八月十五日に想う

 今日八月十五日は言わずもがな「終戦の日」または「終戦記念日」、正式には「戦没者を追悼し平和を祈念する日」である。

 この日になると、何時ものように終戦はおかしい、敗戦と言うべきだとの主張や、自虐史観靖国参拝、果ては憲法改正などの論議を耳にする。

 そういった論旨には、必ずイデオロギーが絡んできて全く不毛な論争となる事が多く、また純粋に言葉としてポツダム宣言受諾からワシントン平和条約発効までを時系列的に捉え、分析する論評も存在するが、正解は見出せない。

 私は右・左の区別なく、持論を声高に主張出来る人を羨ましいとは思わないし、かえってそのような姿勢に違和感すら覚える。

 靖国について一方では「英霊」と言い、他方は「諸外国の反応」との言葉を用いるが、英霊の御霊を慰めるとはあまりに御霊信仰的で、諸外国の反応の諸外国とは、中国と韓国だけであったりもする。

 ただ、軍人、軍属230万人、一般人80万人、合計310万人と言われる犠牲者の物語の終わりと、それにより自分の物語を書き換えざるを得なかった人達に静かに思いを寄せる。

 そんな一日が一年に一度くらいあってもいいのではないだろうか。

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