなりアカデミックな展開も出来たのではないかと考えたり、その反面、結果的にはただ単に自分の所有物をひけらかし、愚かな虚栄心を満足させたに過ぎなかったという後悔にも苛まれ、種々反省する事ばかり尽きない。

 それにも拘らず多くの方々からアクセス、並びに過分なる☆(スター)やブックマークを賜った事、誠に有難く改めてここに厚く御礼申し上げる次第である。

 実を言うと、このテーマに取り掛かる迄、私はマーティンに限らずギターをあまり弾いておらず、ブログを書き進める中で必要に迫られ、すべての楽器の弦を張り替え、それぞれの音の確認を始めたというのが事実で、おかげで最初の頃は鳴っていなかった新品のギターがイイ音に成長した事も判明し、その点では良いきっかけになったと考えている。

  さて、私は(その3)で読者の方から実際の音が聞きたいとのリクエストに対し、最終回にて対応する旨回答した事が、ずっと気に掛かっていた。しかし諸般の事情により現在、新たに音声ファイルを作成する事が出来ない為、種々考えたところ、既にYoutubeにアップした音源がある事を思い出した。

 一応自分で聴き直してみたが、あまり音の確認に適当なサンプルとは言えず、また非常に拙い演奏なので、ここで公開する事にはかなり抵抗もあるが、もし良ければお聴き頂きたい。

 曲はクロスビー, スティルス, ナッシュ&ヤングのレパートリーから「Find The Cost of Freedom」。正真正銘、私自身がマーティンD-45を弾いて多重録音したものである。

 尚、これでマーティンのギターに対する評価が、一気に落ちてしまうのではないかと内心危惧している。<終>

     www.youtube.com

 

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I💗 MARTIN(その9)

 さて此処まで、約半世紀に及ぶ私とマーティン・ギターの関わりについて、ダラダラと取り留めも無く、しかし私にしてみれば駆け足で振り返って来た。

 この一連の作業は、自分でもすっかり忘れていた交々を思い出す契機となり、内容はともかく非常に懐かしく興味深い体験をさせてくれた。

 そこで先ず思い浮かんだ事は、そもそも私は何故このマーティンというメーカーのギターにのめり込んでしまったのかという疑問である。ギターを製造する法人やルシアーと呼ばれる個人工房は他に幾らでも存在し、敢てマーティンでなければならない理由は何処にもない。

 例えば有名どころではギブソン社。Jー200やJ-45、ダブ、ハミングバードといった代表的なモデルを有し、これらを愛用する著名なミュージシャンも多い。ある意味マーティンと双璧をなすメーカーだ。

ja.wikipedia.org

 しかし私の中では、ギブソンと言えばどうしてもエレキギター・ブランドという固定観念があり、ジャズには欠かせないL-5やES-175の甘く柔らかなトーン、或はウーマントーンと呼ばれるレスポールのハムバッカーピックアップによる粘り強いサスティーン等が特徴というイメージが強い。

 蛇足ながらこの対極にあるのが、切れ込むようなサウンドのシングルコイルピックアップを搭載したフェンダーストラトキャスター。もっとも現在では高性能なエフェクターが開発され両者の垣根は殆ど無い。

 閑話休題。従ってギブソンアコースティックギターに関しては、せいぜいツェッペリンジミー・ペイジELPグレッグ・レイク、アリスの谷村新司といった、あまり興味の無い人達が使っている程度の認識しか無く、これ迄に何度もチャンスがあったにも拘らず、音を確認するどころか触れた事すら一度も無いままである。(尚、唯一違和感を覚えたのは初期のジェイムス・テーラーギブソンを使っていた事)

  一体何がそうさせたのかは上手く説明出来ない。具体的な根拠が全く見当たらないのである。強いて言えばギブソンのデザインがマーティンと比べ粗野に見えたのかも知れない。しかしギターも楽器である以上、最も重要な事はその音である。

 多分、ギブソンのギターは私が知らないだけで、決して悪い音ではないのだろうと思う。それでは私がこれ迄散々使ってきた「イイ音」の正体とは一体何なのか。これについてはかなり時間を要して考えてみた。しかし行きついた結論を言えば、そのような絶対的評価というものは存在しない、である。(何やら大きなため息が聞こえた)

 マーティンの音色はどちらかと言えば倍音が多く煌びやかな印象で、特にD-45などはまるで鈴が鳴っているかのようだ。しかしこの音が渋いブルース系に向いているとは到底思えない。エリック・クラプトンはアンプラグドで演奏する時は、わざと伸びきった古い弦を張り、死んだ音を出すとさえ語っている程なのだ。

  従ってイイ音とは自分が欲しいサウンド。要は「好きか嫌いか」その一言に尽きる。と言ってしまっては身も蓋も無いが、様々なジャンルに対応するスタジオミュージシャンならいざ知らず、好みではない音で演奏したいとは誰も思わないだろう。

 かって私も人前で演奏する機会があり、そんな時はやはり出来るだけイイ音を出したいと考えたものだ。イイ音が出ていると自然とイイ演奏に繋がるものである。しかし、今は偶に自宅で弾くだけになってしまい、それでも結局マーティンを5本も揃えたのは、ただ単に純粋な自己満足。自分が弾いた生の音が耳に届き、琴線に触れるのを一人悦に入っているだけなのである。これはもう理屈では無い。マーティンは私にとってそのような存在なのだ。

 中学の頃の憧れを延々と引きずって此処まで来てしまった。恐るべき執念、というか執着心と言うべきか。 <続>

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写真右手前から、OM-42PS、00-21GE、右後ろから、HD-28V、D-41、D-45SQ