ただその40分間の為だけに(10)

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 ヒナコは迷っていた。確かに歌うことは子供の頃から好きだったし、ある程度得意だとの自覚もあった。どんな曲でも二三回聴けば覚えてしまい、殆ど音程を外すことも無かった。そして声を体に共鳴させてより深く響かせると、得も言われぬ恍惚感のようなものに浸ることが出来た。それでもヒナコには迷っている事があった。

 彼女は「コッキーポップ」というラジオ番組を毎晩欠かさず聴いていた。そこでは、音楽を志す名も無き若者達が自作の曲や歌唱力を競い合い、リスナーからのリクエストの数によって、番組提供者であるヤマハが主催するポプコン、そして更には世界歌謡祭への道が開ける。参加者の最終目標は勿論グランプリ獲得であり、前回の受賞者は200万枚の大ヒットを記録した「あなた」を歌唱した小坂明子だった。

 ヒナコはその歌がラジオで紹介された時からいい曲だと思い、何度も声に出して歌っていた。そして呼ばれていないにも拘らず図々しく出演することになった、2ー4フェアウェル・コンサートでそれを歌おうと考えた。だが相棒のムーからナッパがその歌を演目に入れていると聞き、一応立場を考えて遠慮する事にした。勿論、彼女は他の誰よりも上手く歌う自信はあった。

 ムーはヒナコが持ち前の全方位外交ならではの情報収集力を駆使し、ようやく探し当てた相棒だった。歌に比べ伴奏のギターがあまり得意ではないヒナコにとって、ムーの演奏力は欠かせないものであり、ムーにしてもヒナコは本気で音楽を語り合える貴重な同志となっていたのだった。

 彼女達二人は、百名以上の犠牲者を出した熊本大洋デパートの火災からまだ日も浅い1973年12月にコンビを結成、それ以降毎週土曜日、互いの家を行き来して練習を重ねていた。そこで演奏されていたのは、「コッキーポップ」で聞いた「そんなあなたが」や浅田美代子の「赤い風船」、そしてまたムーが作ったオリジナル曲で、当面の目標は当初ムーだけに声がかかっていたフェアウェル・コンサートに二人で出演することだった。

 それは、このコンビとして初めて人前で歌うチャンスであり、またコンサートの模様は録音されるという非常に魅力的な情報も流れていた。二人は相応の準備をしてこれに臨み満足する結果を出したが、その「しゃべり」を含めたパフォーマンスには、クマやアグリーも「コンサートの主役を乗っ取られた」と認めざるを得なかった。


HIM そんなあなたが/風のかたみの日記

 しかし、ヒナコにとってこのコンサートに於ける一番の収穫は、クマとアグリーに出会った事だった。彼等二人は今まで聞いた事のないアコースティック・ギターの演奏、アグリーがストロークで刻むリズムにクマがつま弾くリードのフレーズ、それが途轍もなく格好良く感じられた。

 また、通常のチューニングではない神秘的なサウンドにも心が惹かれた。それは勿論彼女があまり洋楽に興味が無かったせいでもあるが、これまで上手いと思っていたムーのギターも色あせて見える程強く印象付けたことだけは確かだった。

 ヒナコは少し前から、高校生活の記念になるような事がしたいと考えていた。それは具体的に何をという訳ではないが、取敢えずは音楽絡みの事になるであろう事は予測がついた。

 そんなある日、彼女は一、二年の時同級生だった女生徒と廊下で立ち話をした。その元同級生は一年生の時から男子生徒二人とピーター、ポール&マリーのコピーバンドを組んで歌っていた。そして彼女達は毎年文化祭の初日だけ行われる世田谷区民会館での催しに出演していたのだった。それについて尋ねると今年も出る心算だとの返事だった。

 その時はそこまでで話は終わったが、後になるとヒナコは自分もそのステージに立ちたいと思うようになっていった。

 そもそも彼女はプロの歌手になるなどという発想は毛頭なく、卒業後はどこかの短大へ行き、そのうち結婚して子供を儲け平凡に暮らしてゆくという、ごくありふれた幸せを漠然と想像していた。そんな彼女にとって世田谷区民会館のステージは絶好の機会であり、思い出作りには打って付けの場所と言えた。

 彼女は早速相棒のムーに相談した。ところが意外な事にその反応はあまり芳しくなかった。反対こそしないものの、ムーは自分の技量を冷静に判断できる人間で、強力な助っ人が必要との意見を述べた。唯、もうあまり時間は残っていない。ヒナコがクマとアグリーの演奏力を思い出したのはある意味当然の成り行きあったのだ。

 そして受験勉強に没頭しているらしいクマになんとか参加を承諾させ、胸を撫で降ろしたのも束の間、ヒナコは大きな問題が残っている事に気づいた。高校最期の文化祭、しかも世田谷区民会館のステージ、そこで一体何を歌えばいいのか。彼女の迷いはその一点に絞られていた。<続>   

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