ラグビーに乾杯

 ラグビーワールドカップ2019が始まった。開会式に続いて行われた日本対ロシアの試合、結果は我等がブレイブブロッサムズが30ー10で勝利を収めた。後半に見せた圧倒的な底力は、やはり日頃の厳しいトレーニングの賜物なのだろう。これで日本は勝ち点5を獲得、目標であるベスト8へ一歩近づいたと言えるのではなかろうか。

 今回のW杯は日本のみならずアジアで初めて開催された大会である。そのせいもあってか、各マスコミはかって無い程、挙ってラグビーに関する様々な情報を紹介しており、その中で特に私の目に留まった事は、ラグビーとビールの切っても切れない関係だ。

 既にご存知の方も多いと思う、NHKでもこのように伝えている。

ラグビーW杯開幕 消費増加見越しビール大幅増産 | NHKニュース https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190920/k10012090641000.html

 これは最近知った事だが、例えば同一スタジアムで行われたラグビーとサッカーの試合を比較すると、前者のビール消費量は後者の何と6倍というデータがあるという。

 従ってラグビー強豪国では自ずとビールがよく飲まれ、世界ランキング1位のアイルランドに至っては、国民一人当たりのビール年間消費量は118リットル。54リットルの日本の実に2倍以上を飲んでいる事となる。尚、世界で一番ビールを飲む国はチェコの150リットルで、アイルランドは2位である。

 そのようなアイルランドの人達の試合当日の行動パターンは、三々五々パブに集まり、先ずビールを飲みながらその日の展開や問題点について語り合う。そして当然ビール片手に観戦し、更に試合終了後、またパブに行きビールで喉を潤しながら対戦を振り返るのだそうだ。

 ところで、かく言う私は勿論アイルランド人ではないが、長きにわたり所謂ビール党であった。敢て「あった」と過去形で言うのは、ここ数年ワインがマイブームになり、ビールは以前程飲まなくなったからで、今でも日本酒やウイスキーに比べればその比率は遥かに高い。

 かって全盛期の頃には一般的な大ジョッキーで軽く7、8杯はいけたので、所謂「生ビール飲み放題2000円」等と謳った店では、間違いなく元は取ってきたと思う。

 だが若い頃は、そのようにビールばかりを飲むという行為は中々成立しなかった。と言うのも、一緒に飲んでいた諸先輩達の脳裏には「ビールはコストパフォーマンスが低い」という観念が焼き付いており、せいぜい最初のコップ1杯程度で済ませ、後は熱燗の世界だったからである。

 確かにアルコール度数平均14%の日本酒に比べ、ビールは5%程度。如何にして安上がりに酔うかが目的であれば、選択肢から外れる事は止むを得ない。私も日本酒を飲めない訳ではないが、しかし、もう少しビールが飲みたいという思いをずっと抱いてきた。

 そんな長い冬の時代がようやく去り、やがて私も歳を重ねて、それなりの立場となって以降は、もうだれも止める者はおらず、思う存分ビール漬けの日々を送った。それは非常に狭い世界ではあったが、ある程度その社会では認知され、何処で誰と飲もうが、気が付けばそこには常にビールが置かれるようになっていた。

  ビールを多飲する事による問題点も確かにある。一番はどうしても尿意が頻繫に起きるので、店のトイレが混雑している時など、かなり辛い思いをする事になる。また飲んだ挙句タクシーで帰宅中、一般道ならば最寄りのコンビニに飛び込めば済むが、高速に乗って渋滞に巻き込まれると地獄である。しかし、そのようなデメリットがあっても、美味しいビールを止める気はさらさら起きなかった。

 ビールにまつわる思い出も数々ある。今でもよく覚えているのは、パブ発祥の地と言われるイギリスでの出来事である。

 パブへ行った際、私は知ったかぶりをして所謂ハーフ&ハーフをオーダーしたところ、英語が上手く通じなかったのか、カウンター内の親爺は怪訝な顔をして、ピルスナーとスタウトを特大のジョッキーに別々に注いで私の前に置いた。

 私は一瞬驚いたが直ぐに気を取り直し、もう一つジョッキーを貸してくれと言って自分で混ぜ始めた。すると漸く私の意図を理解したのか、彼はピッチャーのような容器を出してきてハーフ&ハーフは無事完成した。

 そしてそれを傍で見ていた赤鬼のような大男達は、笑って私の肩に手を伸ばし、見知らぬ者同士、そこで乾杯が始まったのだ。

 さて、もしかしたら賢明な読者諸氏は、それだけビールを飲んできたのであれば、さぞかし尿酸値が高く、痛風持ちであるに違いないとお考えかも知れない。ところが、幸いな事に未だに基準値以下の2.6より上がったためしがない。恐らく神様がそういう体質を与えたもうたのだろう。 

 日本で開催の今回のW杯、時差無しで世界トップクラスの試合を、居ながらにして見られるとは、何と幸せな事であろうか。

 そして来る9月28日、日本はビール大国アイルランドと一戦を交える。応援するしか能が無い私は、せめてビールを飲む量で強敵を圧倒し、勝利を目指す所存である。

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ブレイブ・ブロッサムズ

 いよいよこの9月20日から、日本でラグビーワールドカップが始まる。未だにあの長球ボールに触れた事さえ無いにも拘らず、私は何故か昔からこのスポーツに憧れを抱き、解り辛いと言われるルールもひと通り理解している。そして白熱したゲームが展開された後、試合終了のホイッスルと共に審判が告げる「ノーサイド」という言葉が何よりも好きである。

 かってポール・サイモンは、名曲「明日に架ける橋」の中で「I'm on your side」と歌ったが、ゲームセットを以って敵でも味方でも、そのどちら側でも無いという意味のこの言い方には感動すら覚える。

 ラグビーに興味を持ち始めた頃、私は音楽に熱中しており、自分でも曲を作ったりしていたが、もし将来レコードを出す機会があれば、アルバムタイトルは必ず、サイドAでもサイドBでもないこの「ノーサイド」という言葉にしょうと密かに決めていた。ところが何処で漏れたのか、それから間もなく松任ユーミンという呉服屋の娘が、その題名を付けた曲を先に発表してしまい、私の目論見はあえなく潰えてしまった。

 それはさておき、最近はラグビーの試合は専らテレビで見る事が多くなったが、以前は仕事上の得意先から応援を頼まれたりして、勿論嫌いではないのでその都度、秩父宮ラグビー場に足を運んでいた。

 寒い冬の日は依頼主である企業の受付に名刺を差し出すと、ワンカップ大関とおつまみセットをくれる。それを持って観客まばらなスタンドに座り、チビチビと暖を取りながらの観戦。

 しかしながら私が立場上応援するチームは、一応全国レベルではあったが、あまり強くないので大概はコテンパンに負けてしまう。それもかなりの大差である。

 よく「ラグビーにマグレは無い」と言われる。私も自分が見てきた経験から、確かにラグビーというものには、偶然とか番狂わせ等というものは殆ど存在せず、必ず強いチームが勝つものだという固定観念みたいなもの抱くようになっていた。

 実際のところワールドカップに於いても、日本代表チームは善戦こそするものの、世界の強豪の前に残念ながら長い間敗れ去って来た。

 ところがである。2015年9月19日、我々はラグビー発祥の地イングランドに於いて、日本が優勝候補の南アフリカに、34対32で勝利する姿を目の当たりにした。

 その試合の終了間際のスコアは日本29、南ア32。そこで日本はペナルティーキックのチャンスを得た。名手、五郎丸選手がこれを決めれば同点引き分けに持ち込む事が出来る。しかし主将リーチ・マイケルは何と敢てスクラムの指示を出す。それはペナルティーゴールの3点ではなくトライによる5点、即ちリスクを取って「勝負」に拘ったのだ。

 果たしてその結果、日本は左サイドを突破し、見事なトライを決め、歴史的勝利を収めた。サッカーの「ドーハの悲劇」は有名だが、ラグビーではこの快挙を、やはり開催地の名を取り「ブライトンの奇跡」と呼んでいる。

 現在、日本代表の世界ランキングは第10位。もはや弱小チームなどではない。そして今回のワールドカップ1次リーグでの対戦相手の状況は、ロシア=20位、アイルランド=1位、サモア=16位、スコットランド=7位。

 決してどれも楽な試合では無いが、勝機は充分にあると思われる。これまでラグビーには全く関心が無かった方、また既に観戦チケットを入手した方も、折角のワールドカップなので、大いに楽しみ皆で応援しようではないか。

 さて今回のタイトル「ブレイブ・ブロッサムズ」は日本代表のニックネームである。これは強豪ニュージーランドナショナルチームを「オールブラックス」 と呼ぶのと同様だ。

 そして私は、今年新たに仕入れたブレイブ・ブロッサムズのユニフォームのレプリカを着て、しきたり通りにビールをたらふく飲みながら、家のテレビでゆっくりと、熱い試合を観戦しようと考えているところである。

 「If there is no blood on the line, it is no rugby league」

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気になる言葉遣い

 一旦気になりだすと、どうしようもなく気になって仕方が無い言葉遣いがある。例えばファミリーレストランへ行き、仮に「親子丼」を注文したとしよう。暫くすると店員が出来上がった品をテーブルに置きながらこう言う「お待たせしました、こちらが親子丼になります」。

 いや、ちょっと待って貰いたい。鶏肉や卵等を持って来て、これからそれらを調理して親子丼になると言うのであれば未だ解るのである。しかし既に親子丼として確立された物が、如何にして更なる親子丼になると言うのか。

 もしかしたら、その店の親子丼は一般的な親子丼ではない為、客が戸惑う事がないよう「うちじゃあ、これが親子丼じゃけんね」と宣言する意味で、敢て「なります」と言っているのかも知れない。

 しかし、事が親子丼程度で済めばいいが、これが産婦人科だったらどうなるのか。生まれたばかりの赤子を見せられて「こちらがあなたの赤ちゃんになります」とか言われた暁には、一体どう対応すればいいというのであろうか。

  これは多分、「偏差値低い系アルバイト店員用マニュアル」みたいな物があって、それに書かれているのだろう。そう考えつつ調べてみる事にした。

 そこで先ず料金を徴収し、良質の番組を提供している筈の日本放送協会であれば、必ずしや正確な日本語を把握していると思い、サイト内を探す。やはりあった。

www.nhk.or.jp

 どうした事か何だか煮え切らない。実に不完全燃焼である。何故同じ局内のチコちゃんのように、舌鋒鋭く結論付け出来ないのだろうか。しかし、そうこうしている内に、また新たな気になる言葉遣いが現れた。

 今度はあなたがこう聞かれたとする。「この夏あなたは海外旅行に行きますか?」

 計画がある人は「はい、ピョンヤンへ行きます」(普通は行かない) とか答えればいいのだが、予定の無い人はついこう言ってしまうのではないか。「いいえ、行かないです」

 どうしてキッパリ「行きません」と言えないのだろうか。

 恐らく咄嗟に質問内容を判断し答えようとして、取敢えず相手の質問の「行く」を「ない」という否定形に変え、そのままでは気が引けるのか、「です」を付けて丁寧に聞こえるようにしただけではないのか。実は情けない事に、時折自分でも同じような言い方をする時があるのだ。

 何となく英語で Do you ?で聞かれているのに、yes とか no としか言わないのに似ているような気もする。尚この場合、正確には「Yes, I do」とか「No, I don't」と答えればよい。

 果たしてこのような言葉遣いが正しいのだろうか。再びNHKをチェックする。  

www.nhk.or.jp

 勿論、日本語も時代と共に変化してきた事は認める。従って新しい言い方も、やがて何の違和感も無く定着する日が来るのかも知れない。

 そして私は、かって日本語の乱れを恐らく嘆いたであろう先人達の心情に、一人思いを馳せるのである。

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遠い日の夏休み (2/2)

 前回からの続き。

 

 お目当てのあんみつ屋は玉川通り沿いの、凡そあんみつとは無縁の洒落たビルの二階にあった。この沿線は数年前に開通した首都高三号の高架が空を覆い、今は真夏の日差しを遮っている。店に入るとすぐ僕等は窓際の席に案内された。  

 「来年の今頃は受験勉強で真っ青になっているかな。」何から切り出そうかと散々考えた割には、僕が選んだ話題はあまり面白くないものだったが、彼女は「何処を受けるの、大丈夫よ。」そう答えた。

 店内には駒沢大学の学生らしき男女が五人、どうやら連日報道されている金大中とかいう韓国人絡みの事件について話しているようだった。その中の女性一人が、やけに細長く茶色い巻紙のタバコを吸っているのが目に留まった。

 店員が注文を取りに来て彼女は勿論迷わず「あんみつ」を、僕は散々悩んだ挙句「コーラ・フロート」を頼んだ。僕には喫茶店に行ってコーヒーを飲む習慣が無かった。

 「まだ決めてないけど、国立は無理だし。」「どうして。」

 「数学が全然ダメ。物理も化学も。僕は数字や記号が出て来ると、それだけでもうゾッとしちゃう。」「でも、英語は出来るでしょう、それに現国や古典も。」

 「英語は好きだけど出来るって程じゃないよ。」「そう、でもこの間の英語のテスト、100点じゃなかったと悔しがってたって、ユッコさんから聞いたわ。」「そうかな、覚えてないけど。」

 彼女の声はまるで母親のように優しかった。しかし僕は口に出して言う程、大学受験を気にしていない。ただ少し同情を買おうと、気の弱い振りをしただけなのだ。

 『それにしても何かもっと楽しい話をしなくちゃ。でも楽しい話って一体何だろう』

 「あっ、金魚が跳ねた。」彼女は店内の中央にある、少し大きい水槽の波紋を指して、さもそれが大事件のように叫んだ。

 『普段なら』と僕は思う。『そんなどうでもいい事を騒ぎ立てたり、白々しい話を言う奴は嫌いだった筈だ。しかし今は違う。彼女が殊更驚いた時や、些細な事をくどくどと説明する時も、僕は何故か素直にそれを受け止める事が出来る。当然の事ながら、彼女は他の誰とも異なり、僕を優しい人間にしてくれる。彼女の存在があるというだけで僕の気持ちは落ち着き安らぐ。しかし、彼女はどうだろうか。彼女が僕に与えてくれるように、僕が彼女に与える物は何かあるのだろうか』

 これらはすべて僕の恋するが故の、相手に対する盲目と過大評価が成せる業だった。

 「私ね、本当は高校の間ずっと、こんな風に男の子と二人っきりで話すなんて、絶対無いと思っていたの。」あんみつを食べながら彼女はそう言った。「学校で男の子達がたむろしていると、何だか怖いの。一人一人はそうでもないかも知れないけど。だから、こんな事初めてだから、何だかあがちゃった。」

 店の窓からは西に傾き始めた太陽が、雲の切れ間を通して幾重にも長い光の筋を差掛けて、空と雲と彼女の頬をほんのり赤く染めていた。その時僕は、彼女が美しいと思った。

 「笑わない。」彼女は既に自分で笑い出しそうになりながら僕に訊ねた。「うん。でも何。」僕は何があっても笑わない覚悟を決めた。

 「本当に笑わない。この間みんなに話したら大声で笑われたの。」「約束するよ。僕は日本語を話すようになってから嘘をついたことが無い。」

 「あのね、あんな風に光の筋が見えると、」彼女は夢を見ているような瞳を窓の外に向けた。「あのうちの一本がすうっと伸びて来て、私を何処かへ連れて行ってしまうんじゃないかって、いつもそう思うの。そんなこと考えたりしない。」

 僕は笑わなかったし、別に笑うような事ではないと思ったが、どう反応すればいいのか分からなかった。

 『これは現実逃避願望か他力本願的冒険心か』僕はそう考えた。でも口には出さなかった。「いや、そんな事考えたこともないよ、まるでかぐや姫みたいだね。」それが精いっぱいの回答だった。彼女は少し笑った。

 「ねえ、いつもどんな事を考えているの。」彼女は水を一口飲んで聴いた。「僕はね・・・。うん、何を考えているのかなあ。きっとろくでもない、取るに足りない事ばかりだと思うよ。」実際僕は彼女の事以外、自分が何を考えているのかよく理解していなかった。

 「何だか自己嫌悪になってるみたい。」「うん、そう・・・かな。」僕はその時いっその事、実はずっと前から君の事が好きだった、と彼女に言えばよかったと思いながら黙り込んでしまった。彼女も暫く何も言わずに外を見ていた。

 「寒くない。」漸く彼女は急に思い出したように、両手で肘を覆いながらそう言った。確かに店の冷房は少し効き過ぎだった。僕は同意して席を立った。

 帰りのバスの中では、また文化祭の話で二人に取り留めの無い会話が戻った。僕が先に降りる時、彼女は「今日はとっても楽しかった。どうもありがとう。」と微笑んで見せた。僕は『多分あれが社交辞令というものなのかな』と思った。

 間もなく文化祭が終わり、それから秋が過ぎ、冬を迎え、やがて春が巡って来た。その間に僕等は何度も二人で会い、色々な事を話した。僕は手を繋いだりキスをしたりしてみたかったが、一度もそういう事は起きなかった。

 そして五月の連休が始まる頃、僕等に突然別れが訪れた。僕には何も思い当たる事は無かったが、後からユッコさんに聞いた話によると、彼女は自分の事を何でも知っている僕がだんだん怖くなったと言っていたそうだ。

 『多分僕のせいなんだろう、でも僕に一体何が出来たというのだろうか』

 もしかしたら、彼女が求めていたのは眉間に皺を寄せ、深刻な問題を議論したりする事ではなく、テレビの青春ドラマみたいに臭くてちょっぴり切なくて、最後は夕陽に向かって走りだすような、そんな事だったのかも知れない。

 それでも僕は考えた。たとえ短い時間であったとしても、彼女の気持ちが僕の方に向いたとしたら、それだけでも僕の17年間は無駄ではなかったのではないかと。

 そして彼女は僕を置き去りにして、雲の切れ間から差し込んだ光の筋に乗り、何処か遠い所に行ってしまったのだ。まるで留まる事を知らず、ただひたすら飛び続けるジョナサン・リヴィングストンのように。 

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遠い日の夏休み (1/2)

 大林宣彦監督の作品に「青春デンデケデケデケ」という映画がある。エレキギターブームの火付け役、ベンチャーズに魅せられた高校生達を描いた物語だが、私は主人公が夏休みの終わりに同級生の女の子に誘われ、二人で海水浴に行くシーンが気に入っている。そして、あのような感じの甘酸っぱい思い出を、さりげなく文章に出来ないものかと常々思っていた。

 そこで今回は青春ドラマのショートストーリーを書いてみようと考えた。尚、先月このブログに投稿した昔の童話に味を占めた訳ではない。

 最初は数十年前の実体験に基づく心算だったが、青春は忘れっぽく美化され易い。今ではもう、その記憶が事実か夢かの区別さえつかなくなってしまった。多分、そうあって欲しいという願望が創り上げた妄想なのだろう。

 実はたまたま小生の別のブログに、暫くサボっている連載中の小説があり、その一部を抜粋して以下の通り再編してみた。夏休みが終わって間もないこの時期、喧噪が過ぎ去った浜辺を一人で歩くような気分を出そうと試みたが、技量不足でなかなか思うようには行かない。

 

 「劇、大丈夫かしら。」彼女は額の汗を拭きながら言った。8月初め、高校は夏休み中。とても暑い日だった。彼女は赤い水玉模様の白地のシャツに、ベルボトムのGパンをはいていた。

 9月末に催される最大の学校行事、文化祭で、僕等のクラスの出し物は演劇。菊池寛の「父帰る」だった。1年生の時はディケンズの「クリスマス・キャロル」を上演したが、手分けして作った脚本に一貫性が無く、劇自体が纏まりを欠いたとの反省を踏まえ、同じメンバーのまま2年に持ち上がったクラスで、今回は手堅く最初から戯曲を選んだのである。

 ところで僕は、元来あまり団体行動を得意とするタイプでは無かった。しかし何故か文化祭になるとしゃしゃり出て、いきなりリーダーシップを発揮、有無を言わせず演劇をやると決めていた。その為にクラスの文化祭責任者に立候補し、多数の反対を無理やり抑え込んで、一部の賛同者と力を合わせ実行まで漕ぎ着けたのだった。

 「多分上手くいくと思うよ、割と皆乗って来たから。」僕は答えた。「そうね、今日の練習、前よりも一段と熱がこもっていたみたい。池田君の賢一郎、少し怖い位だったもの。」そう言って彼女は思い出し笑いをした。彼女も僕が無理やり引き込んだ文化祭の責任者の一人。そして僕はずっと前から彼女の事が好きだった。

 その日は夏休み中にも拘らず、出演者とスタッフ一同は登校して劇の稽古を行っていた。それが終わり、帰り道が同じ方向の僕等二人は、学校からバス停へ続く桜並木を歩いて行った。真夏の太陽は容赦なく照り付け、彼女は何度も汗を拭い、薄手のシャツからは下着がくっきりと透けて見えていた。

 「演劇の事、随分詳しいのね。」彼女がそう聞いた。「そんなことないよ。僕の姉が高校の時、演劇部にいてね、それで少し教えて貰っただけ。」ともすれば彼女の胸に行きそうな視線を逸らし僕は答えた。

 「ふうん、そうなの。メイクアップも。」「うん、そう。」

 「去年のクリスマスキャロルの時、ユッコさんにしてあげたでしょう。」彼女はいたずらっぽく少し笑った。そして「私にはしてくれなかったけど。」と呟いた。彼女もマーサという役で出演者の一人だった。

 僕は彼女の真意を図りかねた。前に一緒に帰った時は、バスの中で一言も口を聞かなかったのに、今日は妙に思わせぶりな事を言う。女の子は判らない事だらけだ。

 やがて渋谷行きのバスが来て、前扉から乗り定期券を運転手に見せる。席は空いてなかった。

 「私ね、夢を見るのが好きなの。朝起きたらすぐに今見たばかりの夢をノートに書いておくの。」彼女は吊革につかまって、流れ去る外の景色を見ながら唐突にそう言った。その大きな瞳は美しく輝いている。

 「それでね、夢で見た事が、後になって実際に起きるの。」

 『おいおい、オカルトみたいな話題は勘弁してもらいたいな』と僕は思いつつ、少し前に買ったまま放置しているG.フロイトの「夢判断」を読んでおけば良かったと後悔した。彼女に明解な解答、と言うよりも知ったかぶりが出来るチャンスを逃してしまったからだ。そして彼女の会話がいつも脈絡がなく、支離滅裂である事を不思議に思うのだった。

 『確かに彼女は時々、考えもつかないような事を突然口にする癖があるように見える。それが本性なのか、それともあまり饒舌ではない僕への思いやりで、思いつくままに話しかけて来るのだろうか』

  僕等が乗ったバスは各駅停車だった。そしてそれはとても重要な問題であった。何故なら「各駅」は彼女の家がある三宿に停まり「急行」は通過する。僕は三宿の手前の三軒茶屋に住んでいて、このままでは僕が先に降りなければならない。仮にこれが急行であったならば、彼女は三軒茶屋で一緒に降りることとなり、その後の二人の行動に大きく影響を及ぼす。即ち降車後、新たな展開が起きる可能性が残されるという事だった。

 従ってこの状況下、彼女との親密な時間を更に延長する為には、僕は三軒茶屋に着く前に勇気を振り絞り、彼女に対して何らかの形で一緒にいたいという自分の意志を示す必要があったのだ。

 冷房の効いた車内で吊革に掴まり並んで立っていると、それまで僕に視線のやり場を困らせていた彼女の透けた赤い水玉のシャツも、汗の乾きと共に正常に戻って行き、それはそれで僕を残念な気持ちにさせていた。

 そんな事は全くお構いなく、バスは国道246号線のだらだら坂を登って行き、もうじき駒沢という時、僕と彼女は殆ど同時に「あの・・・」と言いかけ、僕は彼女にその先を譲った。

 すると彼女は少し恥ずかし気に、けれどもはっきりと「駒沢に美味しいあんみつ屋さんがあるの。もし良かったら、これから一緒に行きませんか。」と天使のような声で誘ってきたのだった。『なんと、彼女も同じ事を考えていたのか』僕の心拍数は上がり、気が付くと不覚にも少し勃起していた。

 僕は以前からそのあんみつ屋の噂は聞いていた。それは学級委員をしているユッコさんが、時折音頭を取って女生徒だけを集め、井戸端会議をしているという話で、それが彼女が皆から「安美津子」というあだ名で呼ばれている所以でもあった。

 勿論僕に異存などあろう筈は無く、今度は自分の下半身の異変に対する彼女の視線を気にしながら、大きく頷いて「はいっ、勿論、喜んで。」と上ずった声で答えた。その声は思いのほか車内に大きく響き、数名の乗客が何事かと僕等の方に顔を向けた。それを見た彼女は、下を向き声を殺して肩を震わせている。

 『もしかしたら僕達は恋人同士に見えるかな。そしてそんな風に思う感覚って、何て素敵な事なんだろう』

 車窓から少し賑やかな景色が見え始めた時、運転手は次の停車駅が駒沢であることを告げた。僕は待ちかねたように降車のボタンを押して彼女に微笑みかける。すると彼女は、他の乗客には悟られないような振りをして、いわくありげに眼だけで笑顔を作った。まるでこれから二人で銀行強盗に行くみたいに。

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野に咲く花の名前は知らない

 最近、自分に備わっていない非常に残念な事が、幾つか思い当たる様になった。そのひとつが「草花の名前を知らない」である。植物園や花屋の店先で綺麗な花を見ても、その名前が判らない。いい歳をして全くお恥ずかしい限りである。

 何故そんな事になってしまったのだろうかと考えてみても、多分そのような知識を習得する機会に恵まれなかったからだとしか言いようがない。

 勿論私にも趣味が高じた結果、妙に詳しい分野もある。しかしそれはマニアック且つオタクのようで何の自慢にもならない。

 それに引き換え、飲食店などに飾られたフラワーアレンジメントを見て、「このXXXは綺麗だね」とかさらっと言える人が、途轍もなく格好良く見えて羨ましくてならない。それこそが素養とか教養といった類のものではないかと私は思う。

 それでも私は花が好きだし、毎週安い生花を買っては家に飾っている。そして偶には写真を撮りに出かけたりもする。

 という訳で今回はある植物園で最近撮影した写真集、良ければ御覧頂きたい。但し花の名前の問い合わせには、残念ながらお答え出来ないので悪しからず。

 

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韓国1995(2/2)

 韓国の話を続ける。

 

3. 冷たい店員

 研修中の食事は幾分キムチの臭いに閉口したものの、基本的には何でも食べられる体質が幸いし事なきを得た。ただ気になったのはレストランの店員がどうも冷淡というか、殆ど愛想が無いことである。

 別にこちらが「私は客だぞ」と横柄な態度をとった心算はないのだが、例えばメニューを指さし料理をオーダーしても、返事も無ければニコリともしない。かと言って、ちゃんと品物は持って来てくれる。儒教道徳に基づいた「東方礼儀の国」を自負する韓国のイメージと、この現実がうまく結びつかない。

 この「無愛想」は韓国を訪れる日本人旅行者の定番の感想であるという。このことから韓国の礼節は単に形式だとの批判も聞くが、よく耳にする「年長者の前で煙草は吸わない。酒を受けた時は横を向いて飲む」に代表される「孝」の美風とサービス精神は別物なのである。それだけの事であろう。

 現地ガイド女史は「韓国はサービスの面で遅れている」という言葉で説明し、レストランで彼女自身が店員に代わり、我々に食器やグラスを配る姿を何度も目にした。どうやら韓国では接客業は賤業であるらしいのだ。

 歴史学者古田博司の「朝鮮民族を解く」によれば、接客業の中でも特に食堂、床屋、酒場が卑しまれ、さらに食堂は床屋を、床屋は酒場を蔑むといった序列があり、学校においては遅ればせながら「サービスをする人への感謝」を教化しているという。

 私としては賤業についたことが「恨」となって愛想が無くなったのだと短絡的に考えてしまう部分もあるが、何に対してもつい曖昧に微笑む傾向がない事だけは事実である。

4. 韓国は家族命?

 釜山から慶州を経由しソウルに至る移動はすべてバスである。ガイド女史は我々に先ず簡単な朝鮮語での挨拶等を教えてくれた後、韓国について様々な事を語った。その中で特に印象に残ったのは、男子が非常に大事にされているらしい状況である。

 この国では跡取りとしての男子が重要視され、その為、嫁はとにかく男児を出産しなければならない。女子でも生もうものなら、姑から露骨に嫌な顔をされ、次は必ず男とのプレッシャーがかかる。極端な話、男が生まれるまでガンバル傾向にあるという。

 そして結果として男児が生まれなかった嫁は悲惨である。離婚されても仕方がないし、夫が他所で子供を作って来ても文句は言えない。従って息子を養子に出すなど言語道断の行為なのだ。韓国には確か姦通罪があったはずであるし、ホンマカイナ?と思うが、ガイド女史は真面目である。

 また同じ姓名同士の結婚は出来ないという。金や朴に代表される同一姓が多そうな韓国で、そんな事があるのかと不思議に思い調べてみると、確かにあった。ものの本によれば、朝鮮民族の社会は宗家という男子の単系血族の集合体から成り立っており、先祖発祥の地(本貫)を冠した同族名=例えば「慶州李」=で示され、本貫が異なれば問題は無いが、同族では結婚出来ない。これは同姓婚の禁止として法律になっているとある。

 しかも済州島の高氏、梁氏、夫氏は、先祖が島の三姓穴という穴から同時に飛び出してきたという神話から、同じ宗家だと信じられ婚姻しないそうである。そしてロイヤリティの対象は国や政権よりも、自分の門中にあり、先祖の勲功に多大な関心を示す。

 在日韓国人作家つかこうへいの「娘に語る祖国」にも次のような件がある。「韓国のおじさんの家には、百科事典みたいに何冊も家系図がありました。出身も慶尚北道の金銘金賀という名家だと、よく自慢していました」

 ちなみに先の男児優遇についての言及はどこにも見当たらなかったが、本当なのだろうか。 

5. ヒロインはショートの茶髪

 その国の文化を知るひとつの方法は、地元のテレビ番組を観ることである。という訳で、夕食後はホテルの部屋で一人テレビを見て過ごした。5局程の国内放送の他、CNNとNHKのBSの2局が映る。

 同じ東洋人で似た様な顔形をしているのに、言葉も文字も全く理解出来ない。やはりこれはかなりショックを受ける。それでもめげずにチャンネルを回し続けた。

 日本で言うワイドショー的なものがあり、夕方は子供向けアニメ、コンピュータゲームとクイズを組み合わせた番組、そしてドラマ。赤縁のメガネをかけたイヤミそうな姑と「冬彦さん」風気弱そうな青年。茶色に染めたショートカットの若い女性。直観的にこれは韓国のミポリンだなと決め付ける。フーミン似の間抜け顔のネエチャン等も出てきて、ボディコン・スーツを纏い颯爽とオフィス街を歩いて行く。「・・・ふむふむ、これは所謂トレンディードラマだな。」と勝手に納得しながら、更にチャンネルを回すと、ニュース番組をやっている。男女一名ずつ司会者がいて、時折レポーターも登場する。

 そう言えばニュースキャスター達も含め、女性は結構茶髪が多い。言葉は理解出来ないが、どれも日本のテレビで見慣れた光景である。

 韓国では日本の大衆文化(映画、歌謡曲、漫画、週刊誌等)の流入を規制しているというが、一般市民が通勤途上に購読するスポーツ紙、ストレス解消のカラオケやゴルフ、アニメのキャラクターに至るまで、日本のそれを原型ないしは媒介型にするものも多い。

 中には著者名を隠し、いかにも韓国製であるかのような体裁の劇画が販売されているとの事。それでいて韓国は一般的に、かって日本に大陸文化を伝授してきたという優位性を誇りにし、日本は単に外国文化をごちゃ混ぜにコピーした文化であるから尊敬出来ないという立場に立っているのだそうだ。

 テレビのコマーシャルも賑やかである。やはりご当地もマルチメディアブームなのか、最近日本でも見るサムソンのパソコンのCMが目を引く。意味不明のハングル文字の後に95とある。この一文字は絶対「窓」という言葉だと、またしても決め付けてしまった。 

6. 違和感の行方

 自然環境、歴史、文化が異なる外国に対し、我々は多くの部分で違和感を覚える。肌の色、言語、思想、作法等々。

 今回初めて韓国へ行き、確かに日本と異質なものを感じ、戸惑う部分も多くあった。不適切な例えかも知れないが、これがアフリカ辺りのあまり馴染みの無い国であれば、その違和感を当然のこととして受け止める筈である。

 そのような意味では、韓国とは関係が深く、顔形が似通っているが為、つい日本人と同じような民族だろうと考えてしまう。また更には同じでなければならないと思い込む。

 しかし現実は多くの類似性と異質性を持った民族なのであり、その違いだけをとらえてそれが韓国であると表象し、ましてや劣っているとか怪しからんと言うのは間違った態度であると考える。

 何故ならば日本は世界の模範国家でもなく、韓国が日本的に変わらなければならない理由など何処にも無いからだ。

 結局「正しい歴史認識」についての知識は相変わらず何もない。ただ今回韓国へ行くにあたり、韓国に関する書物を数冊目を通しただけではあるが、例えば日本人にとっては「前の世代の不幸な過去」であっても、そのような言葉自体、先祖からの脈々とした血族意識を尊ぶ韓国人にしてみれば、「子孫が負うべき先祖の罪からの逃避」としか写らないであろうことが、おぼろげながら認識出来るようになった気がする。

 要は相手を知る事から始めなければならないということだろうか。その意味でも、やはり「百聞は一見に如かず」である。

    

  

 この文章は、オフィシャルな感想文を書けとの事であった為、諸般の事情を忖度して随分ソフトな表現に終始した。

 現在、私は韓国の文政権が目指しているであろう方向性に、少なからず危うさを感じている。即ち、若しかの国が米国の傘から離れ、南北統一を果たし、中国共産党支配下に入るとしたら、極東に新たな緊張感を生む火種となる事は間違いないからである。

 1990年、我々は東西ドイツの統一を目の当たりにした。第二次世界大戦後、米ソの思惑により分断された民族が、一つに戻りたいと願う事は至極当然な事である。しかし文在寅というリーダーは、あたかも幼児後退するかの如く、祖国統一後、宗主国中国への朝貢を強いられた属国としての長い歴史を、敢て再び蘇らせようとしているとしか思えない。

 親愛なる韓国民よ、君たちは今、何処へ行こうとしているのだろうか。<終>

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