9.「何故もっと早く・・・」ダンディーが恨み言を言った
再びレッスンが始められたが、ナッパの生まれつきとも考えられるリズム感の無さから、これ以上の練習は時間の無駄のように思えた。『小中学校の音楽の授業を、彼女は一体どうやって乗り越えて来たのだろう』クマがそんな事を考えていると、アグネス・チャン・ファンクラブ会員に成りたてのカメが、カラオケテープを作り彼女が家に帰ってからも練習出来るようにしたらと、珍しく賢い事を言った。
早速録音に取り掛かろうとしたものの、肝心な空テープが無い。ところが運の悪い事に、クマの一作目のオリジナル作品集「1973.11」のB面が空いたまま、偶々センヌキが持っていたのだ。
「これにしよう。」イタズラ小僧が新たな企てを思い付いた時のように、センヌキは得意げな笑みを浮かべて、そのテープをクマの前に突き出した。
『えっ。』クマは一瞬、顔面蒼白になった。何故ならこのカセットのトップに収録されている『君に捧げる歌』という曲の歌詞は、彼のナッパへの思いを綴ったもので、昨年の夏休み、クマやメガネユキコとナッパ達、文化祭責任者だけで打ち合わせの為学校に集まった際、日直で来ていた担任のカギ付きサナダ虫が、慰労としてポケットマネーから出してくれた小遣いで「かき氷」を食べに行き、その帰り買って来た花火を、昼間にも拘らず校舎の影でしたことが、次のような言葉で書かれていた。
日差しに歩く 後ろ姿が
子供のように はしゃいでたね
買ったばかりの 花火を振りながら
夜までとても 待てないなんて
あの時 言えば良かった
君がとても 好きだって
僕の心を 知ってるように
君の瞳が 笑っていた
これを聴けば、間違いなくナッパは誰の事を歌っているのか直ぐに気づく筈だ。体に似合わずシャイなクマはそれが恥ずかしかったのである。彼の必死の抵抗にも、結局『A面は聞かない』という約束で貸すことになってしまった。
「絶対聞いちゃあダメだよ。」逆効果になると知りつつ、クマは帰り支度のナッパに念を押すように言ったが、その時彼は、『もしかしたら、自分が作った歌に彼女が感激して、「クマさんって素敵な人ね」なんて事が、あるかも知れないな』などと、ありもしない、しかしあってもよさそうな、つまり自分に都合のいい事を考えていた。
ナッパとニッカがバス停までの帰り道を知らない為、クマは詳しく説明した。するとアグリーが今度は何故か気配りするように「送って言ったら。」と言い出した。しかし昼間、学校に迎えに行って悲惨な思いをしたクマは流石に行きたくはない。敵が逃げ腰だと見たアグリーは、さっきの仕返しとばかり追い打ちをかけてきた。
「しかしアナタ、こーんなに暗くなって女の子だけで帰すのは良くないと思わない。」
「うん、それはそうだけど、でも僕等ももう少し練習しなきゃいけないし・・・」
「アナタ、何を言ってるんですか、そんな問題じゃあ無いでしょうが。」
「・・・」クマの形勢は悪くなるばかりだった。余程『だったらお前が行けよ』と言いたかったが、ナッパの前であまり醜い争いはしたくない。
「いえ、大丈夫ですから。ねえニッカ。」アグネス・チャンの歌声からリズム感を除いたような声のナッパの言葉に、ニッカも『大丈夫です』と頷いた。
女の子二人が帰ると、クマ達はしばらく放心したように黙り込み、広い部屋に静けさが訪れた。すると、ふとダンディーが来ていない事に気づき、電話を架けて呼ぶこととなったが、果たしてチャリンコを飛ばしてやって来た彼は、つい今しがたまで、密かに好意を抱いているニッカがここにいたと聞き、何故もっと早く呼んでくれなかったのかと、皆に恨み言を言った。
しかしナッパと共に至福の時を過ごしたクマやアグリーの耳には、全く聞こえている筈など無かったのである。 <続>
今回の YouTubeは「君に捧げる歌」の問題の2コーラス目をデモ・テープから。
尚、完全版はこちら・・・何をもって完全版と言うのか甚だ疑問だが (^^♪