そしてTはワインを一口飲み漸く「これ、味はいいんだけど、とにかく強烈」と理解不能な言葉を呟いた。早速私も残ったひと欠片を取り皿に乗せ、フォークで更に小さく分けて口に入れた。
これまで随分ブルーチーズを食べて来たつもりだったが、これは初めての味。特段臭みや塩分が強いとも思えない。しかし凄まじい程の衝撃が口の中を蔽いつくす。
困惑する私の顔を見てTは笑いながら「初めてチーズに負けた」とまた訳の判らない事を言い、皿に残ったブルーチーズに恨めしそうな視線を送った。これが有名なロックフォール (Roquefort) の味なのかどうか私には判断出来ず、唯Tに向かい苦笑するばかりだった。
しかし年齢と共にイケ図々しさを身に着けてきた私はこんな事ではめげない。幾分の酔いも手伝って、次なる試みは今夜この場所でここにいる者達の注目を集めてみようと思い立った。
手始めは先ず、以前、元赤坂で飲んだ自家製「レモン・チェッロ(Limoncello)」 の有無を確認し、もしあればそれをオーダーする事だ。イタリア発祥のこの果樹酒は、デパ地下等の洋酒売り場に行けば容易に手に入るが、この店の自家製は何と言ってもその容器の異形にインパクトがある。
因みに私はこれを勝手に「氷レモンのオバケ」と呼んでいる。それまでまったり赤ワインを飲んでいたTも、「やっぱり、あるんだぁ」と懐かしそうにこのボトルを見た。すぐに食後酒用の小さく細いグラスが運ばれ注がれる。私は口を付ける前に、それをTに差し出し味見を勧める(何でもシェアする訳では無い、念の為)。感想は一言「甘くて酸っぱくて爽快」、まさにその通り。但しウオッカ・ベースなので飲み過ぎは危険。
周囲の受けを狙ったこの行為だったが、あに図らず全く誰も興味を示さない。皆、常連なのか会話に夢中なのか判らないが、私は作戦の失敗を認めざるを得なかった。
それでも私が次なる作戦を練っている時、冷静なTはフロアーに誠オーナーともう一人(名前が思い出せない)しか居ない事に対し「スタッフが足りないのでは」と問題提起した。確かに私も他のテーブルの客がオーダーをしようと、スタッフを探すような仕草をするのを何度か目にした。
この店は以前から注文を受けてから料理が出る迄、ある程度時間を要していた。我々のようにダラダラと飲酒しない人にとっては、少しイラつくかも知れない。しかし少なくとも注文を取るスタッフがもう一人欲しいような気もする。その辺りは費用対効果の問題だろう。何れにせよ、辛口評論家のTの眼力は流石だと思った。そして私は最後の切り札を出す。
世にベリーニというカクテルがある。白桃のピューレまたはピーチネクターとスパークリングワインを使った甘味な飲み物だ。かって元赤坂で他の客がその魅力的な色合いの飲料を飲むのを見た私は、同行のTに「あれは何か」尋ねると、事もなげに名前を教えてくれ、我々は早速オーダーした。
その後、事ある毎に締めはこれと決めていたが、ある時あの浅見氏が「今日は特別なベリーニがあります」と言う。迷わず注文すると何と白桃の代わりに旬の苺を使っていた。私はその記憶を蘇らせ、季節を考慮しスッタフに確認。その結果がこれだ。
今度は自分の分を頼んだTは「やっぱり、これはまるでデザートのよう」と評し微笑んだ。
やがて他の客は席を立ち始め、時計を見ると23時半を差している。流石に帰らなければならない。勘定は二人合わせて仕上り52,000円、決して安くはない、勿論ダッチアカウントだ。尚、我々のように酒をガブガブ飲まなければ、もっと安く上がるのではないかと思う。
帰りしな、誠オーナーは花瓶から紅い薔薇を一輪抜いて我々に渡し、出口まで見送ってくれた。そして私が痛む腰をTに押され階段を上り、店が見えなくなる踊り場で振り返ると、彼は背筋を伸ばした姿勢のまま、未だそこに立っていた。まるで在りし日の先代オーナー横田宏氏のように。
帰路のタクシーの中、深紅の薔薇に視線を落としながら、私は思わず頬を緩ませサイモン&ガーファンクルの歌を口ずさむ。気分はまさにフィーリン・グルーヴィー「59番街橋の歌」。
♪ " Got no deeds to do No promises to keep
I'm dappled and drowsy and ready to sleep
Let the mornig time drop all its petals on me
Life, I love you
All is groovy " ♪
何の力も無い私だが、新生カナユニがここ南青山からまた新たな伝説を積み重ねて行く事を願って止まない。<続く>
レストラン カナユニ
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