ただその40分間の為だけに(14)

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 「クマさん、こんにちは」聞き覚えのある声に顔を上げると、机の前にはチャコが立っていた。

 「世田谷区民会館に出るんですって」その言葉を聞いてクマは目を大きく開き『何故知ってるのか』という顔をした。

 「あっ、私、八組の文化祭準備委員なの。だから 『ヒナコさんグループ』が区民会館の出演申請を出した事も、グループのメンバーの名前も知ってるわけ」

 「なるほど、それで申請は承認しないぞと脅しに来たわけ」

 「何でそんな風に考えるかなあ、私はそんなに意地悪じゃないわ。ちゃんと承認する方に手を挙げました」

 「それはそれは、どうもありがとうございます。で、本日はどのようなご用件でしょうか。あっ、それと、この間のS&Gの感想文、随分立派な論文でした」

 「どういたしまして。あの、クマさん」突然チャコはあらたまった声になった。

 「なんでしょう」クマもそれにつられた。

 「真面目な話だけど、図書室の仁昌寺先生、知ってる」クマは一瞬顔をこわばらせて、そして頷いた。

 「あの、誰からの情報って聞かないで欲しいんだけど」クマはまた頷く。

 「しばらく休んでいるの。先生」

 「それは知らなかった。このところ図書室に行ってないんだ」

 「そう、仁昌寺先生、入院しているの。病名とかは分からないけど」それを聞いたクマは、今度は眉間に深く皺を寄せた。

 「でも一ヶ月位前会った時は、そんな感じは全然しなかったけど」

 クマは図書室での彼女の言葉を思い出していた。それは人と人との会話は、それぞれ互いに自分が作り出した相手の虚像に向かって語り掛けているというものだった。

 最初にそれを聞いた時、クマは何となく違和感を感じたが、後になって考えると至極尤もな事のように思えてきた。何故なら人は誰しも相手の反応を予想しながら言葉を発し、時には想定外の対応に戸惑い、狼狽し、突如陥った局面を挽回しようと。更にその虚像に問いかけるのからだ。

 『しかし、仁昌寺という司書教諭は、何故自分にそんな事を言ったのだろう。彼女が作り出したクマという人間の虚像は、そのような言葉を欲しているように見えたのだろうか。そしてそれが、あながち見当違いではなかったのは何故なのだろうか』クマは突然、それを確かめたい衝動にかられた。

 クマはチャコに訊ねた「ところでチャコさんは、どうしてそんなに仁昌寺先生について詳しいの」

 「だから情報源は言えないの。ただ私が中学生の時、大学生だった仁昌寺先生が私の家庭教師をしていたの。この学校への転校を決めたのも彼女がここにいたから」

 「ふうん」とクマは呟き、ここまでの彼女の話をもう一度自分で確認するかのように、二、三度頷いた。

 「入院先は知ってる」

 「ええ、国立第二病院」

 「近いんだ。そこの目黒通りを真っ直ぐ行って、駒沢公園の横の自由通り沿いにある」

 「詳しいのね」

 「小学校六年の時、肺炎で10日位あの病院に入院した事があって、毎日朝晩ペニシリンを腕に注射されたけど、あれは痛かった」それまで尻に打つものと思っていたペニシリン注射を、腕にする理由をクマは医者から聞き逃していた。

 「チャコさん」クマは更にあらたまって言った。「チャコさん、先生を見舞いに行こうと思うんだけど、大丈夫かな」

 「多分そう言うと思った。大丈夫よ」

 「どうしてそう言うと思ったの」

 「先生がそう言ったから」チャコは謎めいた微笑みを浮かべクマを見た。そしてこう付け加えた。「私も一緒に行っていい」

 

  翌日、クマは正門前の自転車置き場でチャコと待ち合わせた。その日は、本来であれば『ヒナコさんグループ』の第一回目の練習が予定されていたが、クマは見舞いの方を優先し、メンバー各人には事情を説明して、三人だけでやるか若しくは順延を申し出ていた。勿論三人とも承諾で日を改めることになった。ただその時、ヒナコだけはチャコの名前を聞くと少し眉をひそめた。

 病院の面会時間は午後三時からだった。クマはその日も午後の授業は無く、チャコも偶然同じだった。

 「お待たせしました」午後一時ちょうどにチャコが校舎から出てきた。

 「今日、準備委員会があるんだけど、サボっちゃった」彼女は悪戯っぽく笑みを浮かべ肩をすくめた。

 「昼ご飯は食べたの」

 「ええ、母が作ったお弁当。クマさんは」

 「僕はパンを買って済ませた」

 「面会時間は三時からだけど、少し早いし、どうする。ぶらぶら歩いて行って駒沢公園で時間を潰すのはダメ」

 「全然」早めに目的地付近まで行くことはクマが日頃行っている行為だった。

 そして二人は歩き始めた。

 「クマさんは何処に住んでるの」

 「三軒茶屋。チャコさんは」

 「昔は三宿。今は都立大、というか柿の木坂」

 「歌に出て来る所」

 「えっ、いえ、あれは違うみたい。だって国鉄の目黒駅までだって三里もないもの。でも何処の事を歌っているのかは知らない。クマさんって歌謡曲も聞くの」

 「いや、でもその歌くらいは知ってる。確かに『柿木坂は駅まで三里』って歌ってるね。多分田舎なのかな」クマは妙に納得した顔になった。

 「ねえナッパちゃんの話、していい」

 「いや、今はね。いつかどこかで、もし話する機会があったら」

 「そう、そうね。そうしましょ。でもひとつだけ聞いて」

 「何」

 「彼女はクマさんの事、本当に好意を持ってたの。それでもっと色々な事を話したかったの。クマさんだったら自分の事を解って貰えると思っていたの」

 「それで僕が彼女の期待を裏切ったんだ」

 「違う、そうじゃない。その逆よ。彼女がクマさんの事、誤解しちゃたの。ナッパちゃんはクマさんを傷つけてしまったってすごく後悔している」

 クマは少し難しい顔をして黙って歩いた。日体大の角を左に曲がり駒沢通り出ると、ずっと先にある深沢不動の交差点付近まで見下ろせる。

 『僕とナッパもこの緩い坂を下るように、ゆっくりと歩いて行けたら良かったのだ。そう、まるで熟練したパイロットが、全く機体を揺らすことなく高度を下げてゆくように』<続>

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