11.11自由連想

 エンジンを掛けるとカーナビが立ち上がり、「今日はMM月DD日、XXの日です」と教えてくれる。それで11月11日は世界平和記念日だと言う。

 恐らく第一次世界大戦終結(停戦協定調印)の事であろうとは推測したが、あまり聞きなれない言葉であるし、帰宅後調べてみた。

 ネット情報によれば、やはり今から丁度百年前の今日、即ち1918年11月11日の事を指しているらしい。

 平和と聞いて、果たして争い事の無い世の中などあったのだろうかと考えた。そもそもずっと平和が続いていれば、「平和」という言葉さえ誕生しなかったのではなかろうか。

 勿論、戦争や紛争など起きずに済むに越したことはない。しかし攻撃、戦闘などに因る大量死は必然という説も存在する。種の保存=個体的調節理論がそれだ。

 この理論を人間に当てはめれば、人口の増加=食料難。これを回避する為、戦争が起きる事になる。このような生存に関する根源的な発想は極めて分かり易い。

 まあ、人の生き死にを簡単に述べる事は甚だ不謹慎と考えるので、ここで終わりにして、後はこの事から思いついた言葉を羅列するに留める。

 種の保存、大量死、パンデミック黒死病、鼠、ハーメルンの笛吹、レミングの大移動、ペスト、スペイン風邪第一次世界大戦第二次世界大戦原子爆弾BTS

最終的外交手段。

 昨今、現在の世界情勢が第一次世界大戦前に似ていると唱える専門家もいるようだが・・・。

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Trick or Treat(ピーナッツが教えてくれた)

 先ず、「ピーナッツ」がコミックのタイトルであると知らない人は、ここでお引き取り頂きたい。また仮にそれを知っていても、このコミックの主人公がスヌーピーだと思っている人もご遠慮願いたい。ましてやスヌーピーがカワイイなどと言う人は論外なので即刻退場を命じます。

 以上、閲覧条件を提示しました。何故ならばこれから私が述べようとする事は、このコミックの壮大なバックグラウンドの知識がなければ、到底理解出来ないと考えるからであります。(実際そんなことはありませんので、是非読んで下さい)

 さて、ライナス・ヴァン・ペルト(誰だかお分りですね?)は ハロウィーンが来ても、他の子供達のように変装をして家々を回り、お菓子をねだったりはしない。

 彼はその当日、即ち10月31日、一晩中カボチャ畑にいて、一睡もせずに唯ひたすらカボチャ大王(Great Pumpkun )が現れるの待ち続ける。

 彼によれば、大王はその年一番出来の良いカボチャ畑から現れ、子供達に玩具などのプレゼントを配るのだと言う。

 畑の出来の良し悪しは、作物の収穫高など全く関係なく、いかに偽善、欺瞞のない、誠実さの有無にかかっている。ライナスは近所の畑を巡って、今年はこの畑が一番だと確信した場所、そこに居を定める。

 そして彼はそのような大王に関する知識を、決して独り占めすることなく、それどころか友人をはじめ近隣の家々に、偉大な大王を迎えようとの啓蒙さえ行っている。

 しかし、成績優秀で深い洞察力があり、ある意味天才と言っても過言ではない彼が、何故かこの件については全く信用されない。

 また、その話を聞いた友人の一人が、プレゼント欲しさにカボチャ畑を急造。それを見せられた時、彼はただ一言「いままでこんな偽善的な畑を見たことは無い」と嘆いたりもしている。

 それはあたかも地動説を唱え、異端の烙印を押されたガリレオ・ガリレイの如く、常に周囲の無理解に晒されてしまう運命にある。

 それでも彼は、強い信念をもって毎年畑で夜を明かす。だが、天は味方せず、今まで一度も大王に出合った事は無い。

 心優しき彼の親友チャーリー・ブラウンが、見るに見かねて問い質したことがある。「何故、カボチャ大王がいると信じるんだい」

 ライナスは答える。「君が赤い服を着てホーホーホーというじいさんを信じないのなら、僕もカボチャ大王を信じないよ」

 コミック「ピーナッツ」には様々なアメリカ文化が登場する。それは1970年代、私に、そして恐らく日本人にとって初めて耳にする単語や風習であった。

 例えばジョギング、バレンタイン・カード、イースター・エッグ、ピザパイ、ルートビール、マシュマロを焼くetc.  そしてこのハロウィーン

 「Trick or Treat」今では幼児でさえ口にするその言葉を、当時知っている者は周囲に誰一人いなかった。

 そう思うと全く隔世の感がある。

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断捨離 2

 そして私はついに部屋の片づけに着手、手始めに収納棚の扉を開いた。その中には此処へ転居して来た時から、一度も開封していない段ボール箱が幾つも積まれている。

 開封しない理由は唯一つ、日常生活に必要ないからだ。これさえ処分すれば、かなりのスペースを確保出来る。

 箱の中身は外に書かれた文字を見れば大体判る。もっともそれは当然の事、文字を書いたのは私自身なのだから。

 私はおもむろに「中学/ノート類」と書かれた箱のガムテープを剥がす。中にあったのは勉学とは全く関係の無い、思いつくまま書かれた詩や散文の類と、おびただしい数の書簡だった。

 今こうして雑文を書く下地は、その頃既に形成されていたのかも知れない。そんな事を考えながら片付けはそっちのけで、ついそれらを読み耽ってしまう。

 そして更に下の方を見る。すると、中学三年時の「週番ノート2」と表書された帳面が出てきた。週番ノートとは我々学級委員が、生徒会やホームルーム活動での議事録等を記録したもので、週替わりで当番を交代していた。

 ところが、そのノートを開くと「星の王子さま」の挿絵の模写と、作者であるサン・テグジュペリの詳しい年譜や小説の一部がびっしりと書かれている。

 書いたのは学級委員の相方であった女生徒で、彼女は当時テグジュペリをアントワーヌと呼び本気で心酔していた。

 とは言え、何故そこまで丁寧に、本来の目的とは全く関係の無い事柄を記載したのか、その真意のほどは不明である。

 結局、私はそのノートを梱包し、筆者である元相方に郵送した。彼女はテグジュペリに導かれたのか、その後、大学の仏文科へ進み、大手企業に就職、社内結婚を経て一女を設けた。その程度の経緯と現住所は年賀状で知っていた。

 一方、私は薄々気が付いていた。こんな事をしていては、片付けはいつまで経っても終わらない。

 世に断捨離という言葉がある。私は最初、舎利と勘違いをして仏教用語かと思ったが、然にあらず。これは不要な物を捨てる、或いは自分にとって大切な物を選ぶ、という『やましたひでこ』なる人物の登録商標で、昨今話題となっているようだ。

 人はともすれば流行に流され易い。確かに終活と称し身辺を整理して身軽になるのも良いかも知れない、しかし自分に合ったライフスタイルを貫く事もそれ以上に大切である。

 数日後、私はあのテグジュペリの年譜と同じ筆跡で書かれた葉書を受け取った。そこには整った文字で「週番ノート1」が現存している事、そして彼女が今もそれを所持している事が書かれてあった。

 離れ離れになった上巻と下巻が、半世紀近くの時を経て、再びあるべき姿に戻ったのだ。私はそう思い、妙に感慨深くその葉書を見つめていた。

 決断するにはそれ程時間を要しなかった。「消防用設備点検に惑わされる必要は無い、片づけは取り止め」

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断捨離 1

 私が住む集合住宅では年に2回、火災報知器など消防用設備の点検がある。これは消防法に定められた義務なので受けない訳にはいかない。

 問題はその点検の際、点検員が室内に立ち入る事である。火災報知器はすべての部屋と洗面所、また押し入れの中にまで設置されており、そのどれもが検査の対象。

 何故問題なのかと言えば、違法な植物等を栽培しており・・・では無く、ただ単に部屋を散らかしているからだ。

 検査を請け負った会社から派遣される点検員は、多分毎日のように様々な状況の部屋を見ている訳で、少々散らかっていようが関知する筈が無い。他人は自分が思う程こちらに注目はしていないものである。

 そんな事は解っている。要は自分が人の目を気にしなければ済む事なのに、妙な自尊心がそれを許さない。自尊心というよりは羞恥心かも知れない。

 住居内を常に綺麗にしておけばこんな問題は起きない。しかし既に散らかっているのだから答えは唯一つ、片付ければ済む話だ。

 ところが現実はそう簡単では無い。少なくともこの半年間だけとっても、確実に物が増えている。それらは必要だから揃えたのであって、殆どが耐久消費財である。従って物の量が収納能力を超え、至る処に散乱するのは至極当然の成り行きなのだ。

 これらの問題に決着をつけるには、何かを犠牲にしなければならない。この場合、犠牲とは手放すこと。もっと端的に言えば、捨てる事である。

 そして、この容易ならざる事態を収拾する為には、私は最低一週間は必要と考え予備日も考慮の上、ついに検査日の10日前に行動を起こしたのだった。

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秋のマーダー

 今朝、顔を洗おうとして水道の蛇口を捻ると、手のひらに触れる水が冷たく感じられた。つい最近まで生温かった気がするが、季節は確実に移り変わっているのだろう。

 テレビでは艶やかな辛子色の外衣を纏った司会者が、淡々とニュースを伝えている。中学生が祖父母を死傷させたとの由。自ら企てた学校での殺人を実行すれば家族が悲しむ為、その前に家族を殺そうと考えたという。

 脳内のシナプスが誤った回路を繋いだのか。否、多分、生来狂っていたのだろう。

 恐らく今後語られる「心の闇」という言葉には、常に嫌悪感を覚える。人は誰にでも日の当たらない月の裏側のような領域がある。心ではなく、この世が闇になるのは義理が廃れるからだ、と昔の流行歌は謳っていた。

 親殺しはギリシャ神話の時代から口承され、親族同志の争い事は今も後を絶たない。しかしながら、少なくとも人類はそのような行為を忌むべき事とし、回避する術を営々と模索してきた筈である。 

 他方、どれだけ検査を重ねようと不良品の発生は必然であり、その多少を我々は歩留りと呼ぶ。歩留りを良くする為、劣勢は淘汰されるべき運命にあるのだ。

 幾つもの価値基準が存在する事は認めざるを得ない。また社会が充分成熟していない事も事実であろう。

 だが、このような特異な事象が普遍化する事はあり得ず、社会的規範を変革する契機とはなり得ない。

 感情的に不毛な議論を重ね袋小路に追い込まれる前に、成すべき最重要課題は、逸脱した脳の一般的構造をデータベース化の上、幼年期に於いて早期発見し、犯罪を未然に防ぐ事なのである。

 訳知り顔で「心の闇」を語る偽善者達は悲痛な表情を浮かべる前に、一人でも多く科学的立場をとるよう態度を改める事を望んで止まない。

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薄れゆくパトス

 週末のホテルのバーは人種のるつぼと化していた。しかし、ここは紛れもなく日本の東京、その証拠に眼下に浜離宮の輪郭がぼんやり見える。

 時刻はまだ午後八時半、J.W. ブルーのオン・ザ・ロックを飲みながら、三人編成の生バンドが演奏する「ホテルカリフォルニア」を聞いている。

 この選曲がホテルとして妥当かどうかは疑問が残る。少なくとも歌詞を知っていればそう思うはずだ。

 しかし、そんな事はどうでもよい。もう些細な事柄に拘る歳ではない。まるで上げ足取りのような議論に身を投じるつもりも毛頭ない。自分の言葉に命を賭ける情熱はとうに失くした。

 オーダーを忘れたり間違えたり、一流ホテルのバーのウエイターとは思えない対応も今日は許す。

 席につく前、通路で肩が触れた銀色の髪の少女に咄嗟に ”I 'm sorry" ではなく”Excuse me" と言えてよかった。

 望むことは唯一つ、この旨い酒にもう暫く酔い痴れていたいだけだ。

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More than half a century ago

 1964年10月10日、その日東京は前日の風雨がぴたりと止み、朝からまさに秋晴れ、抜けるような青空が広がった。

 同日の午後、我が家は家族揃って自宅の白黒テレビを見入っていた。勿論、東京オリンピック開会式の中継をである。

 私はまだ小学校低学年で定かな記憶はあまり残っていないが、それでも心躍るような気持ちになっていたと思う。

 式典がほぼ終了した頃、外が騒がしいので父親と一緒に出てみると、形は崩れていたものの、微かに色のついた雲が流れていた。それは航空自衛隊ブルーインパルス神宮外苑上空に描いた会心の五輪マークの名残であった。

 その光景だけは今でもはっきり覚えている。かれこれ半世紀以上も前の出来事だ。

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