二十歳の頃

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 今週のお題は「大人になったと感じるとき」。1月11日が「成人の日」だからなのだろうが、この新型コロナ禍、各自治体は式の実施に頭を悩ましている事だろう。

 ところで「成人の日」が1月の第2月曜日となって既に久しい。以前1月15日であったものを無理やり三連休を作る為「ハッピーマンデー制度」なる法律を制定したのである。

 確かに連休ともなれば余暇の過ごし方も多様化し、延いては経済の活性化に繋がる事もあり得る。だがそれを「ハッピーマンデー」と呼ぶのは如何なものだろうか。まるで月曜日に仕事や勉学に励むことが「不幸」みたいではないか。

 とは言え「サザエさん症候群」が代表するように唯でさえ月曜日は憂鬱であるし、ましてや雨でも降ろうものならポール・ウィリアムスの名曲「雨の日と月曜は(Rainy days and Mondays)」の歌詞の如く「しかめっ面しかやる事がない(nothing to do but frown)」のである。

 などと相変わらずショーもない事をボーっと考えていたところ、ふと『自分は二十歳の頃一体何をしていたのだろう』と思うに至った。

 

 当時私は大学生で両親と同居していた。高校時代からの長髪は肩まで届いたが無精髭は殆ど伸びなかった。

 学校にはほぼ毎日登校した。次の授業まで時間があると雀荘か喫茶店で友人達と過ごし、さも意味ありげにどーでもイイ事を真面目な顔をして語らっていた。

 その頃流行っていた言葉は「フィーリング」。「フィーリングが合う」「このフィーリングなんだよね」とか「このフィーリング判らないかな」などとよく耳にした。

 そして解らない者に対しては、いかにも悲劇であるかのように同情してみせるが、実は物事を的確に説明する文言を知らない、要は自分の語彙不足をひけらかしているに過ぎなかった。それを「フィーリング」という言葉で誤魔化していただけなのだ。

 学生の本分、アルバイトは近所の小学生の家庭教師。夏休み等の長期休暇になるとマンションの建設現場で内装工事をする大工を手伝った。バイト代は当時破格の1万円/日。

 ある時、麻布十番億ションの現場でボヤ騒ぎが起き、一応関係者なので愛宕警察署に出頭して事情聴取を受けた。その際ついでに両手の指の指紋を取られてしまった為、素手で悪事を働けば直ぐに足がつくのである。

 趣味の音楽に関しては大学の同級生に誘われ、60年代のフォークソングブームの頃に発足したスチューデント・フェスティバルに加入。因みにこのサークルからは嘗て森山良子達がデビューしたそうだが、既に音楽事務所のサポートも終了、弱体化は否めず、年に2度程区民会館など公の施設を借りてコンサートを打っていた。

 それまで私は専らギターを弾いていたがバンド化する為、遅ればせながらピアノを始めた。晴れのステージデビューは今はもう無い高田馬場のライブハウス「ピープル」だった。

 成人式は役所の手違いで案内が届かず出席しなかった。届いたとしても多分行かなかったと思う。別に否定はしないがあの手の催し物は苦手だったし、今でもそうだ。

  さて、前述した破格のバイト代はどうなったか。知る人ぞ知る、知らない人は勿論知らない、4トラック・4チャンネルのオープンデッキを購入したのだ。金属製の10号リールが秒速38cmで回転する様を見るだけで背筋がゾクゾクした。

 ではそれで一体何が出来るのか。記念すべき第一作目の多重録音が辛うじて残っていた。ご一笑下されば幸甚である。


21 years old/風のかたみの日記

 二十歳の頃、かなう事なら音楽関連の仕事を生業にしたい等と漠然と考えていた。しかし結局、全く関係の無い業種に就職する事となった。その事に特段悔いはない。今思えば、ある意味あの時代は夢から現に目覚める迄の執行猶予期間だったのだろう。

 そして件のオープンデッキは既に処分し手元には大量のテープだけが残っている。どうしたものか。

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