老醜か老成か、それが問題だ

 今回のテーマは誰もが避けて通れない「老い」、何やら嫌な予感がする。だったらテーマにしなければいいのだが、折角思い付いたので何処迄書けるか火中の栗を拾う心算で開始。

 人は皆歳を取れば多かれ少なかれ醜くなっていく。それは自然の摂理と言うものだ。具体的には年齢と共に皮膚はたるみ、色艶が無くなり、皺が増え、髪は白く、運が悪ければ抜け落ちてしまう。その他にも見た目の劣化は数え切れない。

 私自身は年齢的に決して若いとは言い難いが、それでも老いさらばえたとは全く思っていない。まあ思うのは勝手なので実態と異なっている場合もあるにせよ、自分でそう思っている以上これは間違いない筈だ。 

 とは言え、街を歩けば若くて異常に足の長い、所謂イケメンの若者が闊歩しており、確かに格好は良く、また洗練されているかのようにも見える。多分、彼等自身もそう自負しているのかも知れない、そう感じる事がある。

 しかし世に中には老成という言葉もある通り、若輩者には到底到達出来ない、ある種の碩師名人のような域に達した人間が存在する。

 それは幾らファッション誌と同じ装いをしたところで、俄かに手に入れる事は不可能。最早うわべのルックスで勝負する次元では無く、心魂の奥深くから湧き出る、もしかしたらイデアと呼ぶ事が出来るかも知れない何かであろう。尚、この何とかは決して加齢臭の事を言っているのでは無いので、念の為。

 さて、例えばかって私が読書に目覚めた頃、夏目漱石なる人物の著作物を読み、非常に感動し改めて著者の写真を見ると、中々知的且つ物憂げな表情が如何にも苦悩する文士然としていると思ったものだ。

 一方それに引き換え同時代の文豪、森鴎外は、海外留学に於いて漱石が倫敦で神経衰弱に陥ったのに対し、己は伯林にあって、彼の地の少女を誑かし、彼女が日本迄追いかけて来たにも拘わらず、これを見捨てた。また生業である陸軍の軍医総監としては、軍糧の白米に拘り、日露戦争将兵25万人に脚気を罹患させ、その内の一割以上を死に至らしめた。

 そしてその鴎外の写真を見ると、自ずと人間性が見て取れると思うのは私だけだろうか。尚、鴎外ファンを敵に回す心算は毛頭無い。

 だが、私はここである事実に突き当たる。かって自分より遥かに年長と思っていた漱石の享年が49歳、鴎外は60歳。たとえ明治時代であっても、この年齢では早過ぎるし、既に私は漱石より歳を取っている。

 「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」と言ったのはエイブラハム・リンカーン。深く刻み込まれた皺の一本一本は、あたかも数え切れない風雪に耐え抜いた老木の年輪のようにも見える。それをいとも簡単に醜いと称する事は容易ではないだろう。因みにこの偉大な米国大統領は劇場で射殺された時56歳だった。

 とすると、還暦を超えてなおアンチエイジング等をして体裁を繕い、見てくれだけ若さを維持する事に何の意味があるのだろうか。人がそれを老醜と呼ぼうが、自身では老成と信じる勇気が必要ではないだろうか。

 ここ迄書いて矢張り当初の予感通り、私は後悔し始めた。上手く結論に行き着かないのだ。しかし、折角書いたので続きはまた何れ後日。という事に。

 

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