ただその40分間の為だけに(4)

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 アグリーとヒナコの誘いを振り切り学校を出たクマは、バス停に向かう途中、彼とは逆方向に移動する若い女性の集団とすれ違った。辺り構わず大声で会話をする彼女達は、上下ともジャージのトレーニングウェアを着用し、髪はボサボサ、運動靴はかかとを履きつぶしている。

 集団の正体は深沢高校に隣接する学生寮に住む女子大生で、クマ達はそのだらしない装いを、学校名から「日体スタイル」と呼び完全に馬鹿にしていた。日体はその名の通り日本体育大学のことであり、校舎はすぐ目と鼻の先にあった。

 しかしその日のクマは、彼女等には目もくれなかった。

 

 暫くすると深沢八丁目の停留所に渋谷行きのバスが来た。二人は前扉から乗車し定期券を運転手に見せる。座席は空いていなかった。

 「私ね、夢を見るのが好きなの。朝起きたらすぐに見たばかりの夢をノートに書いておくの」ナッパは吊革につかまって、流れ去る外の景色を眺めながら唐突にそう言った。その大きな瞳は美しく輝いている。

 「それでね、夢で見た事が、後になって本当に起きるの」

 『えっ、おいおい、オカルトみたいな話は勘弁してもらいたいな』とクマは思いつつ、少し前に買ったまま放置しているG.フロイトの「夢判断」を読んでおけば良かったと後悔した。彼女に明解な解答、と言うよりも知ったかぶりが出来るチャンスを逃してしまったからだ。そして彼女の会話がいつも脈絡がなく、支離滅裂である事を不思議に思うのだった。

 『確かに彼女は時々、考えもつかないような事を突然口にする癖があるように見える。それが本性なのか、それともあまり饒舌ではない僕への思いやりで、思いつくままに話しかけて来るのだろうか』

  二人が乗ったバスは各駅停車だった。そしてその事は重要な問題であった。何故ならナッパの家は三宿にあり、クマはその手前の三軒茶屋に住んでいる。これが「急行」であれば三宿は通過するので、二人共三軒茶屋で降りる事になるが、「各駅」の場合はクマが先に降りなければならない。従って今の親密な状態を更に延長する為には、彼三軒茶屋に着く前に勇気を振り絞り、何らかの形でもう少し一緒にいたい、という自分の意志を示す必要があったからだ。

 冷房が効いた車内で吊革に掴まり並んで立っていると、それまでクマに視線のやり場を困らせていた彼女の透ける赤い水玉のシャツも、汗の乾きと共に正常に戻って行き、それはそれで彼を残念な気持ちにさせていた。

 そんな事は全くお構いなく、バスは国道246号線のだらだら坂を登って行き、もうじき駒沢という時、クマとナッパは殆ど同時に「あの・・・」と言いかけ、彼は彼女にその先を譲った。

 するとナッパは少し恥ずかし気に、しかしはっきりと「駒沢に美味しいあんみつ屋さんがあるの。もし良かったら、これから一緒に行きませんか」と天使のような声で誘ってきたのだった。『なんと、彼女も同じ事を考えていたのか』クマの心拍数は急激に上昇し、気が付くと不覚にも少し勃起していた。

 クマは以前からそのあんみつ屋の噂は聞いていた。それは学級委員をしているメガネユキコが、時折音頭を取って女生徒だけを集め、井戸端会議をしているという話で、それが彼女を皆が「安美津子」というあだ名で呼ぶ所以でもあった。

 当然クマに異存などあろう筈は無く、今度は自分の下半身の異変に対する彼女の視線を気にしながら、大きく頷いて「はいっ、勿論、喜んで」と上ずった声で答えた。その声は思いのほか車内に大きく響き、数名の乗客が何事かと二人の方に顔を向けた。それを見た彼女は、下を向き声を殺して肩を震わせている。

 『もしかしたら僕達は恋人同士に見えるかな。そしてそんな風に思う感覚って、何て素敵な事なんだろう』

 車窓から少し賑やかな景色が見え始めた時、運転手は次の停留所が駒沢であることを告げた。クマは待ちかねたように降車ボタンを押してナッパに微笑みかける。すると彼女は、他の乗客には悟られないような素振りを見せ、いわくありげに眼だけで不敵な笑みを浮かべた。まるでこれから二人で銀行強盗に行くみたいに。

 

  歩きながらクマは考えていた。何故自分は世田谷区民会館のステージという魅力的な誘いに賛同しないのだろうか。小学校高学年で洋楽に目覚め、サイモン&ガーファンクルに心酔してギターを始め、C,S,N&Yを聴いて3パート・ハーモニーにハマった。

 彼はそこから得た物を自ら体現する為、練習に励み、曲を作り、多重録音を覚え、またアグリーやセンヌキと共にバンドを組んでささやかなコンサートも開いた。もし区民会館に出演すれば、全校生徒千人を前に演奏する事になる。『何をためらう理由があるのか』

 そう考えた時、彼はふと最近あまりナッパに連絡をとっていない事に気づいた。『彼女と話してみたら何か答えのようなものが見つかるかも知れない。明日にでも三階の8組へ行ってみよう』<続>

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