新年会するするぅ

 大学を卒業して彼是〇十年。我々同級生三人は、相も変わらず時折顔を合わせては酒を酌み交わす。

 かってそれは、別段特別な事では無かった。互いの家を行き来し、一緒に旅行へ出掛け、ふと思いついた時、電話一本で集合する。

 やがて夫々が家庭を持ち、本人や家族が難しい病に罹患したり、年老いた両親の介護に追われた時期もあった。

 それでも今、こうして会う事が出来るのは、殆ど奇跡と言っても過言ではなく、かけがえのない幸せだと言える。

 我々はもう決して若くはない。いつ何時、重篤な疾病、寝たきり状態、痴呆症など、起こり得るリスクは数え切れない。

 言葉にこそしないものの、我々にとってそれは暗黙の了解であり、故に「会える時には可能な限り会う」という事を大切に考えているのだ。

 「今を尊ばなければ一体いつという時があるのか」。何時、何処で誰が、そう語ったのかは思い出せない。しかし何故か忘れられない言葉となった。

 勿論、常に悲壮な決意を胸に生きている訳ではないが、今年三度目あたる私の新年会は、東京日本橋にある老舗洋食屋「たいめいけん」。早速行ってみるとしよう。

 

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 茶色の建物が「たいめいけん」。5階には「凧の博物館」(ヘッダー画像 参照)がある。

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  先ずは乾杯。

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看板メニュー、50円のコールスロー。     

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カニクリームコロッケと牛レバーフライ。個人的にはこのレバーはどうも・・・。

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タンポポオムライス(伊丹十三風)、焦げ目の無いオムレツがプロの業。

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 バターたっぷりのオムレツ。所謂「ふわふわトロットロ」

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何故か「ラーメン」。しっかりとした味、簡単に言えば濃い。  

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 年寄りにはシェアすると丁度いい量。

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 このコースターを100枚集めると『3万円分のお食事券プレゼント!』という企画は、無い。

 さて、これで終わってしまっては芸が無いので、今回は「たいめいけん」看板メニュー、コールスローのレシピを添付する。興味のある方はトライして頂きたい。

www.taimeiken.co.jp

未だ咲いとらん梅(ばい)

 全く何の脈絡も無く、いきなり九州弁のタイトルである。しかも「梅」の訓読みと彼の地の方言特有の接尾語「ばい」で韻を踏むという高レベルの親父ギャグなのである。と、一人悦に入ってみたものの、何か物足りない。

 気象庁発表によれば今年は暖冬だという。ならばそろそろ梅が開花しても良さそうな物だが、私が居住する地域では、まだまだ先の事になりそうだ。

 それでも何か、この時期に咲く花はあるだろう。それも  ♪ 山茶花 山茶花咲いた道 ♪ や ♪ 花は越後の雪椿 ♪ などではなく、もう少し洒落た花はないか・・・。と考える。

 そこで思いついた。確かに梅は未だだが、だからといって狼狽する必要はない。狼狽?、老害、老婆、そうだ「蠟梅」があったではないか。チト苦しい。

ja.wikipedia.org

 という事で、マンネリ感は否めないながら、私はまたカメラを持って車を走らせた。

<本日のメニュー> 

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先ずは季節の花から。

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ここからが蠟梅。

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 マンゲツロウバイ(上)とソシンロウバイ(下)

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以下はおまけ。

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2020年1月 埼玉県川口市  川口グリーンセンターにて撮影

「明日に架ける橋」から50年

 何気なくフェイスブックとインスタグラムを開くと、『1970年1月26日、「明日に架ける橋」(Bridge Over Troubled Water)がリリースされた』という記事に目が留まった。

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 「そうか、あれからもう50年も経つのか」

 多くの人には多分、それぞれ強い思い入れと共に、忘れられないミュージシャンがいるのではないかと思う。ある人はそれがビートルズボブ・ディランであったり、はたまた尾崎豊ピンクレディーだという事もあるだろう。

 それは我々が最も感受性が強い時期に、「偶然起きためぐり逢い」とも言える出来事かも知れない。そして私にとってのそれは、紛れもなくサイモン&ガーファンクルであったと断言出来るのである。

 私が始めて彼等の歌を聞いたのは、ラジオから流れる「サウンド・オブ・サイレンス」。その曲を使った映画「卒業」が公開中で、私は未だ小学生だった。 

 やがて私は販売されているサイモン&ガーファンクルの全てのアルバムを集め、更にはギターを買って貰い、中学では二人でコピーバンドを組んで、以後どっぷり音楽にのめり込んで行った。

 S&Gがデビューしたのは1964年の事で、流石にその頃は全く知らず、彼等のキャリアは全て後追いであったが、「明日に架ける橋」以降はまさしくリアルタイムで経験した事ばかりである。

 それらを書き出せば(もし書く事が出来れば)優に分厚い本一冊が完成するだろうが、残念ながらそこまでの気力も技量も持ち合わせてはいない。

 その代わりに長年のS&Gフリークとして、真偽の程は定かではないものの、この「明日に架ける橋」に纏わる逸話を幾つか書いてみたい。

 1. 曲のタイトルは当初「Hymn」(讃美歌)であった。

 2. サイモンはこの曲を書き上げた時、これは今までの中で最高傑作だと確信し、すぐさまガーファンクルに聴かせたところ、意外にも彼の反応は冷淡であったという。後にガーファンクルは「いい曲だとは感じたが、最高傑作では無く、歌いたいとも思わなかった」と述懐している。

 3. サイモンは最初からガーファンクルが歌う事を想定して作ったが、ガーファンクルはサイモンがファルセットで歌った方がよいと逆に励ました。

 4. この曲は当初2番までしかなかったが、ガーファンクルやプロデューサーのロイ・ハリーの進言によって、サイモンはスタジオで3番の歌詞を書き足した。

 5. その3番の歌詞にある「Sliver girl」という言葉は、当時サイモンの妻だったペギーの髪に白髪が混じっていた事による。

 8. アルバム発売前に行われたカーネギーホールでのコンサートチケットは完売し、この曲は観衆から熱狂的支持を受けたにも拘らず、ニューヨークタイムズは「うんざりするような、まさに感傷を全面に押し出した信仰の歌」と評した。

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 まだまだこの他にも興味深いエピソードはあるが、機会があればいずれまた。

 ところでこの1970年、偶然、ビートルズも力強いピアノのイントロで始まるゴスペル調の曲「レットイットビー」を発表している。

  それを「時代の要請」と捉える向きもあるようだが、多分考え過ぎのような気がする。何故なら両者共、それ迄共に音楽を追求して来たパートナーとの関係に綻びが見え始めた時期であり、それを片や「荒れ狂う水に身を投げ出そう」、一方は「あるがままに」と歌っているからである。尚、それから間もなくして両者は解散している。

 さて、何れにしても私にとってS&Gは、単に好きなミュージシャンというだけに止まらず、物の見方、考え方、そして性格や行動やに至るまで大きな影響をもたらし、ある意味、今ある自分を形成したとも言える存在である。

  その中で「明日に架ける橋」は、 ポール・サイモンという傑出したソングライターとアート・ガーファンクルという稀代のヴォーカリストが、それぞれの奇才を遺憾なく発揮した賜物と言えよう。

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  まさかこの曲をご存知無い方がいるとは考えられないが、念の為にYouTubeを添付する。

 レコードでこの華麗なピアノアレンジを担当し、自ら弾いているのはスタジオミュージシャンでブレッドのメンバーでもあったラリー・ネクテル。


Simon & Garfunkel - Bridge Over Troubled Water (Audio)

 後にセントラルパークのライブでは、スッタフのメンバー、リチャード・ティーの、よりゴスペル色が強いピアノプレイを聞く事が出来る。 


Simon & Garfunkel - Bridge over Troubled Water (from The Concert in Central Park)

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新年会するぅ

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 ♪ 1月は正月で酒が飲めるぞ 酒が飲める飲めるぞ 酒が飲めるぞ ♪ と歌う「酒が飲める音頭」をご存知の方は多分少ないと思うが、1月10日に投稿した「正月には福食べて」に続き、またしても「新年会するぅ」(スルーではない)なのである。

 今回肴に選んだのは、先日たまたまテレビで視て、無性に食べたくなった「串揚げ」。 揚げ物はトンカツをはじめ海老や牡蠣、鯵フライに至るまで、決して嫌いではないものの、如何せん熱量が高くデブる素なので、普段は極力避けている料理だ。

 因みにダイエット本の中には、油を吸った衣を剝がし、中身だけ食べると良い等とふざけた事を書いた物もあるが、だったら最初から食べなければいいだけの話だ、と思う。

 それでも一旦行くと決めたからには、早速ネットで候補の検索開始。「ソース二度づけ禁止」を声高に謳うコテコテの関西風の店も悪くはないが、滅多に食べる物ではないし、何と言っても正月である。慎重に吟味した結局、東京は赤坂にある少しオサレな店を予約して、期待に胸を弾ませながら乗り込んだ。

 夕刻、店内に入ると場所柄か、いかにも花柳界関係者と思われる黒留袖の女性が二人、先に来て既に始めている。店員と親し気に話すところを見ると常連のようだ。こんなものばかり食べているから太っているのだろう。

 思わず私が「よっ、姐さんイキだねぇ」と声を掛けると「馬鹿だね、あたしゃ帰りだよ」と返され、「ねえ、キスしてもいいかい」と口をすぼめれば「嫌よ、マタにして」と答える、と言うのは全て嘘。

  ともかく定番の「おまかせコース」を注文。腹が一杯になりストップをかける迄、出された物を食べ続けるシステムである。いざ!

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 串揚げを写真に撮ると、どれも同じ様に見える事が判明。

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 食べ始めは勢いが良かったが、流石に油ものは直ぐ腹に溜まる。当初の意気込みとは裏腹にあえなくストップ。辛うじて締めに「稲庭うどん」を流し込み、この日は終了。非常に満足であった。

 尚、冒頭の「酒が飲める音頭」、来月は ♪ 2月は豆まきで酒が飲めるぞ ♪ なのである。

お年玉付き年賀はがき

 「成人の日」が平成11年(2000年)、ハッピーマンデーという名の下に、1月第2月曜日に移動してから既に20年。それでも尚、私の感覚はかっての1月15日まま。多分もう上書きはきかないだろうが別にそれで困る訳ではない。

 記憶が正しければ、以前は確かその15日に「お年玉付き年賀はがき」の抽選が行われていた筈で、今年はどうなったのかと、届いた賀状をよく見れば抽選日は1月19日と書いてある。 

 仮に当選したとしても、せいぜいお年玉切手シート程度なのだが、それでも子供の頃は当選番号と照合する際、ワクワク・ドキドキして、下一桁が掠っていようものなら、途轍もなく大きな幸運を正月早々逃してしまったかのような気分になったものである。

 「年賀状離れ」と言われるようになって久しいが、調べると確かに年賀葉書の売り上げは2003年の44億枚をピークに減少が続き、昨年末は23億枚になっている。恐らく廃止する企業の影響が大きいと思われるものの、個人に於いても同様の傾向が散見される。

 まあ面倒だし、一枚62円とはいえ纏まった数になれば出費も嵩む。そして何よりそれに代わるツールとして台頭してきた電子メールやLINE等SNSの存在は大きい。

 おまけにかんぽ生命保険を始めとする日本郵政グループの不祥事もあり、幾らPRに解散間際の国民的アイドル「嵐」を起用したり、賞品に現金30万円や東京オリンピックのチケット、ふるさと小包の特産品といった物を掲げても、この流れを止める事は多分不可能であろう。

 かく言う私も長年続けて来たこの習慣を、しばらく前に止めてしまっていたが、それでも毎年送ってくれる人もおり、ふと思い立って、出状数を大幅に減らし昨年から復活。

 かって小学校の高学年の頃に版画の年賀状を始め 多い時には4枚の版木を使う多色刷りに挑戦。時間と手間はかかるわ、部屋中葉書だらけになるわで、一人で大騒ぎしていた頃もあったが、今は全てPCで作成するので味気ないが、負担にもならない。

 2年前、中学3年の時一緒に学級委員やっていた女の子から届いた賀状に、2021年、クラス会を開催しようと書いてあり、昨年こちらに異存は無いと伝えていたところ、今年は先方から、そろそろ実施に向けての打ち合わせをしたい旨提案があった。

 卒業から随分時が流れ、現在、一体何人の同級生と連絡を取る事が出来るか全く不明である。しかし細い糸を手繰るように何らかの伝手を辿って、一人一人探し出すのも面白いかも知れない。そんな風に思った。

 それにしても、その程度のやり取りならば、それこそSNSで行えば一瞬で事足りる。勿論そんな事は判っている。だが年に一度の交信で、用件を伝え、実行に結びつけるというまるで前世紀のようなやり方が、不思議でもあり、また懐かしくもある。

 ところでお年玉抽選の結果だが、残念ながら今年の成果はゼロに終わってしまった。

 尚、当選番号は以下の通り。

www.post.japanpost.jp

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シンクロニシティ

 先ず最初に。このタイトルを見て、大集団女性アイドルの歌についての記述だと思った方、申し訳ない。そうではないので悪しからず。

 さて1995年1月、未だお屠蘇気分が抜けない内に、私は初めてインドネシア共和国へ向かった。目的は観光ではなく、旧通産省所管の外郭団体から委託されたFSの為で、経費はすべて税金で賄われるが、それなりの調査を行い報告書作成義務を負っていた。

 調査内容について書き始めると、それだけで紙面が尽きてしまうであろうし、また道中で起きた様々な出来事は、非常に興味深く得難い体験であったが、今回の本題では無いので、いずれ機会があればご披露する事としたい。

 真冬の成田から赤道直下のジャカルタを経由、空路スマトラ島最北端の都市バンダ・アチェへ。そこからペダンまで車で南下するという行程で、所要日数は10日間。「飯はナシ、人はオラン、私はサヤ」等と呟きながら、メンバー3名と共に1月17日、最初の目的地バンダ・アチェに到着した。

 古くは港町として栄えたこの都市は、敬虔なイスラム教徒が居住する事で知られ、流石に高層ビル群は無いものの、広い大通りには美しいモスクと様々な商店が並んでいる。

 事前に治安があまり良くないとのインフォメーションがあった為、我々は集団で行動したが、中心街を歩く人々はまるでスローモーションの動画を見るように、のんびりと正にジャラン・ジャランしているのであった。

 夕食を終えホテルの部屋に入り、取敢えずテレビを点けた。そして私の目は映し出された画面に釘付けになった。

 何処か場所は定かではないが、それは間違いなく日本の都市だった。少なくとも見慣れた東京ではない事だけは確かだ。 そして、そこでは、信じられない事に、高速道路の高架が土台から倒壊している。

 地震が発生したように見えた。しかし幾ら地震大国とは言え、このような壊滅的な破壊が起きる筈はない。これはまるでパニック映画ではないか。そう思った。

 それが私が見た、後に「阪神淡路大震災」と名付けられる大惨事の第一報だった。

 番組は華僑向けの衛星放送だったのだろうか。音声は中国語、字幕はアラビア文字。もし逆であれば、漢字を見て少しは推測出来たかも知れないが、当然何を言っているのか全く理解出来ない。

 そのうち場面が変わると、今度はなんと大正12年に起きた関東大震災の白黒の記録映像である。私は部屋から神奈川県に住む父親に電話をかけ、大きく被害を受けたのは阪神地区である事、また高速道路だけではなく新幹線や在来線の橋脚も倒壊した事、おびただしい数の犠牲者が出ている事などを聞いた。 

 眠れない夜を過ごした翌朝、ジャカルタに支店を置く日本の商社が、新聞記事をFAXで送ってくれ、連絡を取りたい人の有無を訊ねて来た。その活字を読んで漸く、何が起きたのか受け入れる事が出来た。それが私の1月17日だった。

 

 それから9年後、2004年12月26日。その日は日曜日で自宅のテレビを見ていると、ニュース速報のテロップが流れた「インドネシアスマトラ島沖で地震発生」。

 やがて現地の映像が届いた。あのゆっくりと時が流れていたバンダ・アチェの街と人が巨大津波に飲み込まれてゆく。

 それがアチェの南南東250kmで発生したスマトラ島沖地震である。この天変地異はマグニチュード9.1という凄まじいエネルギーを放出し、1900年に起きたチリに次いで2番目に大きな地震と記録された。

 更にその直後に発生した津波は、時速700kmというジェット機並みの速度で海を駆け抜け、その高さは平均10m、最大34mに達しバンダ・アチェの地形を変えたと言われている。

 取敢えずは、それだけの事である。

 これは唯「阪神淡路大震災が起きた日に私がいた場所が、偶々後になって大きな津波に襲われた」という事に過ぎず、そこには何ら関連性や因果関係は無く、まして私の身に起きた超常現象や怪奇現象、神秘体験などでは有り得ない。よくある偶然と言ってもいい。

 それでも今日1月17日、25年前のこの日に起きた大震災を伝える報道を見聞すると、どうしてもスマトラ島の景色が重なって見えてくる。

  恐らくその感覚を、スイスの心理学者カール・ダスタフ・ユングが提唱した「シンクロニシティ」と呼ぶのは間違いだろう。ただ私の意識の中では、今なお二つの災害が、時を越えて同期しているように思えてならないのである。

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愛と希望と勇気の日

 今朝、車のエンジンをかけるとナビが起動して「今日は1月14日、火曜日。『愛と希望と勇気の日』です」と言う。

 昔「愛と勇気と有給休暇」というキャッチコピーの「シティ・スリッカーズ」なるコメディー映画を観た記憶はあるが、調べて見るとそれとは全く何の関係も無い二匹の樺太犬の物語であった。

 1956年、我が国の第一次南極観測隊昭和基地で越冬するにあたり、犬ぞり用に樺太犬22匹を帯同した。

 翌57年、交代する第二次隊を乗せた南極観測船「宗谷」は、悪天候に阻まれ基地付近までは到達出来ず、58年2月、越冬計画を断念。搭載機で基地にいる第一次隊員を収容したが、樺太犬15匹は荷重超過になる為、置き去りにせざるを得なかった。

 果たして59年、第三次隊で新たに導入したヘリコプターは、昭和基地付近に2匹の犬がいるのを発見する。それが1月14日の事であり、発見された犬は、奇跡的に生き延びたタロ、ジロという兄弟だった。

  以上がこの「愛と~の日」の謂れである。と、ここまではすんなり判明した。ところがこの名称をいつ誰が制定したのかが判らない。それでいて「今日はXXXの日」と得意げに言うのはあまりにも無責任かと考え、日本記念日協会という社団法人のサイト等を見たりしたが、それらしき物を発見出来ず、面倒なので諦める事とした。

 ただ私見ながら、発見された時代を考えれば、そんな洒落た言い方はしないような気がしてならない。それにしても「愛」は一体どこにあるのだろうか。

 さて、幾ら悪天候とは言え、南極観測船ともあろうものが目的地に到達出来ないとは情けない。と思う方もおられる事だろう。こちらについても調べてみた。

 そもそもこの「宗谷」という船は1936年、ソ連外商部が日本に発注し、38年に進水、竣工した耐氷構造を持つ商船なのである。

 それがその後の戦局などによって大日本帝国海軍の特務艦となり、何とあの「ミッドウェー海戦」にも参加、更にその後魚雷を被弾しながらも不発だった為沈没を免れるなど、奇跡的に終戦まで生き残った。

 戦後、南極観測船として選定されたのも、他に砕氷能力が高い船舶があったのも拘らずその強運を買われたからで、何とも全く非科学的なのである。事実、第一次の時はソ連砕氷船「オビ号」、第二次では米国の「バートンアイランド号」の援助を受けている。

 従って南極へ向かった1958年時点では、既に船齢20年を超えた老朽船であり、そんな船で運だけを頼りに南極に向かうしかなかった我が国は、やはり未だ貧しい国だった事が伺える。

 そう考えれば「勇気の日」という表現も、あながち的外れではないかも知れない。などと無理やり纏めてみたが。

 尚「宗谷」は現在、東京お台場にある「船の科学館」に展示、一般公開されている。

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