断捨離 1

 私が住む集合住宅では年に2回、火災報知器など消防用設備の点検がある。これは消防法に定められた義務なので受けない訳にはいかない。

 問題はその点検の際、点検員が室内に立ち入る事である。火災報知器はすべての部屋と洗面所、また押し入れの中にまで設置されており、そのどれもが検査の対象。

 何故問題なのかと言えば、違法な植物等を栽培しており・・・では無く、ただ単に部屋を散らかしているからだ。

 検査を請け負った会社から派遣される点検員は、多分毎日のように様々な状況の部屋を見ている訳で、少々散らかっていようが関知する筈が無い。他人は自分が思う程こちらに注目はしていないものである。

 そんな事は解っている。要は自分が人の目を気にしなければ済む事なのに、妙な自尊心がそれを許さない。自尊心というよりは羞恥心かも知れない。

 住居内を常に綺麗にしておけばこんな問題は起きない。しかし既に散らかっているのだから答えは唯一つ、片付ければ済む話だ。

 ところが現実はそう簡単では無い。少なくともこの半年間だけとっても、確実に物が増えている。それらは必要だから揃えたのであって、殆どが耐久消費財である。従って物の量が収納能力を超え、至る処に散乱するのは至極当然の成り行きなのだ。

 これらの問題に決着をつけるには、何かを犠牲にしなければならない。この場合、犠牲とは手放すこと。もっと端的に言えば、捨てる事である。

 そして、この容易ならざる事態を収拾する為には、私は最低一週間は必要と考え予備日も考慮の上、ついに検査日の10日前に行動を起こしたのだった。

        f:id:kaze_no_katami:20181025140511j:plain

秋のマーダー

 今朝、顔を洗おうとして水道の蛇口を捻ると、手のひらに触れる水が冷たく感じられた。つい最近まで生温かった気がするが、季節は確実に移り変わっているのだろう。

 テレビでは艶やかな辛子色の外衣を纏った司会者が、淡々とニュースを伝えている。中学生が祖父母を死傷させたとの由。自ら企てた学校での殺人を実行すれば家族が悲しむ為、その前に家族を殺そうと考えたという。

 脳内のシナプスが誤った回路を繋いだのか。否、多分、生来狂っていたのだろう。

 恐らく今後語られる「心の闇」という言葉には、常に嫌悪感を覚える。人は誰にでも日の当たらない月の裏側のような領域がある。心ではなく、この世が闇になるのは義理が廃れるからだ、と昔の流行歌は謳っていた。

 親殺しはギリシャ神話の時代から口承され、親族同志の争い事は今も後を絶たない。しかしながら、少なくとも人類はそのような行為を忌むべき事とし、回避する術を営々と模索してきた筈である。 

 他方、どれだけ検査を重ねようと不良品の発生は必然であり、その多少を我々は歩留りと呼ぶ。歩留りを良くする為、劣勢は淘汰されるべき運命にあるのだ。

 幾つもの価値基準が存在する事は認めざるを得ない。また社会が充分成熟していない事も事実であろう。

 だが、このような特異な事象が普遍化する事はあり得ず、社会的規範を変革する契機とはなり得ない。

 感情的に不毛な議論を重ね袋小路に追い込まれる前に、成すべき最重要課題は、逸脱した脳の一般的構造をデータベース化の上、幼年期に於いて早期発見し、犯罪を未然に防ぐ事なのである。

 訳知り顔で「心の闇」を語る偽善者達は悲痛な表情を浮かべる前に、一人でも多く科学的立場をとるよう態度を改める事を望んで止まない。

       f:id:kaze_no_katami:20181020214137j:plain

薄れゆくパトス

 週末のホテルのバーは人種のるつぼと化していた。しかし、ここは紛れもなく日本の東京、その証拠に眼下に浜離宮の輪郭がぼんやり見える。

 時刻はまだ午後八時半、J.W. ブルーのオン・ザ・ロックを飲みながら、三人編成の生バンドが演奏する「ホテルカリフォルニア」を聞いている。

 この選曲がホテルとして妥当かどうかは疑問が残る。少なくとも歌詞を知っていればそう思うはずだ。

 しかし、そんな事はどうでもよい。もう些細な事柄に拘る歳ではない。まるで上げ足取りのような議論に身を投じるつもりも毛頭ない。自分の言葉に命を賭ける情熱はとうに失くした。

 オーダーを忘れたり間違えたり、一流ホテルのバーのウエイターとは思えない対応も今日は許す。

 席につく前、通路で肩が触れた銀色の髪の少女に咄嗟に ”I 'm sorry" ではなく”Excuse me" と言えてよかった。

 望むことは唯一つ、この旨い酒にもう暫く酔い痴れていたいだけだ。

        f:id:kaze_no_katami:20181015173310j:plain

 

More than half a century ago

 1964年10月10日、その日東京は前日の風雨がぴたりと止み、朝からまさに秋晴れ、抜けるような青空が広がった。

 同日の午後、我が家は家族揃って自宅の白黒テレビを見入っていた。勿論、東京オリンピック開会式の中継をである。

 私はまだ小学校低学年で定かな記憶はあまり残っていないが、それでも心躍るような気持ちになっていたと思う。

 式典がほぼ終了した頃、外が騒がしいので父親と一緒に出てみると、形は崩れていたものの、微かに色のついた雲が流れていた。それは航空自衛隊ブルーインパルス神宮外苑上空に描いた会心の五輪マークの名残であった。

 その光景だけは今でもはっきり覚えている。かれこれ半世紀以上も前の出来事だ。

               f:id:kaze_no_katami:20181010184941j:plain

你会打麻将吗(あなたはマージャンが出来ますか?)

 事情があってここ四ヶ月あまり断酒をしていた。ところが突然二日続けて酒会があり、根が嫌いではないのでノコノコ出掛けていった。

 その事を親しい知人に連絡すると、「おー、二日続けて連チャンですね・・・」とのメールが届いた。

 それを見て私はふと考えた、『彼女は麻雀をしたっけ?』。言うまでもなく「連チャン」とは「連荘」と書き、麻雀において親が連続して続く事を言う。

 このように我々の生活の中には、多くの麻雀用語と思われる言葉が溶け込んでおり、特に違和感もなく使われている。例えば、トイメン(对面)、メンツ(面子)、テンパる聴牌る)等が代表的である。

 これらの言葉が老若男女を問わず使われているところを見れば、もはや麻雀とは関係のない日常用語となった感がある。

 かって私が大学生だった頃、校舎の周りは喫茶店雀荘だらけで、教室に顔見知りの者が四人揃えば、平気で受業をサボり麻雀を打ちに行ったものである。

 その後、社会人となると遥かに年上の先輩達から誘われるようになり、また客接待にも出かけていった。しかし、我々世代より若い人は殆ど麻雀をしなくなった。しないと言うより知らないと言った方がより正確かも知れない。

 それでもなお用語だけは脈々と生き続けているようだ。

           f:id:kaze_no_katami:20181005082835j:plain

ゴロワーズというタバコを吸ったことがあるかい

 どうやら明日10月1日から、タバコが値上がりするらしい。喫煙の習慣が無い私にとっては、全く関係ない話ではあるが、愛煙家にしてみれば重大問題なのだろうと思う。

 そもそもこの値上げは、国が定める「たばこ税」が増税される事に依るところが大きい。

 増税額は一番需要が多そうな紙巻きたばこが1.0円/本。従って1箱20本入りの場合は20円。

 ところが、実際の小売値は約40円値上がりする。この事に対し旧専売公社、現日本たばこ産業は、「たばこの販売数量の大幅減少に対し、品質・ブランド価値を維持する為には増税分以上の定価改定が必要」とよく判らないコメントを発表をしている。

 この値上げは(当然のことながら)、全国1900万人と言われる受益者(喫煙者)が全額負担する事となる。

 いっその事これを機に、たばこを止めてしまえば楽なのではないかと考えるも、なかなかそうはいかないのだろう。なんといっても喫煙によるニコチン依存症は、中央社会保険医療協議会から正式に認められた歴とした疾患なのだ。

 病気なのでたとえ値段が幾らになろうとも吸う人は吸うし、なまじ禁煙などしてイライラされても困る。「イライラしたから」というのは、今や立派な殺人の動機となり得るからだ。念の為に申し添えるが喫煙者が犯罪予備軍とは言ってはいない。

 尚、本ブログのタイトルは、稀代のソングライターだった、かまやつひろしの作品から拝借。このたばこを吸えば、たちどころにフランスに行った気分になるらしい。  但し、私自身、ゴロワーズというたばこを吸ったことが無いので責任は負いかねる。悪しからず。

        f:id:kaze_no_katami:20180929203159j:plain

お立寄り下さった皆様に御礼申し上げます

    風のかたみの日記 を開設して半年が経ちました

 そんな事は全く気にもかけていなかったが、本日「はてなブログ」からのメールがそう知らせてくれた。

 半年前と言えばちょうど桜が満開。そして暑い夏が訪れ、今、秋を迎えようとしている。その間に投稿したウェブログは66、それに対するアクセス数は5,018。

 この五千という数字、それは顔も名前も存じ上げない方々の足跡。

 私は改めてこの場を借りて御礼申し上げたい。

           f:id:kaze_no_katami:20180927132044j:plain