ただその40分間の為だけに(6)

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 50分間の昼休みが終わり、五時限目の授業開始を告げるチャイムが鳴り始めても、クマは図書室の机の上に広げたレポート用紙の束を前に座ったままだった。

 昨夜のナッパとの電話の後、殆ど一睡も出来なかったせいで、彼の両眼はサングラス無しで雪の照り返しを浴びた時のように真っ赤に充血していた。それでも登校したのは、取り敢えずそうする事が気を紛らわす唯一の手段と考えたからだった。

 にも拘らず彼は、必修科目である現代国語Ⅲの授業を自主休講にしてまでも、気に障るその忌々しいレポートを読む方を選んだのだった。

  すると若い女性の司書教諭が、一人だけ部屋に残っているクマが気になったのか声をかけて来た。「授業はどうしたの」「今日は何もないので自習しています」クマがそう答えると、彼女は学年、クラス、氏名を聴取し手帳に書き込んだ。『後で職員室で調べられるとマズイ事になるかも』とクマは考えたが、『日頃問題行動を起こしている訳ではないし、たとえバレたとしても大した事は無いだろう』それが彼の出した結論だった。

 そして今ここに来る前に起きた出来事を、もう一度順序立てて思い返してみた。

 二時限目と三時限目の間のやや長い休み時間の事、クマが次の授業の教科書を見直していると、目の前に人の気配がする。

 「こんにちは」どこかで聞いたような声にクマが顔を上げると、そこには何とチャコが立っていた。「クマさん、こんにちは」チャコはいたって朗らかに言った。彼女は前回とは違う銀縁の眼鏡をかけており、それは意外と似合って理知的にさえ見えた。

 「こんにちは、演劇部の話は上手く進んでる」クマはかけがえのないものを失くし、心に吹き荒ぶ嵐を感じられないよう、出来るだけクールに応えた。

 「いいえ、あれはもう諦めて今日は別の用事で来ました」彼女はそう言うと抱えていた紙の手提げからⅬPレコード二枚を取り出して見せた。それはクマが以前ナッパに貸していたサイモン&ガーファンクルの「パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム」と「ブックエンド」というアルバムだった。

 「説明するとややっこしいんですが」チャコは相手が当惑する事を見越しているかのように続けた。

 「手短にお願いします」クマの声は明らかに不快感を帯びている。

 「私、ナッパちゃんと中学で同じクラスだったんです。それでこの間、彼女に会ったらこのレコードを持っているので、どうしたのって聞いたらクマさんから借りていたのを返さなくてはいけない、と言うので私に貸してと頼んだら、ダメ自分が返した後、頼めばいいじゃないと言うし、それなら私がクマさんにこれを持って行って、直接話すって無理やり盗ってきたんです」

 「何も聞いてないけど」クマはボッソっと言った。

 チャコはそれに構わず「私、それで他にも色々聞いちゃった。あっ、私と彼女って昔から結構仲がいいんです、家も近所だし」と続けた。

 『これはまた結構ややこしい事になるかも』とクマは思った。

  チャコは一頻り言いたいことを言うとレコードを置いて帰って行き、クマは手提げ袋の中を覗いて、分厚い封筒が一通入っているのを見つけた。そして、それがナッパからの手紙なのかどうか確認しようとした時、三時限目の授業が始まってしまったのだ。

 三年生になってからクマは教室中央の最前列の席を自分で選択しており、教員の目を気を考えれば流石に授業中にその封書を取り出す訳にはいかない。

 そんな彼に、後ろに座っている女子が、教員の目を盗んでクマの肩を叩いた。見るとそれは「クマさんへ」と書かれたメガネユキコからのメモだった。

 彼女は以前から時折授業中に走り書きの手紙をよこすことがあった。「憂うつそうな顔をしてますね。さっきチャコが来てたみたいだけど、何かあった」

 クマは教員が黒板の方を向いた時、斜め後ろを振り返るとメガネユキコと目が合ったので、『大丈夫』という表情を作ってみせた。

 四時限目、クマは教室移動に時間を取られ、分厚い封書は手付かずのままであった。そして、午前中の授業が終了すると、メガネユキコが話があると言ってきたので、ヒナコと三人、誰にも聞かれないよう中庭のベンチに腰を下ろした。どうやら全方位外交のヒナコが短い休み時間を使い情報収集してきたようだった。

 チャコに関する情報は、以前いきなり演劇部を作ろうと言って来た時から後は何ももたらされていなかった為、今回の彼女の話は初めて聞くものばかりであったが、クマにとって唯一無二の存在だったナッパの心が離れてしまった今となっては、それは特段興味を引くものでは無かった。

 ヒナコによれば、チャコはナッパと同じ小学校に通い中学二年と三年で同級生となり、高校は私立大学の付属校に進学したが、何らかの理由で二年生の三学期に深沢高校に編入して来たらしいとの事。クマ達が彼女の存在を全く認識していなかった理由はその為だと思われた。

 クマが取敢えずヒナコに礼を言うと、メガネユキコがためらいがちに「ナッパちゃんと何かあったの」と訊ねた。

 「いや、ちょっと」クマが少し眉をひそめるとメガネユキコは「いえいえ、別にいいんだけど」と言って、二度と同じ質問はしなかった。 

 図書室の机でクマは漸く分厚い封筒を開いた。予想に反して中身はナッパからの手紙ではなく、チャコが書いたクマの行動分析とレコードの感想文だった。『何なんだ、これは』クマは失望とも安堵とも、そして怒りともつかない不思議な感覚に捕らわれていた。 

 前略

 実を言うと、ナッパさんからこのレコードを強引に受け取った後、直ぐにクマさんには返さず自宅で聞いてみました。

 先ず思ったのは、何故この二枚なのかという事です。サイモン&ガーファンクルと言えば、普通、誰でも「明日に架ける橋」だと考えるのに、どうしてなんでしょうか。私の答えは、先ずクマさんがマニアであるという事。そしてそれをナッパさんに誇示したいと思っている事。自分の趣味を相手に伝え、そこから新たな関係を展開しようという発想です。

 でもいきなりこれを貸された方とすれば、かなり面喰ってしまうと思います。今思えば事前にもっと会話をするべきだったのではないでしょうか。

  『今思えば』という言葉が妙に気になった。『これは一体いつ書かれたものなのか』クマは未だ延々と続く文字の列を前に一人立ち盡すしか術は無かった。

 そろそろいつもの仲間から、救いの手が差し伸べられてもよい頃合いだった。<続>

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