月への尽きない想ひ

 深夜ふと目が覚めた。見慣れた寝室がいつもより明るく感じられた。よく見ると光はカーテンレール辺りから漏れている。外を確認すべく起き上がり、カーテンを開く。その瞬間、私の眼は光の正体を捉えた。満月!

 小学生の時、天体望遠鏡を買って貰った。経緯台の屈折型だったが、フレキシブル・シャフトという縦横微調整可能な機能を備え、子供にしてみれば充分過ぎる立派な代物。

 木星ガリレオ衛星は勿論、条件さえ揃えば土星の環を見る事も出来た。そして圧巻は何と言っても夜空で一番大きな天体「月」である。

 それまでも写真などで、月の地表=白く輝く山岳部や「海」と呼ばれる黒っぽい平地、そして所構わず無数に空いた大小様々な穴ボコの知識はあった。しかし実際に自分の眼で見るのとは全く違う。時間の経つのも忘れ、いつまでも接眼レンズから目を離す事が出来なかった。

 「天文学者になろう」そう考えた時期もあったが、やがてそんな事は忘れてしまった。

 時は流れ2019年4月19日。その日が「平成最期の満月」だという事をニュースで知り、何を思ったか眠っていた古いデジタル一眼レフを取り出して撮影した。レンズは70mmのズーム。三脚無し。

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 「海」は判るがそれ以外は有名な「ティコ」を含め、ぼやけて確認出来ない。そしてまた長い間、月は忘れられた存在になった。

 さて、深夜に目覚めた私は新しいカメラとレンズで撮影する事を思いつく。200mmの望遠、三脚無し。窓を開けるのは面倒なのでガラス越し、しかも網戸もそのまま。

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 思いの外よく写っていると思った。ならば翌日は窓と網戸も開けてみよう。

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 何と期待に反し真っ白。出来る限りの修正は全て試みたが、全く効果が無かった。そして私は思い出す「そもそも満月は明る過ぎて観測には適さない」。

 どうやら少し汚れた窓ガラスや網戸が、偶然適度なフィルターの役割を果たしたのかも知れない。

 そこで次の夜、網戸だけ開け窓ガラスはそのまま。もとより私は本格的に写真を趣味にしている訳ではないし、今時ネットを探せば高画質な「月」の写真は幾らでも手に入る。

 それでも幼い日、夜空を見上げ天文学者を夢見たように、今ある機材や技量を以ってここ迄来た事に妙に感動しているのである。

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季節の花(葉月)

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 8月1日。朝、カーテンを開くと久方の青空。唯それだけの事で気持ちが晴れる。朝食も摂らずカメラ片手に車を走らせる。行き先はいつもの「川口グリーンセンター」。

 午前8時40分、開園前の駐車場には既に数台の先客。この時間帯に訪れる人の殆どは重装備のカメラマン達。流石に家族連れは未だいない。

 午前9時、検温を済ませ入園。シャッターを切りながら散策、暑い。日焼けを避ける為に着て来た長袖のサマーセーター、堪らず袖をまくり上げる。マスク必須の園内の体感温度は更に上がる。

 1時間程で早くも消耗。いつものように誰もいないテラスの日陰で休息。テーブルに置いたスマホの気象情報は、関東甲信越の遅い梅雨明けを伝えていた。 

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 尚、今回もまた撮影した写真を約3分半の動画に纏め、以下の通りYouTubeにアップした。


季節の花(葉月)/風のかたみの日記

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貼り忘れた写真(或いはカナユニ再訪)

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 これまでレストラン・カナユニについて全5回、約12,000文字、凡そ原稿用紙30枚相当を費やし私見を述べた。元原稿から削除した部分や添付写真を含めれば、安易な卒業論文程度の量にはなったと思う。しかし何時もの悪い癖で脇道に逸れ、余計な記述が散見された事も否めない。

 これらを書き終えた時は、初めて南青山を訪問してから既に1ヶ月が過ぎ、私は無性にまたカナユニに行きたくなっていた。脱稿記念、未掲載メニューの写真撮影等々、自分を納得させる理由は幾らでもある。私は迷わず予約の電話を入れた。

 ということで今回は出来る限り言葉による虚飾を廃し、視覚に訴えてみようと思う。

 2018年4月14日夕刻、私はまたカナユニの扉を開ける。笑顔で出迎える横田誠氏に、この店一番の上席ヘ案内される。生演奏を正面に見る中央奥の席だ。

 程なくして現地集合のTも到着。先ずは食前酒にシェリー、その後シャブリと「漁夫のサラダ」「エスカルゴ」をオーダー。

 すると乾杯をしている我々の前に突然肉の塊が現れた。自家製ハムだ。

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自家製ハムの塊

 勿論これは、写真を撮りたい私の為のオーナーの心遣いと分かってはいるが、見た以上食べたくなるのが人情ってものだ。少し切って貰う。

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カナユニ自家製ハム

  味はGood。尚、これは通常メニューでは無いので、行った時あればラッキー。 次に懐かしい「漁夫のサラダ」が来る。

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漁夫のサラダ(Seafood Salad)

 サラダなので、ずば抜けて美味しい訳ではないが、貝類とのマッチングは良く、彩り鮮やか、何より最初からシェアされて出て来るのがカナユニ・スタイルと言える。因みに海老の頭は食べない方が良い。

 そうこうしている内に、注文していない一皿が運ばれた。これは一体?

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試作品 1

 白身魚の衣焼きのようで実に美味しい。聞くと「白魚のチジミ」みたいな物との回答。試作品なのか、美味しい旨伝えると喜んでいた。白魚は旬の物なので期間限定メニューになるかも知れない。

 そしてお待ちかね「エスカルゴ」の登場。

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エスカルゴ

 身を食べた後、残ったガーリック・バターにパンを浸す。カロリーが気になるところではあるが、そんな事を言っている場合では無い。あっと言う間に完食。美味しかった。

 エスカルゴの余韻に浸っている時、またしても注文外の品が届く。

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試作品 2

 ソラマメとじゃが芋が主体、味は良い。小さな器ながら底に新じゃがの小片あり、結構腹に溜まる。ところで今日は何故オーダーしない品が出るのだろうか。我々へのサービスか、それとも我々がモニターなのか。もし後者だとしたらグルメでも無い感想を述べた事を悔やむしかない。

 この日は極力アルコールはセーブし早めの帰宅を期していたので、シェリーの後はシャブリと赤ワインに留める事にした(それでも飲み過ぎか)。赤ワインを注文する際、オーナーから希望を聞かれた私は、よく判らないのでコストパフォーマンスが高い物を、と情けない返答。ワインリストで示された品を見たが暗くて価格も見えず了承。更にテイスティングを求められ一応作法に従い承認。デキャンタに移されグラスに注がれた。    

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シャブリと高C/P赤ワイン 横にデキャンタがある

 普段i家で飲んでいる安ワインとは格が違う、デキャンタに移し替えるのはオリがあるせいだろうか。この程度のコメントしか出来ない自分に対し、今更不満を感じても仕方ないと開き直る。

 それより愈々今夜のメインの登場だ。おもむろに簡易テーブルが我々の側に置かれた、と言えばその料理は歴然。そう、タルタルステーキの準備が始まった。

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タルタルステーキ調理中

 尚、この日の生演奏は今井亮太郎というピアニスト。アントニオ・カルロス・ジョビンを中心に軽快なボッサをプレイ。途中2曲、客の女性が飛び入りで歌うという即興セッションがあった。最近の素人は肝が太い。

 そして準備完了。Tは生肉は食べないので、殆ど10年近くの時を経て目の前に置かれた。

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タルタルステーキ

 卵黄、ケッパー他、香味野菜を混ぜた生牛肉をスプーンですくい、添えられたパンに乗せて食べる。味は各人でご賞味頂きたい。

 また、Tは定番サン・ビッツの注文を忘れず、疑問が残っていた特製タレについて聴取すると、粒マスタードにさらし玉ねぎ、だし醤油との回答。私のセロリ説は見事に砕け散った。

 やがて帰宅予定時刻を迎え、別室に立った私は途中壁に掛かった写真の前で足を止める。

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先代オーナー 横田 宏 氏

 先代オーナーの優し気な笑顔が、この店に集う者を見守っているような気がした。そして辞する際、前回同様、横田誠オーナーの丁重な見送りを受け、私は思わず敬礼で答えた。(2018年4月)

 

 やがて気が付けば、私はまたカナユニのファンになっていた。 以下は折々に撮影し、iPhoneに残っていた写真である。

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ある日のオードブル

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蟹の共殻焼き

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ヒレ肉のさしみ

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???

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その日のデザート

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クレープシュゼット(グランマルニエをフランぺ)

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フラメンコギター奏者

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ジャズボーカリスト

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各種ブランデー

 世界のあらゆる美味が一堂に会すると言っても過言ではない東京で、このカナユニというレストランは取るに足りない存在かも知れない。それでも私はこの店が持つ独特な雰囲気が好きだ。

 扉を開ければ、そこはもうジョン・コルトレーン・カルテットが奏でる心地よい 「バラッズ」の世界。昔訪れたモンマルトルの街並みか、「ブラックキャブ」と呼ばれるロンドンタクシーの車内か、それともベネチア・リゾ島にあるホテルエクセルシオールの一室。たとえ何処であれ、きっと其処に佇む私がいる筈だ。(2019年1月)

 

 さて、レストラン・カナユニについての記述はこれで終わる。数多くのアクセス、はてなスター、ブックマークそしてコメントを賜り、感謝の気持ちは言葉では言い表せない。

 ところで今般の新型コロナウイルス禍の影響が気になり、取敢えず店に電話したところ、従来通り営業を続けているとの事でひと先ず安心した。出来れば直ぐにでも行きたいところであるが、飲酒を伴う会食目的の外出は控えなければならない。

 心置きなくカナユニの扉を開くのは、何時の事になるのだろうか。<完>

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新生老舗レストランを南青山に訪た <その5>

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 そしてTはワインを一口飲み漸く「これ、味はいいんだけど、とにかく強烈」と理解不能な言葉を呟いた。早速私も残ったひと欠片を取り皿に乗せ、フォークで更に小さく分けて口に入れた。

 これまで随分ブルーチーズを食べて来たつもりだったが、これは初めての味。特段臭みや塩分が強いとも思えない。しかし凄まじい程の衝撃が口の中を蔽いつくす。

 困惑する私の顔を見てTは笑いながら「初めてチーズに負けた」とまた訳の判らない事を言い、皿に残ったブルーチーズに恨めしそうな視線を送った。これが有名なロックフォール (Roquefort) の味なのかどうか私には判断出来ず、唯Tに向かい苦笑するばかりだった。

 しかし年齢と共にイケ図々しさを身に着けてきた私はこんな事ではめげない。幾分の酔いも手伝って、次なる試みは今夜この場所でここにいる者達の注目を集めてみようと思い立った。

 手始めは先ず、以前、元赤坂で飲んだ自家製「レモン・チェッロ(Limoncello)」 の有無を確認し、もしあればそれをオーダーする事だ。イタリア発祥のこの果樹酒は、デパ地下等の洋酒売り場に行けば容易に手に入るが、この店の自家製は何と言ってもその容器の異形にインパクトがある。  

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 因みに私はこれを勝手に「氷レモンのオバケ」と呼んでいる。それまでまったり赤ワインを飲んでいたTも、「やっぱり、あるんだぁ」と懐かしそうにこのボトルを見た。すぐに食後酒用の小さく細いグラスが運ばれ注がれる。私は口を付ける前に、それをTに差し出し味見を勧める(何でもシェアする訳では無い、念の為)。感想は一言「甘くて酸っぱくて爽快」、まさにその通り。但しウオッカ・ベースなので飲み過ぎは危険。

 周囲の受けを狙ったこの行為だったが、あに図らず全く誰も興味を示さない。皆、常連なのか会話に夢中なのか判らないが、私は作戦の失敗を認めざるを得なかった。

 それでも私が次なる作戦を練っている時、冷静なTはフロアーに誠オーナーともう一人(名前が思い出せない)しか居ない事に対し「スタッフが足りないのでは」と問題提起した。確かに私も他のテーブルの客がオーダーをしようと、スタッフを探すような仕草をするのを何度か目にした。

 この店は以前から注文を受けてから料理が出る迄、ある程度時間を要していた。我々のようにダラダラと飲酒しない人にとっては、少しイラつくかも知れない。しかし少なくとも注文を取るスタッフがもう一人欲しいような気もする。その辺りは費用対効果の問題だろう。何れにせよ、辛口評論家のTの眼力は流石だと思った。そして私は最後の切り札を出す。

 世にベリーニというカクテルがある。白桃のピューレまたはピーチネクターとスパークリングワインを使った甘味な飲み物だ。かって元赤坂で他の客がその魅力的な色合いの飲料を飲むのを見た私は、同行のTに「あれは何か」尋ねると、事もなげに名前を教えてくれ、我々は早速オーダーした。

 その後、事ある毎に締めはこれと決めていたが、ある時あの浅見氏が「今日は特別なベリーニがあります」と言う。迷わず注文すると何と白桃の代わりに旬の苺を使っていた。私はその記憶を蘇らせ、季節を考慮しスッタフに確認。その結果がこれだ。

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 今度は自分の分を頼んだTは「やっぱり、これはまるでデザートのよう」と評し微笑んだ。

 やがて他の客は席を立ち始め、時計を見ると23時半を差している。流石に帰らなければならない。勘定は二人合わせて仕上り52,000円、決して安くはない、勿論ダッチアカウントだ。尚、我々のように酒をガブガブ飲まなければ、もっと安く上がるのではないかと思う。

 帰りしな、誠オーナーは花瓶から紅い薔薇を一輪抜いて我々に渡し、出口まで見送ってくれた。そして私が痛む腰をTに押され階段を上り、店が見えなくなる踊り場で振り返ると、彼は背筋を伸ばした姿勢のまま、未だそこに立っていた。まるで在りし日の先代オーナー横田宏氏のように。

 帰路のタクシーの中、深紅の薔薇に視線を落としながら、私は思わず頬を緩ませサイモン&ガーファンクルの歌を口ずさむ。気分はまさにフィーリン・グルーヴィー「59番街橋の歌」。

♪  " Got no deeds to  do  No promises to keep

          I'm dappled and drowsy and ready to sleep

          Let the mornig time drop all its petals on me

                                   Life, I love you

                                   All is groovy "  ♪       

 何の力も無い私だが、新生カナユニがここ南青山からまた新たな伝説を積み重ねて行く事を願って止まない。<続く>

                   

 レストラン カナユニ

 〒107-0062

 東京都港区南青山4-1-15 アルテカ ベルデプラザ B1F

           Tel 03-3404-4776  Fax 03-3404-4766

    営業時間 月~土/17:00~24:00 (除 日曜、祝日) 

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新生老舗レストランを南青山に訪た <その4>

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 ところで私には気掛かりな点が一つあった。それはかって種々便宜を図ってくれた浅見氏の姿が見えない事だ。私は氏の風貌からてっきりかなりの高齢と思い込んでいて、二年前の閉店を期に引退したのではないかと考えていた。しかしTによれば浅見氏は我々とそれ程歳が変わらない由、ならば再会出来るかも知れないと期待していたからだ。

 若干躊躇したが思い切って誠オーナーに訊ねると、現在神楽坂で働いていおり。先だっては客を連れて来てくれたという。何故ここで働いていないのかは兎も角、取り敢えず健在である事だけでも判っで少し安心した。 

 やがて音も無く散る木の葉ように夜のとばりが周囲を包み始め、漸く客が入店して来た。元来私は他人のプライバシーに立ち入る趣味は持ち合わせていないが、それとなく見ていると中年男性と若い女性のカップル。怪しげな香りがプンプンする。

 暫くすると彼等のテーブルに、氷入りのワインクーラーに浸かった赤ワインのボトルが運ばれた。 

 私には得意げにそれを説明しているであろう男の台詞が手に取るように解った。

 『日本のレストランはね、何処に行っても白は冷え過ぎ、赤はぬる過ぎなんだよ。赤は常温って皆言うけど、日本中の店が同じ室温なんて事はありえない。だから僕はいつもこうやって自分で管理するようにしてるんだ』 

 『じゃかあしい餓鬼、 知った風な口利くんでない』思わず自分の妄想の中で男に向かって叫んだ言葉で、私は我に返った。

 すると今度は例の折り畳み式テーブルをフロアースタッフが運んで来た。上り坂でも下り坂でも無く「まさか」と思ったが、矢張り「いきなりタルタルステーキ」だ。

 更に次の客が来る。何と全く同じ様に中年男と若い女カップル。白ワインとスープを注文した後、驚く事にこちらも「タルタル」なのである。

 Tは彼等に背を向ける位置に座っており、そもそも牛肉は好きだが、生肉には興味が無いので、敢えてその状況は伝えず、互いに白ワインを飲みながら会話を続けていた。

 やがてTが別室に立った時、私は改めて彼等を眺め、自称ストーリーテラーとしては次から次へと妄想が膨らみかけるも、それは止め、唯、かってどこかの社長がそうであったようにタルタルステーキで滑る事を念じつつ、両カップルの幸せが末永く続くよう祈るに止めた。

  『ふん、死ぬまでタルタルしてろ』

  さて、ここ青山でも赤坂の頃と同じように生バンドが入っていた。その夜はジャジーなピアノを弾く男性と女性歌手の二人組。

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 あの位ピアノが弾けると気持ちイイだろうなと私が言うと、Tはそれには答えず、あのボーカルの子「しずちゃん」に似てないか、ところで「しずちゃん」って知ってる、と問う。いくら昨今の芸能界に疎い私でもその程度の知識はある。

 やがて次第に客が入店、殆どのテーブルが埋まり、そして我々は満を持して何時もの定番メインディッシュをオーダーした。

 苦節幾星霜、遺恨十年磨一剣、遂にあのサンビッツが再びその姿を現した。(ちょっと大袈裟だったかも)

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 これは所謂ひとつのシャトーブリアン(だと思う)のステーキ。適度な厚さに切られた肉自体は冷ましてあるが充分柔らかい。オープンサンドなので一口サイズにカットされたトーストが添えられている。

 先ず肉を手前にあるタレに浸しパンに乗せて食するのがプロフェッショナルのこの店の流儀。この特製タレは粒カラシ(grain mustard moutarde à l'ancienne)をベースに何か野菜のみじん切りが入っており、それに醤油を足す。この野菜は一体何なのか。

 私はセロリと考えていたが、自分で料理をするTの意見は、セロリ説を否定しないものの以前自宅で「なんちゃってサンビッツ」を作った時は、さらし玉葱とポン酢を使ったと言う。確かに粒マスタードの製造過程でワインビネガーか酢を入れるし、それはそれで説得力があると思った。しかし実際のところ何かは不明のまま。まあ、料理は能書きで食べるものでは無く、美味しいと感じられればそれで良いのではないだろうか。

 本来、白ワイン好きなTもこれに備え既に赤に替えている。そして我々は久々にこの味を心ゆくまで堪能したのだった。

 その後、私が別室から戻って来ると何と見かけぬ一皿がある。

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チーズ盛り合わせ

 Tにオーダーしたのかと聞くと笑って頷く。私もチーズ大好き人間なので異論は無いが、かってのカナユニで浅見氏にメニュー外にも拘らず、チーズのようなものはありますかと尋ねたら「かしこまりました」と答え、暫くするとミルフィーユ・パイの上に鰻の蒲焼みたいな物が乗せられた料理が出てきた事を思い出した。

 早速Tがブルーチーズをひと欠片を口にする。暫く黙っていたが、見る見るうちに顔色が変わっていくのが判った。一体何が。<続く>

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新生老舗レストランを南青山に訪た <その3>

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 「追伸 カナユニのオーナーの息子『マコトさん』が、南青山にカナユニをオープンしたそうです」

 2018年3月初旬、そう伝えたのは暫く連絡を取っていなかったTからの近況報告メールだった。

 私はそれまでも「カナユニ」のオフィシャルサイトを時折覗いては、2年前の閉店以降、全く更新されていない事を確認していたが、Tは独自に活字媒体を通じ情報収集をしていたらしい。

 それによれば、元赤坂の店舗が老朽化の為、取り壊しが決まり、オーナー横田 宏氏は他所で同じ環境を再現する事は不可能と判断、2016年3月、50年間続いた店を閉め、その1年後、突然亡くなった。そして宏氏の三男、横田 誠氏が2018年1月、場所を南青山に移し新生「カナユニ」を開いたという。あのイケメンスタッフだと思った「マコトさん」はオーナーの息子だったのだ。

 私は早速ネットを検索して漸くそれらしき情報を入手、Tと打ち合わせの上、早速予約の電話を入れた。するとまた最後に「当方で何か用意しておく事は」との懐かしいフレーズを久々に聞き、忘れかけていた高揚感のような心の高まりを覚えた。

 当日、我々は東京メトロ銀座線「外苑前」で待ち合わせ、新生カナユニへと向った。実は私はその二年程前から腰痛が酷く、精密検査の結果「腰部脊柱管狭窄症」と診断され、杖をついても長距離の歩行は困難、特に階段の昇り降りは苦行に等しい状態だった。地下から地上に出る最後の階段を私は、「十億マイルもやってきたんだ、最後の六十マイルでとめられてたまるものか」と、殆ど「2001年宇宙の旅」のボーマン船長のような心境で上った。

 店への道は判り易かったが、私は足腰の消耗から何度も立ち止まりスマホで位置を確認、その度にTは並行する路地を確認に行ったり、私を待たせて先を探しに行ってくれた。

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 そして我々は遂に新生カナユニに到着した。

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 午後5時、開店と同時に扉を開け入店。以前と同様、室内の照明は控えめ。

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 テーブルに置かれた蝋燭の灯の揺らめきに、過ぎた昔が蘇る。私は心に安寧感をもたらすこの薄明かりが何故か好きだ。

 そしてグランドピアノとPAも以前のまま。

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 開店直後なので他に客は無く、直ぐに奥から二代目オーナー横田 誠氏が出て来て、笑顔で迎えてくれた。どうやら我々二人の事を覚えていてくれたようで私は妙に嬉しかった。

 席に案内され先ずはお洒落にシャンパンをオーダー。言葉にはしなかったものの我々の再会とカナユニの再開を祝し乾杯。尚、この店でシャンパンとして出して来る以上、少なくとも単なるスパーリングワインでは無く、シャンパーニュ地方の物である事は言うまでもない。

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 その後、おもむろにメニューを開く。元赤坂時代と全く同じだ。それは決して経費節減を図ったのものでは無く、先代オーナーが試行錯誤の末に創り上げた遺産を大切に守っているのだ。そう思われた。

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 そして注文をする。かってならば「漁夫のサラダ」から始めるところだが、今回は「季節の野菜サラダ」と「トマトスライス・サラダ」に「きのこのソテー」。Tからは、いつから菜食主義者になったのかとの疑問を呈されながらも、私は笑いながら頷て了承を求めた。

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 「季節の野菜サラダ」はさっぱりしており、「トマト」に関しては以前「マコトさん」の「このトマトの生産者は小池さんという人」を記憶していたので、今回敢えて誠オーナーに生産者は小池さんかと訊ねたところ、彼は笑みを浮かべ「仰る通りでございます」との回答をしてくれた。   

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 「きのこのソテー」は初めてオーダーしたような気がする。小型のマッシュルームを塩コショウで軽く炒めた感でありながら、酒のつまみにはもってこい。油は使っていても素材にカロリーは無くヘルシーなのが良い。と、私はすっかり摂生が板についてしまったようだ。

 その間にお馴染み外側のみアツアツ・カリカリのフランスパンが運ばれ、やはり美味しい。話を聞くと、提携しているパン屋から毎日仕入ているとの事。

 更に我々の手元には割り箸がそれとなく添えてある。これは元赤坂からの私的所望で、それを覚えていてくれたのかと感動した。やはりこの店の「オ・モ・テ・ナ・シ」の精神は只者では無く、あの東京五輪招致スピーチをした滝川クリステル嬢の美貌にも勝っていると思う。(もし二者択一を問われれば迷わず後者を取るが)

 そして、次なるメニューは我々が本当に二者択一をする事になる。即ちカタツムリかムール貝かだ。以前は交互に選んだと記憶するものの、久々であるしどちらも捨てがたく、かと言って両方頼めばメイン迄辿り着けそうも無い。若干の協議の結果、今回は「アリカントムール貝(ガーリック添え)」を選択した。        

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 尚、ここのエスカルゴはあの面倒な器具(エスカルゴ・トング?)で挟み、フォークでほじくり出す必要は無く、タコ焼きの鉄板に似た専用(皿)でガーリック&パセリ・バターと共に提供され、身を食べた後、残ったソースにパンを浸して食する。非常に美味である。

 因みにTはムール貝を食べ終わった後、オリーブ油、サフランと貝汁からなるスープにパンを浸していた。そして少し首を傾げながら、味付けが以前より濃くなったのではないかと疑問を呈す。言われてみれば確かにそんな気もするが、それは我々が歳を重ね、次第に薄味志向が強まった可能性も捨てきれず、また現に完食している訳であるから、それ程大きな欠点では無いと考えるべきかも知れない。

 本職のレポーターならばどう表現するのだろう。「味付けもしっかりしていて、これは本当に美味しいですね」とでも言うのだろうか。<続く>

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新生老舗レストランを南青山に訪た <その2>

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 さて、誰を誘って「カナユニ」へ行くか。灰色の脳細胞に真っ先に浮かんだのは大学の同級生二人の顔。我々三人は卒業後も連絡を取り合い、時折会う他に毎年1度、観光&グルメ旅行を実施。北は冬の北海道、南は夏の沖永良部島まで日本各地に足を運び、名所旧跡の見学は勿論、美しい景色に息を吞み、思いがけず美味しい食べ物に出会う時もあれば、期待に反し大外れした事もあった。

 彼等ならばこの「カナユニ」というレストランの価値を認めてくれる確信はあった。しかしよく考えてみると夫々次第に責任ある立場になり、しかもその頃、一人は難病の子供を抱え対応に追われていた為、迂闊に声は掛けられない。世の中には親しいが故に控えなければならない時もある。

 次に考えたのは新人教育を一緒に受けた同期入社の中で、特に親しくしていた二人。だが彼等は転勤で東京にはおらず、こちらも諦めざるを得なかった。

 そんな時ふと思い出したのが赤坂の貿易会社に勤める知人Tだった。そのTとは、とある場所で顔見知りになり、何と同じ小学校出身だった事もあり、その後2度程二人で飲みに行っていた。早速メールを飛ばしたところOKの返事。

 その夜、私は「カナユニ」に予約の電話を入れた。応対したのは浅見さんという最古参のフロアースタッフ。小柄で痩身そして見事な白髪の持ち主、前回我々のテーブルの担当者だ。勿論接客の素晴らしさは言うまでもない。

 料理はアラカルトで頼み席の予約はすぐ取れた。用件が済み私が宜しくと言うと、浅見氏は当日何か用意しておく事はあるかと聞く。直ぐにはその意味を理解出来ず黙していると、すかさず何方かの誕生日ですかと言い直してくれた。私はその必要は無い旨伝え、先方のお待ち申し上げております、で会話は終わった。

 そして一日千秋の思いで待った「カナユニ突入の日」がやってきた。夕刻、赤坂見附で待ち合わせたTと二人店に入ると、浅見氏が迎えてくれ席へ案内。そこでコート等を預け着席。おもむろにメニューが夫々に渡され、取敢えず飲み物を聞かれる。

 長年ビール党の私は迷わず生ビール、Tは白ワイン。そこで浅見氏の問いが入る。「ワインはどの様な物にいたしましょうか」。Tは具体的銘柄や年代の指定はせず(と言うより出来ない)、あまり甘くないスッキリした飲み心地、的なオーダーをして、白髪の紳士は「かしこまりました」とだけ言って立ち去った。

 因みに我々の手元にはワインリストが残されていたが、判るのはどれもかなりイイ値段だという事位だった。尚、この店ではグラスワインの用意もある。

 料理の方はこちから合図しない限り注文を取りに来るような事は無く、ゆっくりメニューから選べばいいのだが、前回来た時は、ろくに目を通す事も出来なかったので何を頼めばいいのか判らない。

 取敢えず評判だというオニオングラタンスープとサラダを頼み、またメニューを眺めているとバスケットを運んで来た。中には数種類のパンが入っており、私はフランスパンとバターバターロール選んだ。外側が熱々カリカリのフランスパンを千切り、昔ながらの小さな陶器に入った硬いバーターを削って塗ると、途轍もなく美味しく思えた。  

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オニオングラタンスープ

 いつも舌を火傷するオニオングラタンスープは噂に違わず美味で、これ程の物はかって日本橋室町にあった「太平洋」という洋食屋以来だった。後は浅見氏に相談しながらオーダー、すべての料理に満足。

 その中で特筆すべきは「サンビッツ」というビーフステーキのオープンサンドである。

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サンビッツ・カナユニ風

  これは前回の生肉を使ったタルタルステーキと違い、牛フィレ肉をミディアムレアーにソテー、秘伝のタレをつけてパンと共に食べる。牛肉を愛して止まないTはすっかり気に入って、その後我々の定番となった。

 他にはこれも前回殆ど気付かなかったが、生バンドが入っている。後日この店のホームページを見ると出演者のリストがあり、どれも三名以下の小編成でジャスを中心にボサノバ、ラテン系のミュージシャン。食事代とは別に@2~2,500円のミュージックチャージなるものがある事も判明した。

 兎にも角にもその夜は二人共大満足で、この店にて再会を期し別れたが、唯一懸念材料と言えば、普通にワイン一本程度で済ませればいいところ、ついつい多飲する傾向が強く、それが勘定アップに直結する事であった。

 それでもその後、何度も通う内に、マコトさんという若くイケメンのスタッフとも顔なじみになり、他の席で注いだワインがボトルに残っている時など、それとなく我々のグラスに入れてくれたり、浅見氏は帰りに手提げ袋をくれて、帰宅後開けてみるとあの美味しいパンが沢山入っていた事もある。

 そして最も印象深いのは、伝説のオーナー横田宏 氏が手の空いた時は必ずと言っていい程、高齢をおして階段を上り、我々を見送ってくれた事である。暫く歩いて振り返るとタキシード姿の老紳士は、背筋をきちんと伸ばした姿勢のままそこに立っていた。その姿は今も目に焼き付いて離れない。

 それから数年後、私は長年の不摂生が祟ったのか体調を崩し医者から断酒を命じられた為、暫くの間大人しくしていたが、摂生しつつ毎朝5kmの速歩、週1~2度プールやジム通いを続けた結果、どうにか元の身体に戻る事が出来た。

 そんなある日、どうしても出席しなければならない案件で出掛けると、案の定早い時間から酒宴となった。夕方になっても皆飲み足りない様子なので、私は軽い気持ちで久々に「カナユニ」に電話をかけた。

 ところが電話に出た浅見氏の話に私は言葉を失ってしまう。何と一週間後に「カナユニ」が閉店すると言うのである。暫く行かないうちに思いもかけない事態が起きていたのだ。

 「お解りになると思いますが、もう予約が一杯で残念ながらお受けする事は出来ません」浅見氏の説明に、私は驚きのあまり閉店の理由など聞けず、辛うじてこれ迄の謝辞と浅見氏他スタッフの方々のご健勝、ご多幸を祈念する、と言うのがやっとだった。

 急に酔いが回った頭の中を「カナユニ」での出来事が走馬灯のように駆け巡り、やがてゆらゆら揺れる蝋燭の灯りが突然消えた。そして気がつけば、いつの間にか私はアルフォンス・ドーデーの「風車小屋だより」の一節を呟くように何度も復唱していた。

 『仕方ありませんや、ねえ旦那。この世には何にだって終わりというものがありますよ。ローヌ川の乗合船や最高裁判所や大きな花模様の上着などの時代が過ぎたように』

<続く>

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 後になって「カナユニ」閉店の挨拶状が会社の私宛届いており、それを庶務の担当者が破棄していた事が判明した。しかしだからと言って私に何かが出来た訳では無い。