ただその40分間の為だけに(21)

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 「それで、お葬式には行ってきたの」ヒナコがクマにそう尋ねた。梅雨明けは未だ発表されていなかったが、校舎の屋上に上がると乾いた風が優しく頬を撫で、遠く駒沢給水塔の青いドーム状の屋根がくっきりと浮かび上がって見えた。

 「いや、それが何でもごく内輪で済ませたらしくてチャコも行ってないんだ。それに病名もはっきりしないし、学校側も口を継ぐんだまま。何か訳でもあるのかな」

 「そう、でも何だかクマさん、仁昌寺先生が亡くなってから元気が無いみたい」 

 「そうかな、身近な人が急に死んだって聞いたら、やっぱり気が滅入るよ。何でそんな事が起こらなければならないのか。未だそれ程経験がある訳じゃないけど、もう少し歳取ったらこんな事も当たり前になるのかな。当たり前になりたくもないけど」

 「そうねえ」ヒナコはそう言うと後の言葉を探すように空を見上げた。

 「もう夏休みだね。去年の今頃は文化祭でやる劇の練習に掛かりっきりだったけど、随分昔の事のような気がする」クマも空を見上げてそう言った。

 「父帰る、でしょ。私も見たわ。今考えるとあのフラフラ帰って来るお父さん役ってアグリーどんだったんだ」

 「文化祭が終わって奴に『それにしてもよくやったもんだ』と言ったら『お前が無理矢理やらせたくせに』と怒られた。でもあの劇は結構観客が多かった。まあ、この学校の文化祭で演劇の出し物は極端に少ないからね」

 「劇は準備や何だかんだ手間がかかって大変だから誰もやりたがらない。でもクマさんは一人で二年四組を纏め上げてやり切った。その実行力は凄いってメガネユキコさんがいつも言ってるわ」

 「そんな事もないよ。最近特に自分は何も出来ないんじゃないかと思う事が沢山ある。仁昌寺先生の事だって、例えばもっと頻繁に図書室に行ってたらどうだったんだろうとか」

 「そうかな、どうして」

 「僕はね、今まであまり挫折って、したことがないんだ。大成功とまで言えなくても、そこそこの成果は挙げられる・・・。そんな風に考えて来たんだ。でもその為には人に対しては随分気を使ってきた心算だし、ある意味考え過ぎな位にね。でも偶に、本当に偶になんだけど、信じられないようなミスを犯してしまう事がある。

 相手が自分に賛同してくれてると勝手に思い込んだり、特に何も言わなくても十分理解されていると勘違いしたり、それでいて言わなくてもいいような何気ない一言を言ってしまったりとか・・・。そしてそのせいで一瞬にして一番大切に思っていたものをみすみす失くしてしまったり。何だか、僕って信じられない位バカみたいだな」

 「そんな事ないよ、少なくとも私やムーは幸せにしてもらってるし、みんなクマさんの事が好きだよ」

 「何故なんだろう、そこに恋愛だとか普通ではない特別な感情が入ってくると、急に冷静に判断出来なくなって必ず間違いをしでかすんだ。そしてその間違いは殆ど致命的で取り返しがつかないような影響を与えてしまう」

 クマはそれだけ言うと少し困ったような顔をして黙った。するとヒナコはいきなりクマの頬にキスした。クマが驚いてヒナコの顔を見ると、彼女は照れ臭そうに呟いた。

 「ナッパさんじゃなくてゴメンネ。でも私、誰にでもこんな事はしないよ」クマはそれには答えずに頷き、少し間を置いて言った。

 「もっとバカな話をしようか。僕がナッパと付き合い始めた時、どんな事を考えていたと思う。僕はもう音楽なんか止めてしまって、勉強に精を出し、いい大学に入っていい会社に就職して、そうやってナッパと幸せな家庭を築く事を真剣に考えたんだ。全く笑っちゃうよね」

 ヒナコはただ黙って首を横に振った。

 「ところがさ、あっという間に振られてしまって。それで今度はもうありふれた幸せになんかに背を向けて音楽だけに生きようなんて、全く反対方向に方針を変えたりするんだ。それってどう思う」

 「クマさんは考え過ぎなのよ。仁昌寺先生が亡くなって感傷的になっているのよ。そんなに突き詰めなくても物事はなるようになるものよ」

 「ケル、ケッサラか」

 「えっ、ドリス・デイの歌」

 「いや、それは『ケセラセラ』。そうじゃなくてサンレモ音楽祭ホセ・フェリシアーノが歌った方」

 「あっ、知ってる。越路吹雪が歌ってた」

  「そうそう。越路吹雪と言えば 『イカルスの星』はいいよね」

 「えー、クマさんってそんなのも聴くの。それとももしかして宝塚ファンだったりして」 

 「いやあ、宝塚ファンはアグリーの母上がそうだけど」

 「ふうん、そうなんだ。アグリーどんのお父さんは警察なんでしょ」

 「うん、あの『あさま山荘事件』があと二、三日延びてたら現地に行く事になっていたみたい」

 取り留めの無い会話を止める者は誰も居なかった。ヒナコはクマの表情が少しずつ柔らいでゆくのが判った。そしてクマは改めて考えていた。『何故、ナッパとはこんな風にフランクに話せなかったのだろう』<続>

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