新生老舗レストランを南青山に訪た <その4>

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 ところで私には気掛かりな点が一つあった。それはかって種々便宜を図ってくれた浅見氏の姿が見えない事だ。私は氏の風貌からてっきりかなりの高齢と思い込んでいて、二年前の閉店を期に引退したのではないかと考えていた。しかしTによれば浅見氏は我々とそれ程歳が変わらない由、ならば再会出来るかも知れないと期待していたからだ。

 若干躊躇したが思い切って誠オーナーに訊ねると、現在神楽坂で働いていおり。先だっては客を連れて来てくれたという。何故ここで働いていないのかは兎も角、取り敢えず健在である事だけでも判っで少し安心した。 

 やがて音も無く散る木の葉ように夜のとばりが周囲を包み始め、漸く客が入店して来た。元来私は他人のプライバシーに立ち入る趣味は持ち合わせていないが、それとなく見ていると中年男性と若い女性のカップル。怪しげな香りがプンプンする。

 暫くすると彼等のテーブルに、氷入りのワインクーラーに浸かった赤ワインのボトルが運ばれた。 

 私には得意げにそれを説明しているであろう男の台詞が手に取るように解った。

 『日本のレストランはね、何処に行っても白は冷え過ぎ、赤はぬる過ぎなんだよ。赤は常温って皆言うけど、日本中の店が同じ室温なんて事はありえない。だから僕はいつもこうやって自分で管理するようにしてるんだ』 

 『じゃかあしい餓鬼、 知った風な口利くんでない』思わず自分の妄想の中で男に向かって叫んだ言葉で、私は我に返った。

 すると今度は例の折り畳み式テーブルをフロアースタッフが運んで来た。上り坂でも下り坂でも無く「まさか」と思ったが、矢張り「いきなりタルタルステーキ」だ。

 更に次の客が来る。何と全く同じ様に中年男と若い女カップル。白ワインとスープを注文した後、驚く事にこちらも「タルタル」なのである。

 Tは彼等に背を向ける位置に座っており、そもそも牛肉は好きだが、生肉には興味が無いので、敢えてその状況は伝えず、互いに白ワインを飲みながら会話を続けていた。

 やがてTが別室に立った時、私は改めて彼等を眺め、自称ストーリーテラーとしては次から次へと妄想が膨らみかけるも、それは止め、唯、かってどこかの社長がそうであったようにタルタルステーキで滑る事を念じつつ、両カップルの幸せが末永く続くよう祈るに止めた。

  『ふん、死ぬまでタルタルしてろ』

  さて、ここ青山でも赤坂の頃と同じように生バンドが入っていた。その夜はジャジーなピアノを弾く男性と女性歌手の二人組。

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 あの位ピアノが弾けると気持ちイイだろうなと私が言うと、Tはそれには答えず、あのボーカルの子「しずちゃん」に似てないか、ところで「しずちゃん」って知ってる、と問う。いくら昨今の芸能界に疎い私でもその程度の知識はある。

 やがて次第に客が入店、殆どのテーブルが埋まり、そして我々は満を持して何時もの定番メインディッシュをオーダーした。

 苦節幾星霜、遺恨十年磨一剣、遂にあのサンビッツが再びその姿を現した。(ちょっと大袈裟だったかも)

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 これは所謂ひとつのシャトーブリアン(だと思う)のステーキ。適度な厚さに切られた肉自体は冷ましてあるが充分柔らかい。オープンサンドなので一口サイズにカットされたトーストが添えられている。

 先ず肉を手前にあるタレに浸しパンに乗せて食するのがプロフェッショナルのこの店の流儀。この特製タレは粒カラシ(grain mustard moutarde à l'ancienne)をベースに何か野菜のみじん切りが入っており、それに醤油を足す。この野菜は一体何なのか。

 私はセロリと考えていたが、自分で料理をするTの意見は、セロリ説を否定しないものの以前自宅で「なんちゃってサンビッツ」を作った時は、さらし玉葱とポン酢を使ったと言う。確かに粒マスタードの製造過程でワインビネガーか酢を入れるし、それはそれで説得力があると思った。しかし実際のところ何かは不明のまま。まあ、料理は能書きで食べるものでは無く、美味しいと感じられればそれで良いのではないだろうか。

 本来、白ワイン好きなTもこれに備え既に赤に替えている。そして我々は久々にこの味を心ゆくまで堪能したのだった。

 その後、私が別室から戻って来ると何と見かけぬ一皿がある。

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チーズ盛り合わせ

 Tにオーダーしたのかと聞くと笑って頷く。私もチーズ大好き人間なので異論は無いが、かってのカナユニで浅見氏にメニュー外にも拘らず、チーズのようなものはありますかと尋ねたら「かしこまりました」と答え、暫くするとミルフィーユ・パイの上に鰻の蒲焼みたいな物が乗せられた料理が出てきた事を思い出した。

 早速Tがブルーチーズをひと欠片を口にする。暫く黙っていたが、見る見るうちに顔色が変わっていくのが判った。一体何が。<続く>

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