人通りが絶えない土曜の夜、時計は21時を少し回っていた。一人の初老の男が杖を突きながらゆっくりとその路地を曲がった。
日々目まぐるしく変貌する大都会にあって、そこだけが昭和のまま置き去りにされているような、そんな雰囲気が漂う短い行き止まりの空間。
男はある場所で立ち止まると、目の前の今にも朽ち果てそうな建物を入念に観察し、やがて決心したかのようにガラス張りの扉を押した。
「いらっしゃいませ」ブラックスーツの若い男が彼を出迎えた。
「多分、ここは最近出来たレストランだと思うが、私は既に食事を済ませている。もし差し支えなければ座って一杯飲んでも構わないだろうか」男の言葉は控えめではあったが、相手に如何なる拒否権も与えないような、そんな重厚さがあった。
決して広くは無い、むしろ狭いと言った方が的格な店内に他の客はおらず、男は案内されるまま席についた。
「さっぱりした白ワインをグラスで」
「かしこまりました」
薄明かりの照明の下、たった今自分が入って来たガラスの扉越しに外を見た瞬間、彼の記憶は突然三十年余りを遡り、やがて誰に聞かせるでも無く独り言のような物語が始まった。
「麦みそ」、そこはかって「時計台」という拉麺店で、漸く列を並び終え着席を許された若い勤め人達は、挙って威勢よくそう言って昼食に看板メニューを注文していた。『しかし、大切な事はそれでは無く、このすぐ隣にあったちっぽけなカウンターバーの事だ』
「いらっしゃいませ」ゲルハルト・フィッシュの「冬の旅」が流れる中、小柄で品の良さそうな和服の老女が彼を出迎えた。
そこは「ビルゴ」という名の店、この女主はその昔グランドキャバレーに勤めていたという。そしてこの場所に控えめな自分の城を開業した。
やがて時は流れ、彼女を贔屓にしていた客達は成功し社会的地位を得ていたが、それでもこの店に訪れる事を忘れなかった。
当時、私はしがない駆け出しの社会人で唯一人場違いな若い常連だった。潤沢ではない給金を叩きここに来る目的は唯一つ、類まれなる美貌の従業員と親しく会話する為であった。
勿論、多くの客は年甲斐もなく同じ下心を胸に秘めていた。少なくとも私にはそう思えた。
表通りに黒塗りのハイヤーを待たせている大企業の役員、破綻した旧財閥企業の管財人の大役を受けた老人、家人を亡くし毎晩のように訪れる個人経営者、お付きの若い衆を連れた寡黙なその筋の男、まるで自分が正義であるかのように横柄な口を利く大手新聞の記者、かって氷のリンクの上で名を馳せたホッケー選手。
其々の人生を引きずる男達の中で、私だけが残された時間をたっぷりと持っていた筈だった。
『そう、そしてその時間を通り過ぎて今ここにいるのだ』
ワインはまだグラスに半分残っていた。しかし勘定を済ませると男は杖をついて立ち上がり、はにかみながら言った。
「柄にもなく少し喋り過ぎたみたいだ」
「またお待ちしております」ブラックスーツの男が扉を開けながら彼を見送った。
男は振り返る事無く左腕を軽く上げそれに答えると、しっかりした足取りで表に踏み出した。
桜の開花には未だ少し冷たさが残る夜風が頬を撫でると、男の顔にひと時宿っていた生気のようなものが失われ、いつもの通りの乏しい表情が戻ってきた。
『あの日ここで見た夢は、一體何処へ行ってしまったのだろう』