ただその40分間の為だけに(22)

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 1974年9月、新学期が始まると校内の雰囲気は一気に文化祭一色に染まった。各クラスとも連日夜まで居残り準備に追われていたが、学級単位の催し物には一切関わっていない「ヒナコさんグループ」の面々も同様に連日連夜練習に明け暮れていた。

 午後6時以降校内に残る場合、本来ならば所定の用紙に人数、用件、下校時刻を記入、担任の認印を取った上で、学校へ届け出る旨校則に定められていた。しかし何故かクマ達は一度も書いた事は無く、それでいて特に咎められもしなかった。

 勿論それは、これまで彼等が素行上、何ら問題を起こしていないという実績のお陰かも知れなかったが、校内で喫煙している生徒など掃いて捨てる程いたにも拘らず、誰かが停学処分や厳重注意を受けたという話も殆ど聞いた事がなかった。すべては70年初頭まで吹き荒れた「学生運動」によって、「規律」という言葉が荒廃し形骸化したせいだったのだろう。 

 そのような中、本番を間近に控えた「ヒナコさんグループ」の状況を、音楽的リーダーの立場であるクマは次のように分析していた。

 『アンサンブルはある程度のまとまりが出てきたが、自分が示したハーモーニーの旋律は、各人の勝手なセンスが微妙に反映されてしまい、完璧な3パートとは言い難い状況である。しかし、事ここに至って、これ以上の修正を要求する事はかえって混乱を招くだけと判断されるので、言いたい気持ちをグッと堪え、甘んじてそれを受け入れるべきだろう。当初の目標だったヒナコとムーが主役で自分とアグリーはバックアップというスタイルは崩れてしまったが、最早、ああだこうだと言ってるような時期ではない。今、大切な事はこの「ヒナコさんグループ」を如何に操縦し、アポロ11号のアームストロング船長ように、目的地に無事軟着陸させる事なのだ』 

 そんなクマの気持ちを知ってか知らずか、アグリーは相変わらず三度下のハモりのパートを平気で逸脱、いきなり三度上に飛んだりしてクマの神経を逆なでにしていた。

 一方、彼等の練習にはメガネユキコがまるでステージママのように常に現れ、黙って聞いていたが、彼女に言わせればそれは「かよわいヒナコちゃん達を危険なクマやアグリーから守る為」で、音楽に関してのアドバイスは全く期待出来なかった。尤も、彼女自身が醸し出す安定感は得難いものであったのは言うまでもない。

 また、元I, S & N のメンバーであるセンヌキも頻繁に顔を出して、気がついた部分に茶々を入れたりしていたが、殆ど役に立つ指摘ではなかった。それよりも彼が何か他の事を言いたげな素振りを見せる方がクマは気になっていたが、敢てそれを聞くことはしなかった。『これ以上、面倒な事は抱え込みたくない』

 

 「そろそろ」クマはそう切り出すと皆の顔を見ながら続けた。「演目を全て決めないと間に合わなくなると思うんだけど」その言葉にアグリー、ヒナコ、ムーの三人は黙って頷く。

 結局「ヒナコさんグループ」には40分間が与えられる事が決まり、その時間内で演奏する曲を確定しなければならない状況だった。世田谷区民会館の本番は27日、もう時間は残っていなかった。

 「それで整理すると、決まっているのは、アグリーの『観覧車』。それからヒナコの『さようなら通り過ぎる夏よ』と『秋祭り』。そしてムーの『ぎやまんの箱』と『ゆりかご』。以上五曲だけど、これでいいよね」

 「そうだね、後二、三曲必要って事か」アグリーが答えるとヒナコがそれに続けた。

 「あとはクマさんの曲じゃない」

 「うん、それで考えたんだけど、僕の『君に捧げる歌』とアグリーの『君への賛歌』をメドレーにして一曲にしたらどうかと思うんだ」

 三人は黙ってクマの顔を見た。

 「この二曲は言ってみれば僕等の記念碑みたいなもので、これをカップリングする事に意義があると思うんだ。勿論フルコーラスじゃなくて短くしたものをくっ付けて。そうすれば1.5曲分くらいの長さで済むと思う。それでキーが僕のがDで、アグリーのがEだけど、繋ぎの部分で転調すれば割とすんなりいける筈だ」

 「そうするとあと一曲」とヒナコ。

 「うん、ほぼ制作完了」クマが答える。

 「どんなん」アグリーが聞く。 

 「デモを作って来たんで聞いてくれる」そう言うとクマはSONYカセット・デンスケのプレイボタンを押した。


もう帰ろう(DEMO)/風のかたみの日記

 「なかなかいいじゃない。軽くてキャッチーだし。これで全部出揃った訳だ。で、この題名は」アグリーの言葉に「出来ればもっとアップテンポの曲があればいいんだけど。取敢えずリストにしてみると」そう言ってクマは黒板に書き出した。

  1.観覧車

  2.さようなら通り過ぎる夏よ

  3.ゆりかご

  4.秋祭り

  5.君に捧げる歌/君への賛歌

  6.ぎやまんの箱

  7.もう帰ろう

 「『もう帰ろう』って言うのか。ラストに相応しいタイトルだな。こうやってリストを見ると、結構それっぽいね」アグリーが笑いながら言う。

 「うん、題名だけだと実際の音が無い分いいかもね」クマは肩をすぼめた。

 「またクマさん、そんな事ばっかり言って」ヒナコが肘で突っつきながらクマを見た。<続>

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ただその40分間の為だけに(21)

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 「それで、お葬式には行ってきたの」ヒナコがクマにそう尋ねた。梅雨明けは未だ発表されていなかったが、校舎の屋上に上がると乾いた風が優しく頬を撫で、遠く駒沢給水塔の青いドーム状の屋根がくっきりと浮かび上がって見えた。

 「いや、それが何でもごく内輪で済ませたらしくてチャコも行ってないんだ。それに病名もはっきりしないし、学校側も口を継ぐんだまま。何か訳でもあるのかな」

 「そう、でも何だかクマさん、仁昌寺先生が亡くなってから元気が無いみたい」 

 「そうかな、身近な人が急に死んだって聞いたら、やっぱり気が滅入るよ。何でそんな事が起こらなければならないのか。未だそれ程経験がある訳じゃないけど、もう少し歳取ったらこんな事も当たり前になるのかな。当たり前になりたくもないけど」

 「そうねえ」ヒナコはそう言うと後の言葉を探すように空を見上げた。

 「もう夏休みだね。去年の今頃は文化祭でやる劇の練習に掛かりっきりだったけど、随分昔の事のような気がする」クマも空を見上げてそう言った。

 「父帰る、でしょ。私も見たわ。今考えるとあのフラフラ帰って来るお父さん役ってアグリーどんだったんだ」

 「文化祭が終わって奴に『それにしてもよくやったもんだ』と言ったら『お前が無理矢理やらせたくせに』と怒られた。でもあの劇は結構観客が多かった。まあ、この学校の文化祭で演劇の出し物は極端に少ないからね」

 「劇は準備や何だかんだ手間がかかって大変だから誰もやりたがらない。でもクマさんは一人で二年四組を纏め上げてやり切った。その実行力は凄いってメガネユキコさんがいつも言ってるわ」

 「そんな事もないよ。最近特に自分は何も出来ないんじゃないかと思う事が沢山ある。仁昌寺先生の事だって、例えばもっと頻繁に図書室に行ってたらどうだったんだろうとか」

 「そうかな、どうして」

 「僕はね、今まであまり挫折って、したことがないんだ。大成功とまで言えなくても、そこそこの成果は挙げられる・・・。そんな風に考えて来たんだ。でもその為には人に対しては随分気を使ってきた心算だし、ある意味考え過ぎな位にね。でも偶に、本当に偶になんだけど、信じられないようなミスを犯してしまう事がある。

 相手が自分に賛同してくれてると勝手に思い込んだり、特に何も言わなくても十分理解されていると勘違いしたり、それでいて言わなくてもいいような何気ない一言を言ってしまったりとか・・・。そしてそのせいで一瞬にして一番大切に思っていたものをみすみす失くしてしまったり。何だか、僕って信じられない位バカみたいだな」

 「そんな事ないよ、少なくとも私やムーは幸せにしてもらってるし、みんなクマさんの事が好きだよ」

 「何故なんだろう、そこに恋愛だとか普通ではない特別な感情が入ってくると、急に冷静に判断出来なくなって必ず間違いをしでかすんだ。そしてその間違いは殆ど致命的で取り返しがつかないような影響を与えてしまう」

 クマはそれだけ言うと少し困ったような顔をして黙った。するとヒナコはいきなりクマの頬にキスした。クマが驚いてヒナコの顔を見ると、彼女は照れ臭そうに呟いた。

 「ナッパさんじゃなくてゴメンネ。でも私、誰にでもこんな事はしないよ」クマはそれには答えずに頷き、少し間を置いて言った。

 「もっとバカな話をしようか。僕がナッパと付き合い始めた時、どんな事を考えていたと思う。僕はもう音楽なんか止めてしまって、勉強に精を出し、いい大学に入っていい会社に就職して、そうやってナッパと幸せな家庭を築く事を真剣に考えたんだ。全く笑っちゃうよね」

 ヒナコはただ黙って首を横に振った。

 「ところがさ、あっという間に振られてしまって。それで今度はもうありふれた幸せになんかに背を向けて音楽だけに生きようなんて、全く反対方向に方針を変えたりするんだ。それってどう思う」

 「クマさんは考え過ぎなのよ。仁昌寺先生が亡くなって感傷的になっているのよ。そんなに突き詰めなくても物事はなるようになるものよ」

 「ケル、ケッサラか」

 「えっ、ドリス・デイの歌」

 「いや、それは『ケセラセラ』。そうじゃなくてサンレモ音楽祭ホセ・フェリシアーノが歌った方」

 「あっ、知ってる。越路吹雪が歌ってた」

  「そうそう。越路吹雪と言えば 『イカルスの星』はいいよね」

 「えー、クマさんってそんなのも聴くの。それとももしかして宝塚ファンだったりして」 

 「いやあ、宝塚ファンはアグリーの母上がそうだけど」

 「ふうん、そうなんだ。アグリーどんのお父さんは警察なんでしょ」

 「うん、あの『あさま山荘事件』があと二、三日延びてたら現地に行く事になっていたみたい」

 取り留めの無い会話を止める者は誰も居なかった。ヒナコはクマの表情が少しずつ柔らいでゆくのが判った。そしてクマは改めて考えていた。『何故、ナッパとはこんな風にフランクに話せなかったのだろう』<続>

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ただその40分間の為だけに(20)

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 「ヒナコさんグループ」を続けながらも、クマは来年二月に迫った大学受験の事を忘れた訳ではなかった。バンド練習の無い日は今まで通り帰宅後直ぐに午睡を取り、夕食を済ませ午前三時まで机に向かう。そして翌朝七時に起きて登校、そのような生活を続けていた。

 これにはある程度ストイックな姿勢必要とされたが、クマは様々な誘惑に対し一旦距離を置いてしまえば、再びそこへ戻るという事は極めて少なく、また苦痛に感じる事も無かった。尤もそれは煙草やアルコールといった常習性のある物を一切嗜んでいないから言える事かも知れなかった。

 テレビに関しても、その頃NHKでは土曜日の夜「刑事コロンボ」という非常に興味をそそる番組が放送されていたが、その時間クマだけは居間から二階の部屋に行き、一度もそれを見た事が無かった。

 唯一彼が視聴するのは同じNHKの「ステージ101」で、その番組の音楽監督を務める東海林修のアレンジを聴く為だった。尤もそれは表向きの理由。実際は「ヤング101」のメンバーの一人、髪が長く瞳が輝いて見える温碧蓮という女性に、あのナッパの面影を追い求めていたからだった。その意味から言えば彼は未だナッパという存在に距離を置く迄に至ってはいなかったのかも知れない。

 

 そんなある日、クマはセンヌキから電話を受けた。

 「オタク、夏休みどっかの講習に行く予定ある」

 「いや、別に何も考えてなかったけど」

 「だったら一緒に行こうよ」

 「うん、でもアナタは東大志望でしょ、コースが違うんじゃないかな。だいたい何処に行こうという話」

 「共通の授業はあるし。それで代ゼミはちょっとなんだから、一橋学院がいいんじゃないかと思うんだけど」

 「代ゼミって良くないのか」

 「いや、メジャー過ぎて大衆向けなんじゃないかと」

 「そんなもんかな、まあいいけど。一応親の承諾が無いと金が出て来ないんで、それを聞いてから返事するよ。応募の締め切りとかあるの」

 「まだ充分余裕がある」

 

 夏期講習の受講を決めて数日後、クマが登校すると校門の前にチャコが立っていた。彼女はいつになく難しい顔をしているように見えた。

 「Long time no see、どうしたの」クマが声を掛ける。

 「あっ、待ってたの。あのう・・・」彼女はクマを見ると酷く動揺し殆ど泣きそうな顔になった。「あの、仁昌寺先生が・・・亡くなったの」

 「・・・」クマは言葉を詰まらせ、チャコの顔を見つめたまま凍り付いたようにその場に立ち盡した。

 彼女が続ける。

 「先生は秋田県玉川温泉っていう湯治場にずっと行ってたんだって。それでしばらくは体調も安定してたらしいんだけど、二週間くらい前、急に具合が悪くなって救急車で病院に運ばれて、それでそのまま意識が戻らなくて、一昨日の晩息を引き取ったんですって」彼女は完全に泣きながら説明した。

 少ししてクマは漸く口を開いた。「うん、そう、そうか、そうなんだ。仁昌寺先生は、死んでしまったのか」クマはゆっくりと一言ずつ嚙み締めるように言った。そうする事によって、今聞いたばかりの話を事実として自分に納得させようとしているかのようだった。

 『それにしても、今時湯治などという前時代的な治療法は通用するのだろうか。そしてそれを選んだ仁昌寺和子という司書教諭は一体何を考えていたのだろうか』

 クマの脳裏に最初で最期になった唯一度きりの彼女との会話が駆け巡った。それは五月、暖かな午後の日差しが注ぐ図書室だった。

 「どうかしましたか」知らぬ間にクマの横には司書教諭が立っており、怪訝そうな顔をしてそう訊ねた。

 「先生」クマは今まで一度も口をきいた事のない彼女に対し、思わず自分でも予期せぬ言葉を発した。

 「先生は取り返しのつかない出来事を経験した事はありますか」

 「・・・それは何度もあると思うけど。例えば歳を取ったりとか」

 「いいえ、そんなのではなくて、何て言うのか、そう、言わなくてもよかった事を言ってしまったりとか」

 「・・・今こうして会話をしているけれど、私は私が作り上げた君という虚像と話していると思うの。こう言えば君がどう反応するか、君の隣にいるもう一人の君の顔色をうかがいながら次の言葉を探しているの。だから、どれだけ言葉を尽くしても、それは想像の領域のコミュニケーションでしかない。でも私達は切れば血の出る現実に生きている・・・言っている意味が解る」

 部屋の中に、話の内容とは裏腹な司書教諭の屈託のない声が響いた。

 「多分、判る、と、思います」クマは考えながら答えた。

 「だったらオーケー。失恋でもしたの、人を好きになるのは理屈じゃないわ。大抵は一瞬の気の迷いか、大いなる勘違い。まあ若いんだから元気を出しなさい。月並みな言葉だけれど」

 「先生は恋愛に何か含みでもあるんですか」クマは思わず笑顔で言った。

 「そんな事はないけど、でも些細な言葉の行き違いで壊れてしまうような繋がりなら、元々大した事が無い証拠。そんな関係なら幾らでも転がっている。それで相手が本当は何を考えているかなんて誰にも判る筈がない。だって自分で自分の事さえ判らないんだから。君は完全に自分自身を把握していると思う。人は誰でも、決して日の当たらない月の裏側みたいな部分を持って生きているって、私はそう思うけど」

 

 『何故だろう、初対面の自分に彼女は何故そんな事を言ったのだろう』クマが記憶を辿っている間、チャコはまた別の世界に浸っている彼の顔を、ただ黙ってじっと見つめていた。<続>

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ただその40分間の為だけに(19)

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 世田谷区民会館の舞台に立つまで既に三ヶ月を切っていた。「ヒナコさんグループ」が使える時間は未だ不明だったが、レパートリーにムーの二曲目が加わり、取敢えずはこれをメインに練習を続けていた。

 しかし未だ四曲では足りない。ステージを30分以上維持するには、少なくとも後二、三曲は用意しなければならず、最も手っ取り早い解決法はアグリーとクマが既に作った歌から選ぶ事であったが、それはいつでも出来る最後の手段で、クマはヒナコの顔を見る度にあと一曲何とかするようプレッシャーをかけていた。

 その日の練習でも同様、開口一番こう切り出した。

 「ねえ、何か無いの。取敢えずさ、曲か歌詞か、どっちかあれば後はどうにかするから」

 「そうねえ、ないことも無いんだけど、ちょっとねえ、あんまりねえ」

 「ちょっと何よ、いいからやってみてよ」クマに促されヒナコは自信なさげにギターを持ち上げてボソボソ蚊の無くような声で歌い始めた。

 「 ♪ 秋祭り 秋祭りのお囃子の音が・・・」彼女は最初の四小節を歌うとそこで止めて首を横に振りながらクマの顔を覗き込むように見た。

 「いいじゃない、ねえ」クマはアグリーに同意を求めた。

 「全然オーケーだよ。秋祭り、季節感もピッタしだし」アグリーは自分に与えられた役割をきっちりと果たす。

 それは極ありふれたフォーク調の曲で、しかもキーは定番のAm。これでもかと言う程マイナーな歌だったが、散々せっついて出させたものであり今更貶す訳にも、ましてや別の曲を要求する事など出来る筈も無かった。

 一応最後まで通して聴くと、クマはいつも持ち歩いている五線譜を取り出し大雑把な譜割をしてコードをすらすらと書き込みながら、ヒナコに確認した。

 「タイトルは『秋祭り』でいいんだよね。で歌詞は」

 クマがそう言うとヒナコはスヌーピーの便箋を取り出して書き始めた。 

  

  秋祭り 秋祭りの人混みの中で

  あなたとはぐれて一人の私

  浴衣姿 裸電球

  赤い風船が手を離れ

  暗い夜空に消えてった

     

  秋祭り 秋祭りのお囃子の音が

  私の寂しい心に染みる

  金魚すくいに風船釣りと

  いつかあなたの事も忘れて

  一人はしゃいで夜は更ける

     

  秋祭り 秋祭りの終わったその後で

  気がついてみたら一人の私

  綿あめの甘い香りを残し

  散らかった神社の境内を

  秋風も寂しく吹き抜けた

 

 「最高じゃん」アグリーが大袈裟に叫ぶと、ヒナコは照れ隠しなのか彼の背中を平手で叩いた。

 一方、クマの灰色の脳細胞にまたしても灯りが点灯した。

 『そうだ、これはイントロと間奏で、C,S,N&Yかガロのような癖のあるリードギターを入れれば、ちょっとはハイセンスになるのではないか』

 その為にはAmよりはDmの方が自分としては弾きやすい、しかしキーは五度高くなる。早速クマは自分がDmで演奏し、ヒナコの声のチェックをした。

 その結果一番音程が高くなる部分で時折声が裏返りそうになるものの、これは歌い込めば何とか解消されそうだと彼は思った。

 クマは相変わらず、こと音楽にかけては自分本位で冷酷な迄非情であり尚且つ容赦が無かった。

 「クマさんって高い声ばっかり求めてない」ヒナコは半ば呆れたように言ったが、クマは『それはもしかしたら、暗に自分が未だあのアグネス・チャンが歌うような甲高い声のナッパの呪縛から解き放たれていない事を指しているのか』と考えた。しかしその事を声に出して言う事はなかった。

 

 その日もクマは帰宅するとヒナコの新曲に罹りっきりになった。そして何度か繰り返しギターを弾いている内にある事実を発見した。

 『このコード進行は何処かで聞いた事があるぞ』

 試しにその思いついた歌を重ねて歌ってみると、彼の仮説は確信に変わった。それは間違いなくラジオ番組「コッキーポップ」で流れている、「ウイッシュ」という女性デュオが歌う「六月の子守歌」そのものだっだ。

 クマは一瞬、人の秘密を暴き、隠れていた本性を垣間見たような、密かな快感に近い感覚に陥ったが直ぐに思い直した。

 『これは単にコード進行が同じだけでメロディーは違うのだから、何ら問題はない』

 それは全くその通りであり、少なくともクマが神とも仰ぐポール・サイモンの名曲「サウンド・オブ・サイレンス」を盗用し、「夜明けのスキャット」などという駄作を恥ずかし気もなく世に出して、莫大な印税を稼いだであろう『いずみたく』とかいう名の作曲家よりはずっとましだ。そう考えたクマは折角の自分の大発見を封印する事にした。

 「秋祭り」のアレンジにはそれ程手間はかからなかった。基本的には典型的なスリーフィンガーを使い、後半からは少しずつストロークを入れてエンディングを盛り上げるといういつものパターンだ。

 『代り映えしないかな、でもそれ以外に何か方法はあるだろうか。精々6弦をEからDにドロップする位か』

 いつしかクマの指はこの曲に使う心算のC,S,N&Y「Find The Cost of Freedom」に於けるニール・ヤングの泥臭いフレーズをつま弾いていた。<続>


Find The Cost of Freedom/風のかたみの日記

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ただその40分間の為だけに(18)

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 結局ニクソン大統領は辞任、軍用ヘリコプターに乗ってホワイトハウスを去った。そのニュースが極東の日本に伝えられた頃、東京は漸く梅雨空が晴れ、日に日に日差しが強まっていた。

 「ヒナコさんグループ」は週一度の練習を欠かさず続けていたが、レパートリーは相変わらずヒナコとムーの二曲とアグリーの一曲のままで、それなりに仕上がってきたものの今一つ盛り上がりに欠けていた。

 そんなある日、ムーが練習場所に発売間もないアイワのラジカセを持ってやってきた。「これを聴いて貰いたいんですけど」彼女は少し恥ずかしそう言うとプレイボタンを押した。ムーの男言葉は次第に無くなりつつあるようだった。直ぐにピアノの音がして歌が始まった。どうやら新しいオリジナルらしい。

 それは掴みどころの無い不思議な曲だった。一度聴いただけでは把握出来ない。もしかしたら大傑作、それともとんでもない駄作か。演奏が終わった時、誰も何も言わなかったが、少し間を置いて漸くクマが口を開いた「もう一回聴かせてくれる」

 再びテープが回り始め、まるでインドの行者が瞑想を行っているかのよう時間が訪れ、三分が過ぎ曲が終わると今度はアグリーが言った。「渋いんじゃない」

 それを受けてクマも頷いた。「難しい曲だよね。でもとてもいい、何と言うか、凄く個性的。まるでデイビッド・クロスビーの『デジャ・ヴ』みたいだ」

 その曲を知っているアグリーは『その通り』と言わんがばかりにうんうんと首を振りながら手を叩き、同意であることを示したが、聞いた事の無いムーとヒナコはそれこそ狐につままれたようにキョトンとしていた。

 それを見てクマは説明しようと考えて二、三言葉を探した結果、多分理解して貰えないと思い直し、笑顔を浮かべただけだった。そして全く関係の無いことを言った。「キーはCmかな。でもカポは使いたくないな」

 「どうして」ヒナコが聞く。

 「だって、カッコ悪いじゃない」

 クマは何時の頃からか、ギターにカポタストを付ける事を極端に嫌うようになっていた。それは折角楽器が持っている音域を自ら放棄するような行為、そう言えば恰好良過ぎる。実際はただ単に面倒なだけだった。

 「これ、コンサートでやれますか」ムーは心配そうな顔をしてクマを覗くように訊ねた。

 クマは「うん」とだけ答えて暫く宙を見つめ、そして答えた。「このテープ貸してくれる」

 その日クマは家に帰ると、早速テープを取り出して聴き直した。ヘッドフォンに流れる曲は相変わらず摩訶不思議な旋律だった。『これをどうやってギターで伴奏しコンサートで演奏するのか』クマは目を閉じたまま自分の眉間に皺が寄っているのを意識していた。

 三度目の再生が終わった時、突然クマの脳裏にある言葉が蘇った。しかもそれは数時間前自分が発したものだった。「まるでデイビッド・クロスビーの『デジャ・ヴ』みたいだ」

 『そうだ、その通り、「デジャ・ヴ」に使われているチューニングを使えばいいのだ』それはクロスビーがよく用いるEBDGADという変則チューニングで、これを使った「グィネヴィア」という曲をクマとアグリーは3月のフェアウェル・コンサートで演奏していた。


Guinevere/風のかたみの日記

 しかし、これで伴奏するとキーはEmになって、元のCmから大幅に高くなってしまう。後はムーの声の音域に期待するしかなかった。こと音楽に関してクマは全く相手を思いやる優しさは欠落していた。そしてライブで充分対応出来るようなアレンジに仕上げたのはそれから3時間後の事だった。  

 翌日、クマは「ヒナコさんグループ」を緊急招集した。用件は勿論、自分が考え抜いたアレンジを皆に聞かせ称賛を得る為で、気が短い彼にすればいつもの事だった。

 その日の放課後、校舎の屋上にメンバーと殆どマネージャーと化したメガネユキコが揃う中、アグリーだけがいつになく暗い表情でやって来た。

 「どしたの」すかさず全方位外交のヒナコが声を掛ける。

 「ああ、今朝起きたら文太が死んでたんだ」

 「えっ、文太」ヒナコが首を傾げた。それに対してはクマが代わって答える。

 「手乗り文鳥の文太の事だよ」

 「アグリーどんは文鳥飼ってたんだ」

 「ああ、雛の頃からずっと、もう10年位になるんだけど」

 「それって寿命が来たって事」

 「いや、どうかな。そんなに弱ってたとは思えないんだけど。あの、歳取ると止まり木から落ちたりするらしいんだ」

 「ふーん、鳥って結構長生きするんだ。でも悲しい」

 「そりゃあ、結構なついていたからね。知らないと思うけど文鳥は優しくしてやると飼い主にすがりついて来るんだ」

 「人間よりも人間性があるのかな」クマは遠くを眺めるような目をして呟いた。

 「人間はなまじっか余計な知恵があるからややこしいだけさ。それよか、その画期的アレンジとやらを聞こうじゃないの」

  「オッケー」クマはそう答えると、早速説明を交えながらギターを例のチューニングに合わせた。

 『EBDGAD、一体どうやったらそんなチューニングを思いつくのだろうか。もしかしたら、マリファナとかいう覚醒剤でトリップしなければ考えつかないものかも知れない』しかしクマ達はマリファナはおろか煙草さえ吸った事は無かった。

 アグリーは勿論そのチューニングを知っており、ムーとヒナコも3月の2-4フェアウェル・コンサートでI,S&Nが演奏した「グィネヴィア」を聞いた筈だったが、当然覚えてはいなかった。 仮にもし覚えていたとして、チューニング方法まで判る筈もない。それでもムーはまるで大事な授業を受けているような真剣な表情を浮かべ、食い入るようにクマの一挙一動を見守っていた。

 チューニングが済むとそこからがクマの真骨頂であった。コード表などには一切記載されていない弦の押さえ方をして、独特のコード進行を披露する。もし仮にそれらのコードを表記するとしたら、多分sus4 や m(#5)という和音になると思われたが、ある程度熟練したギター小僧でも、とてもそのコードネームを見て瞬時に押さえる事は不可能な筈だった。

 そして、一通り曲の最後まで弾き終えるとクマはムーに気掛かりだった事を尋ねた。「オリジナルのキーはCmだったけど、これだとEmになる。声が出るかな」ムーは実際にサビの部分を歌ってみてニコッと笑った。「大丈夫です。ちゃんと出ます」

 それを聞いてヒナコはまるで子供を褒めるようにムーの頭を撫でたが、アグリーは少し渋い表情を浮かべて言った。

 「よく考えたと思うけど、これじゃあ一般受けはしないだろう。キャッチーじゃないもん」

  クマは苦笑いしながら答える。「今更僕にそれを望む訳」

 それを聞いてムーが久しぶりに男の子言葉で言った「僕はこれは素晴らしいと思う」

 「それじゃあこれで決定」

 クマがそう言った時、頭上を鳶のような大型の鳥が、遠く多摩川付近の森を目指して飛んで行くのが見えた。彼は『文鳥の寿命が十年として、果たして野生の鳶は何年生きるのだろうか。あの鳥だって哀れな文太のように、いつかは突然命が燃え尽きるのだろうな』そんな事が頭をよぎった。

 そして、何の音沙汰も無い司書教諭、仁昌寺和子の顔をふと思い出しているのだった。<続>

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ただその40分間の為だけに(17)

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 6月に入り梅雨特有の鬱陶しい天気が続いた。雨は下旬になって本格的に降り始め、月が替わると折からの台風8号の影響を受け日本各地に甚大な被害をもたらした。

 クマ達が住む世田谷、目黒区周辺も、一級河川多摩川や彼等が通う深沢高校の傍を流れる呑川流域に多数の床上浸水が発生したが、幸い親しい者達の家は被災を免れた。

 月末、アメリカ合衆国で国を揺るがす重大事件が発覚した。新聞やテレビはそのニュース一色に染まり、連日特集記事や番組を報道し続けていたが、クマは何が起きて、何が問題なのかよく理解出来なかった。

 「ウォーターゲートって一体何んなんだ」彼は先だって病院の受付で味をしめた「とにかく質問してみる」という手段を試そうと廊下で会ったアグリーに聞いてみたが、彼もまた内容を把握しておらず、「鉛の兵隊とニクソンがやって来る」と全く見当外れなニール・ヤングの『オハイオ』の歌詞を呟いた後、「それより、コンサートで何やるんだよ」と逆に質問する始末だった。

 「うん、ムーの『ぎやまんの箱』と、ヒナコの『さようなら通り過ぎる夏よ』は決まってるよね」そのクマの言葉にアグリーは黙って頷いた。

 「それで、要はどれだけの時間というか、何分間、我々が貰えるかなんだけど、30分ならやれるのはせいぜい4曲か5曲だよね。そうすると後3、4曲用意しなければならないって事になる。ここ迄はいいかな」

 それに対してもアグリーは黙って頷く。

 「そんでもって、あの2曲はどっちもスローなんで、メリハリ付けるにはやっぱし速いのが欲しいんだよね。それで考えたんだけど、一曲目はアナタの『観覧車』を持ってくるのはどう。A面トップだよ」

 A面トップ、それはプロのミュージシャン達が発表するアルバム、即ちLPレコードに於いて最も重要な一曲目の事を言う。様々なレコードを聴き漁っているアグリーは有名アルバムの出だしを検討し、いつの日にか彼が世に問うであろうファーストアルバムのコンセプトばかり模索していた。

 「あー、なるほど。でも『チャンランシャ』を生ギターでやるんかあ」

 「観覧車」は前年の12月、アグリー、センヌキ、クマの三人でエレキギター等を使い録音したアグリーのオリジナルで、サビの部分が4拍子から3拍子に変わる、彼等にしてはなかなかキャッチーな曲だった。


観覧車1973/風のかたみの日記

 「イエス。アレンジも考えた。変則Eオープンでやる『青い目のジュディー』と同じ」

 「はあ、いきなり変則」ともすればポップス感を失いかねない変則チューニングに、アグリーは難色を示す。

 しかし、何かと技巧に走りがちなクマの頭の中では、もう既にEBEEBEにチューニングされたギターの音が鳴り始め、意識はまた別の世界へ行こうとしていた。「大丈夫、任せてチョーダイ」まるで財津一郎のような甲高い声でクマは宣言した。

 そこへ偶々センヌキが通りかかった。「オタクら、出し物は決まったの」

 「ああ、今その話をしてたとこ。クマが『観覧車』を変則チューニングでやるって」

 「えー、またー」

 「そうだろう、そう思うだろう」

 それを聞いてわが身に差し迫った危険を察知したのか、急遽異次元から戻ったクマが、右の人差し指を車のワイパーのように左右に振りながら言った。

 「君達は何も解っていない」

 

 そんなやり取りがあって間もなく、「ヒナコさんグループ」が顔を揃え本格的練習を開始した。練習は基本的に週1回、場所は主に放課後の教室であったが、天気のよい日は校舎の屋上に上がったりもした。

 「先ずは決まっている『ぎやまん』と『夏よ』を仕上よう」クマの号令の下、三人でチューニングを合わせる。とにかくクマは徹底的に合わないと気が済まない性分で、微かな音の揺らぎにも神経を尖らせた。

 440Hzの音叉を膝で叩き、ギターのトップに当て「A」の音が出す。それに5弦の5フレットでハーモニクスを共鳴させると、音の違いが明確に判る。クマもうこれを5年間もやってきた。そうやって合わせた5弦を基準に残り全ての弦を合わせ、それが終わるともう一度同じ事を繰り返す。そして各弦をチョーキングで引っ張りまた調律を確認。大した時間ではないが、周囲の者をウンザリさせるには十分だった。

 「そろそろやる」作業を終えたクマの言葉に、三人共やれやれという顔で溜息をつくしかなかったが、アグリーとムーは必要に迫られて自分のギターをクマの音に合わせた。

 『ぎやまんの箱』はムーが作った典型的なスローバラードのフォークソングだった。もし、このバンドに参加していなければクマもアグリーも決して演奏するような曲ではなかったが、今更そんな事は言えず、何よりクマは自分が持っている音楽的知識と技術の全てをここに注ぎ込むと決めた以上、後戻りは出来なかった。

 「三番まであるから徐々に盛り上げて行きたいんだけど、普通に考えれば二番まではアルペジオ、三番で一気にストロークってとこかな。他にはギター3本の内どれかにカポとか」クマは大雑把に自分の考えを述べた。

 それに対しアグリーが答える。

 「俺、ザ・クロッジのメンバーから12弦を借りてくるよ。そうすれば音も広がるし」

 「オッケー、それはいいかも」

 「僕は何をすればいいですか」ムーが口を開く。

 実際のところクマはムーのギターを全くアテにはしていなかった。それでも面と向かってそうは言えないので、あまり伴奏の邪魔にならないよう間奏で簡単なソロを任せる事にした。

 続いてヒナコの『さようなら通り過ぎる夏よ』、この曲についてクマは既にプランを持っていた。それは昨年アグリーの『星の妖精』という曲で実証済みのギターアンサンブルを使う事であり、具体的にはオーソドックス・チューニングのギターとDチューニング(DADF#AD)のギターを合わせ、それより音域を広げきらびやかな響きが期待出来た。


星の妖精/風のかたみの日記

「後は、新曲を幾つか揃える必要があるな」クマは自問して頷いた。<続>

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ただその40分間の為だけに(16)

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 「変わってないな」 6年前、10日余りの間閉じ込められていた建物を、久し振りに眺めクマはそう呟いた。正面玄関から中に入ると、ひんやりとした微かに消毒液の臭いの漂う空気が彼の遠い記憶を呼び覚ます。

 過ぎ去った歳月は決して短くはない。しかし誰にでも何年経とうと決して忘れない思い出はある。たとえそれが単なる「入院」であったとしても、それ迄の十二年の人生で初めての経験となればある意味当然とも言えた。

 そしてクマはまた、瞑想にも似た思考の迷路に沈み込んで行った。

 『自分は幼い頃から喉が弱かった。風邪を引き易く決まって扁桃腺が腫れ、咳が止まらなくなる。そして四十度近い高熱。眠っているのか起きているのか、夢か現か、或いは生と死の間か。そのような状態が三日三晩続き漸く快方に向う。それがいつものパターンだった。しかし、あの時は違った。

 「肺に白い影が見えますね、ラッセルも酷くなっている。国立第二病院に紹介状を書きましょう」レントゲン写真を見せながら医者が母親にそう告げた。ラッセル、それは一体何なのか。線路上に降り積もった雪を強靭なプロペラで吹き飛ばす黒い機関車みたいな、いや違う、あれは確かロータリー車だ。ラッセル車は、そう、アイロンのお化けみたいな形をしたヤツ』

 確かに彼はそうやって自由連想のように思考を発展させてゆく事が好きだった。しかし、その過程で生じた疑問を如何にして解消するか。まだ小学生だった頃、多くの子供達が置かれた環境は、彼等の好奇心を全て満たす程整ってはおらず、彼等自身もまた理解力に欠けていた。

 ラッセルの正体が不明のまま、国立病院での診察の結果、彼は即日入院治療となった。

 『聞けばよかったのだ。それを答えられる誰かに』出来得る限り自分自身で物事を解決したいと考えるクマは、やがて人にものを訪ねる事が最も安易で且つ確実そうな方策である事に気づいた。

 『そう、ラッセルにしても、入院中ペニシリンを腕に打つという疑問も、その場で医者に聞けば、多分小学生にも分かり易く説明してくれた筈だ。それをしないまま放置してしまった。今ここで心に刺さったままの棘のような懸案事項を解決しなければならない。長く閉じこもって来た殻を自らの手で破壊出来る事を証明をする必要があるのだ』

 そして彼は、ふと傍らにいるチャコに気づく。

 『まずいな、また嫌味を言われるかも知れない。僕は別に異次元にいる訳じゃない』

 「構わないわよ」チャコがクマの心の動きを見透かしたように上目遣いで言った。

 「私、先生の居場所を聞いてくるわ」そして彼女は総合受付の方に向かって歩き始める。

 「ああ。僕も一緒に行くよ。ちょっと確認したい事があるんだ」

  チャコが受付の年長者らしき女性に司書教諭がいる病棟を確認している間、クマはそのとなりに座っているひっつめ髪の若い女性に訊ねた。

 「あのう、ちょっとお尋ねしますが」

 「はい、何でしょうか」彼女は顔を上げた。

 「この病院を国立第二病院と言うのは何故ですか」クマは少し照れ臭そうに言う。

  受付嬢は一瞬眉をひそめ怪訝そうな顔をしたが直ぐに笑顔を作り、そして答えた。「新宿に国立第一病院がありますが、それは知っていますか」

 「いいえ、でも第二がある以上、第一があるのが普通ですよね」

 「そうですね。でもそれだけではなくて、ここは昔は、海軍軍医学校第二付属病院と言ったそうです。新宿の第一病院は元は陸軍病院だったので全く違う組織。ただ、第一付属病院があったのかどうか。それ以上のことは私も判りません」

 「そうですか、ふうん、そんな話があるんですね」クマは目を大きく広げ二三度頷いた。

 実際のところ彼は非常に満足していた。得られた情報はごく僅かではあったが、それをとても貴重な宝石のように感じた。

 『何しろ、自分から知らない相手に話しかけた事が評価できる。これで、帝国陸軍と海軍の違いを調べれば、結構面白いレポートが書けるかも知れない』彼が太平洋戦争について知っている事は決して多くはなかった。『今ならまだ生き証人が沢山いるし』

  「また何か考えていた」チャコはピーナッツコミックの登場人物が相手をからかう時のように違う方向に目をやって言った。

 「どこだか判った」彼は苦笑しながらチャコに聞く。

 「それが、一昨日退院したんですって」

 「えっ、それは治ったって事」クマは確認するかのようにゆっくりと発音した。

 「ううん、そうじゃないみたいだけど、詳しい事は判らないので家に帰って母に聞いてみます。ごめんなさい、ちゃんと調べておけば良かった」

 「いや、全然。気にすることなんか無いよ」

 「これからどうする」

 「そう、家に帰ろうかな、色々ほったらかしにしている事もあるし」

 「うん、先生の事何か分かったら連絡します。今日はありがとう」

 「いいえ」クマは精一杯の笑顔をチャコに向け、そしてギターを弾くような手つきをしながら言った。

 「それと僕はそろそろ、こっちの方に戻らなきゃ」

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