ただその40分間の為だけに(8)

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 図書室を出たクマは、またいつもの桜並木をバス停に向かっていた。司書教諭との会話に示唆されるところはあったし、なにより初対面の彼女と自然に話が出来た事が嬉しかった。『あんな人が教鞭を執ればいいのに』とも考えたが、それは彼女が言うところの「月の裏側」の部分なのかも知れなかった。

 見慣れた道の景色は先週と殆ど変わっていない。それは別段不思議な事ではない。しかし、事物を優しい気持ちで眺めることが出来た日々と今は明らかに何かが違う。

 初夏の日差しに輝く新緑、草の香りを運ぶ風、沿道に置かれた色鮮やかな鉢植え。全てがよそよそしく他人行儀な冷たい顔をして自分を拒絶している。クマにはそう思えてならなかった。

 『目に映る物すべてがナッパを思い出させる。だがこんな事をいつまでも続けていてはいけない』

 クマは充分それを承知していた。しかし、そこから脱却するには更に長い時間が必要な事も事実であった。『唯、このまま無為無策に月日を費やすしか術は無いのか。そもそも、あれ程大切だった二人の関係が何故こんなにも早く、意図も容易く切ない思い出に変わらなければならなかったのか』彼は自分が一体どこで間違ってしまったのか、そればかりを考えた。

 『それでも、どこかで結論を出し、この運命と折り合いをつけなければならない』それが妥協か諦めか、何れにせよクマには受け入れる決心が必要だった。

 『昔ならば、外人部隊に入る手もあったが』ピーナッツ・コミックに出てくるビーグル犬の台詞が浮かんだ。クマは『未だ自分を茶化す余裕がある』と寂しく微笑んだ。

 

 「あっ、そうだったんだ。何だかチャコって曲者かも知れないね」メガネユキコはいつも通り歯に衣着せぬ物言いをした。

 クマは学校を出る前にメガネユキコとヒナコには、レコードに添えられていた封筒がナッパからの手紙ではなく、チャコのレポートだった事を報告していた。

 「で、そのレポートの中身は」ヒナコが興味ありげに訊ねる。

 「それがS&Gの曲の感想文みたいな・・・」クマはそう答えた。

 「なに、それ」

 「いや、でも中々よく書けていると思った。これがそう」クマはレポート用紙の束から一枚を取り出して見せた。

 

 アルバム・タイトルの「パセリ・セージ・ローズマリー&タイム」これは全て香辛料の名前です。

 私はハンバーグを作る時、ナツメグの他に必ずセージを入れます。そうすると結構お店の味に近づきます。でも何故これがアルバムのタイトルなのでしょう。

 もちろん、この言葉は一曲目のスカボローフェアに出てくる一節ですが、私はこのアルバムに色々な香りが散りばめられている事を言いたいのではないかと思いました。クマさんはどう考えますか。

 Side A-1 スカボローフェア

 この曲の歌詞を見た瞬間、私は自分が持っているボブ・ディランの「フリー・ホイーリン」に入っている「北国の少女」を思い出しました。

 何故なら「Remeber me to one who live there, She once was a true love of mine」が 全く同じだからです。どうしてこうなるのか分かりませんが、どちらも英国のトラディショナルを基にした歌らしいですね。

 そしてこのスカボローフェア/キャンティクル(詠唱)は、二つの詩とメロディーが重なり合って出来ています。ママス&パパスの「夢のカリフォルニア」のように同じ言葉を繰り返すのではなく、一つはメインの美しいメロディーに合わせた牧歌的な歌詞、もう一つは銃を磨きながら上官の攻撃命令を待つ兵士の事を歌った歌詞、という組み合わせ。実はこの二つの矛盾がこの曲の主題だと思います。

 アメリカは日本と違って、今ベトナムで戦争を続けている事を改めて気づかされます。この手法はアルバムの最後に入っている「7時のニュース/きよしこの夜」にも通じるものです。

 静かなクリスマスソングと共に、キング牧師暗殺事件等、殺伐としたニュースを淡々と伝えるアナウンスが印象的です。新谷のり子が歌った「フランシーヌの場合」のフランス語のナレーションは、この発想を模倣したものと私は断定します。

 とにかく、この全く異なる歌詞の組み合わせという斬新かつ挑戦的な姿勢は素晴らく、しかも裏歌の「 A soldier cleans and  polishes a gun. 」に続く表の「Then she''ll be a true love of mine.」のように重なる部分で韻を踏むという高度な技巧も見られ、それを見つけた時はとても嬉しくなってしまいました。

 クマさんの意見を聞かせて下さ い。 

 

 ヒナコはそれを読み終わると、明らかに不機嫌そうに顔をしかめ、メガネユキコは「なかなかやるわね、でも何の為にこんなに一生懸命書いているのかしら」と疑問を呈した。

 恐らく彼女はその答えも用意していたのだろうが、傷心の自分を慮って敢てそれは言わないのだ、と、クマには解っていた。

 別れ際、ヒナコは一言こう呟いた。「ねえクマさん。文化祭、やっぱり一緒にやろうよ」

 

 桜並木を一人帰るクマにとって、ヒナコの言葉はまるで水島上等兵に帰国を呼びかけるインコのように、繰り返し彼の心の窓を叩いていた。『そう、またあの世界に戻るしかないかも知れない』<続>

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ただその40分間の為だけに(7)

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 「クマくん」若い女性司書教諭はそう声を掛けると直ぐに「あなたに悪いニュースがあります」と、まるで外国映画の台詞を直訳したような表現で続けた。しかし、それを聞いたクマは別に嫌な気はせず、それどころか随分洒落た言い方をするな、とさえ思った。

 「言わなくても解ると思うけど、君をこのまま図書室に置いておく訳にはいきません」

 その言葉にクマは如何にも心外という表情を浮かべて、殊更大袈裟に両手を広げ、ゆっくりと首を横に振る。それこそまるで外国の映画俳優がそうするみたいに。

 「私は伝えるべき事は伝えました、本件に関し君に拒否権はありません。直ちに3年1組の教室に戻り、現国の授業を受けて下さい」

 『この芝居がかった言葉使いは、多分誰かが作ったルールなのだ。だからこの世界では誰もがそのルールを守らなければならない、与えられた台本に役者が従うように』

 「オーケー、ボス・・・」

 そう答えたところでクマは目が覚めた。『夢だったのか』

 時計を見ると午後3時。そこはホリゾントライトに照らされた舞台の上ではなく、窓の外から午後の暖かな日差しが注ぐ図書室の中だった。

 そしてクマは周囲を見回し、まるで一人取り残された難民のように、ぽつんと座っている自分に気づいたのだ。

 『少なくとも今夢を見ていた間、悲しい現実を忘れることが出来た』クマはそう思った。目覚めと共に否応なしに蘇る、あの悪夢のような衝撃的事実。それを突き付けられてから未だ一日も経っていない。

 『そう、確かにナッパは僕から去ってしまった』そう考えると、自分が人影の無い夕暮れの街外れを、行くあても頼る物も何も持たず、後悔と不安に心を乱されながら、一人放心したようにトボトボ歩いている感覚に捕らわれてしまう。

 クマは窓の外を眺め、雲の切れ間から差し込む光の帯を探した。しかし朝から五月晴れの空は午後になってもそのまま続いており、雲一つ見当たらなかった。

 『光の帯の時空転送装置はナッパ一人を乗せる能力しかないのか』そう考えているうちにクマの脳裏には、彼女と二人で通り過ぎてきた日々の、輝いて見える部分だけが次々と浮かび、気が付くと涙が止めどなく流れ始めた。 そして、いつ、どこで、誰が、何を、どう、間違えたのか。またそれは何故なのか。クマは泣きながら五つのWと一つのHを指を折って確認していた。

 クマにはそんな事をしている自分が滑稽でもあり、また哀れでも愛おしくもあるのだった。

 「どうかしましたか」知らぬ間にクマの横には司書教諭が立っており、怪訝そうな顔をしてそう訊ねた。

 「先生」クマは今まで一度も口をきいた事のない彼女に対し、思わず自分でも予期せぬ言葉を発した。

 「先生は取り返しのつかない出来事を経験した事はありますか」

 「・・・それは何度もあると思うけど。例えば歳を取ったりとか」

 「いいえ、そんなのではなくて、何て言うか、そう、言わなくてもよかった事を言ってしまったりとか」

 「・・・今こうして会話をしているけれど、私は私が作り上げた君と話していると思うの。こう言えば君がどう反応するか、君の隣に作ったもう一人の君の顔色をうかがいながら、次の言葉を探しているの。だから、どれだけ言葉を尽くしても、それは想像の領域のコミュニケーションでしかない。でも私達は切れば血の出る現実に生きている・・・言っている意味が解る」部屋の中に、内容とは裏腹な司書教諭の屈託のない声が響いた。

 「多分、判る、と、思います」クマは考えながら答えた。

 「だったらオーケー。失恋でもしたの、人を好きになるのは理屈じゃないわ。大抵は一瞬の気の迷いか、大いなる勘違い。まあ若いんだから元気を出しなさい。月並みな言葉だけれど」

 「先生は恋愛に恨みでもあるんですか」クマは思わず笑顔で言った。

 「そんな事はないけど、でも些細な言葉の行き違いで壊れてしまうような繋がりなら、元々大した事が無い証拠。そんな関係なら幾らでも転がっている。それで相手が本当は何を考えているかなんて誰にも判る筈がない。だって自分で自分の事さえ判らないんだから。君は完全に自分自身を把握していると思う。人は誰でも、決して日の当たらない月の裏側みたいな部分を持って生きているって、私はそう思うけど」

 クマがまだその言葉の意味を頭の中で整理している間に、彼女はもう一言付け加えた。

 「まあ、でも嘘はダメね。特に直ぐバレる嘘は。今日の午後、授業は無いと言うのは最低。取り返しのつかない出来事を経験した事って、今日君を見逃してしまった事かも知れない」 

 彼女は笑っていたしクマも笑うしかなかった。この台本のルールに従って。<続>

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ただその40分間の為だけに(6)

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 50分間の昼休みが終わり、五時限目の授業開始を告げるチャイムが鳴り始めても、クマは図書室の机の上に広げたレポート用紙の束を前に座ったままだった。

 昨夜のナッパとの電話の後、殆ど一睡も出来なかったせいで、彼の両眼はサングラス無しで雪の照り返しを浴びた時のように真っ赤に充血していた。それでも登校したのは、取り敢えずそうする事が気を紛らわす唯一の手段と考えたからだった。

 にも拘らず彼は、必修科目である現代国語Ⅲの授業を自主休講にしてまでも、気に障るその忌々しいレポートを読む方を選んだのだった。

  すると若い女性の司書教諭が、一人だけ部屋に残っているクマが気になったのか声をかけて来た。「授業はどうしたの」「今日は何もないので自習しています」クマがそう答えると、彼女は学年、クラス、氏名を聴取し手帳に書き込んだ。『後で職員室で調べられるとマズイ事になるかも』とクマは考えたが、『日頃問題行動を起こしている訳ではないし、たとえバレたとしても大した事は無いだろう』それが彼の出した結論だった。

 そして今ここに来る前に起きた出来事を、もう一度順序立てて思い返してみた。

 二時限目と三時限目の間のやや長い休み時間の事、クマが次の授業の教科書を見直していると、目の前に人の気配がする。

 「こんにちは」どこかで聞いたような声にクマが顔を上げると、そこには何とチャコが立っていた。「クマさん、こんにちは」チャコはいたって朗らかに言った。彼女は前回とは違う銀縁の眼鏡をかけており、それは意外と似合って理知的にさえ見えた。

 「こんにちは、演劇部の話は上手く進んでる」クマはかけがえのないものを失くし、心に吹き荒ぶ嵐を感じられないよう、出来るだけクールに応えた。

 「いいえ、あれはもう諦めて今日は別の用事で来ました」彼女はそう言うと抱えていた紙の手提げからⅬPレコード二枚を取り出して見せた。それはクマが以前ナッパに貸していたサイモン&ガーファンクルの「パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム」と「ブックエンド」というアルバムだった。

 「説明するとややっこしいんですが」チャコは相手が当惑する事を見越しているかのように続けた。

 「手短にお願いします」クマの声は明らかに不快感を帯びている。

 「私、ナッパちゃんと中学で同じクラスだったんです。それでこの間、彼女に会ったらこのレコードを持っているので、どうしたのって聞いたらクマさんから借りていたのを返さなくてはいけない、と言うので私に貸してと頼んだら、ダメ自分が返した後、頼めばいいじゃないと言うし、それなら私がクマさんにこれを持って行って、直接話すって無理やり盗ってきたんです」

 「何も聞いてないけど」クマはボッソっと言った。

 チャコはそれに構わず「私、それで他にも色々聞いちゃった。あっ、私と彼女って昔から結構仲がいいんです、家も近所だし」と続けた。

 『これはまた結構ややこしい事になるかも』とクマは思った。

  チャコは一頻り言いたいことを言うとレコードを置いて帰って行き、クマは手提げ袋の中を覗いて、分厚い封筒が一通入っているのを見つけた。そして、それがナッパからの手紙なのかどうか確認しようとした時、三時限目の授業が始まってしまったのだ。

 三年生になってからクマは教室中央の最前列の席を自分で選択しており、教員の目を気を考えれば流石に授業中にその封書を取り出す訳にはいかない。

 そんな彼に、後ろに座っている女子が、教員の目を盗んでクマの肩を叩いた。見るとそれは「クマさんへ」と書かれたメガネユキコからのメモだった。

 彼女は以前から時折授業中に走り書きの手紙をよこすことがあった。「憂うつそうな顔をしてますね。さっきチャコが来てたみたいだけど、何かあった」

 クマは教員が黒板の方を向いた時、斜め後ろを振り返るとメガネユキコと目が合ったので、『大丈夫』という表情を作ってみせた。

 四時限目、クマは教室移動に時間を取られ、分厚い封書は手付かずのままであった。そして、午前中の授業が終了すると、メガネユキコが話があると言ってきたので、ヒナコと三人、誰にも聞かれないよう中庭のベンチに腰を下ろした。どうやら全方位外交のヒナコが短い休み時間を使い情報収集してきたようだった。

 チャコに関する情報は、以前いきなり演劇部を作ろうと言って来た時から後は何ももたらされていなかった為、今回の彼女の話は初めて聞くものばかりであったが、クマにとって唯一無二の存在だったナッパの心が離れてしまった今となっては、それは特段興味を引くものでは無かった。

 ヒナコによれば、チャコはナッパと同じ小学校に通い中学二年と三年で同級生となり、高校は私立大学の付属校に進学したが、何らかの理由で二年生の三学期に深沢高校に編入して来たらしいとの事。クマ達が彼女の存在を全く認識していなかった理由はその為だと思われた。

 クマが取敢えずヒナコに礼を言うと、メガネユキコがためらいがちに「ナッパちゃんと何かあったの」と訊ねた。

 「いや、ちょっと」クマが少し眉をひそめるとメガネユキコは「いえいえ、別にいいんだけど」と言って、二度と同じ質問はしなかった。 

 図書室の机でクマは漸く分厚い封筒を開いた。予想に反して中身はナッパからの手紙ではなく、チャコが書いたクマの行動分析とレコードの感想文だった。『何なんだ、これは』クマは失望とも安堵とも、そして怒りともつかない不思議な感覚に捕らわれていた。 

 前略

 実を言うと、ナッパさんからこのレコードを強引に受け取った後、直ぐにクマさんには返さず自宅で聞いてみました。

 先ず思ったのは、何故この二枚なのかという事です。サイモン&ガーファンクルと言えば、普通、誰でも「明日に架ける橋」だと考えるのに、どうしてなんでしょうか。私の答えは、先ずクマさんがマニアであるという事。そしてそれをナッパさんに誇示したいと思っている事。自分の趣味を相手に伝え、そこから新たな関係を展開しようという発想です。

 でもいきなりこれを貸された方とすれば、かなり面喰ってしまうと思います。今思えば事前にもっと会話をするべきだったのではないでしょうか。

  『今思えば』という言葉が妙に気になった。『これは一体いつ書かれたものなのか』クマは未だ延々と続く文字の列を前に一人立ち盡すしか術は無かった。

 そろそろいつもの仲間から、救いの手が差し伸べられてもよい頃合いだった。<続>

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ただその40分間の為だけに(5)

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 まだ春休み中だった四月初め、クマは明治神宮での初デートで二年間恋焦がれ続けたナッパといきなり口論をしてしまい、それ以来少し冷却期間を置いていた。否、その表現は正しいとは言えない。彼は『自分は嫌われてしまったのではないか』という、考えるだけでも恐ろしい強迫観念にかられて、日々悶々と過ごしていたのだ。

    『こんなことならばデートなどしなければ良かったかも知れない』そんな考えが脳裏をかすめたが、それは間違った捉え方だった。

 昨年、文化祭に関わる一連の流れの中で、確かにクマとナッパはかなりの時間を共有した。しかし、それは偶然同じ高校に入学し、同じクラスになっただけの関係以上のものではない。しかも3年では全く違うクラスに選別され、放っておけば再び単に顔と名前を知っているだけの、唯の同窓生に戻ることは確実だった。

 それを回避すべく、起死回生を狙って無理やり立ち上げた2-4フェアウェル・コンサートも淡々と終わってしまい、三月末のクラス合宿の帰り道でデートに誘うことが、与えられた最期のチャンスだったのだ。

 『誰にも頼れない』クマは相変わらず依存体質から抜け切れずにいたが、今更アグリーやセンヌキ、またアガタやダンディーといった、親しい仲間達に泣きつく訳にもいかず、女子の中で唯一人、気兼ねなく接してきたメガネユキコや、煮え切らないクマとナッパの仲を取り持ってくれた、2-4インケングループのニッカやホナミに相談する事も出来なかった。

 何と言っても体裁が悪いし、折角の厚意を無にしてしまったようで、申し開きのしようが無いと思った為である。

 とはいえ、押し潰されそうな不安から逃れる為には、その不安自体を払拭しなければならない事は明白である。

 『さて、では何をすればいいのか』しかしクマはまた必要以上に考え込んでしまう。取り敢えずナッパと会って話す為、校舎の三階まで上がって3年8組の教室を訪ねることを思いついたが、唐突過ぎるような気もして、先ずは電話か手紙かと、とにかく彼はこの手の問題に関しては極端に想像力を欠き、「傾向と対策」は五里霧中、全く暗中模索状態であった。

 

 「あっ、魚が跳ねた」ナッパは洒落た内装のあんみつ屋の中央にある、少し大き目の水槽の波紋を指して、さもそれが大事件のように驚いた。

 『僕はいままで、どうでもいい詰まらない事を騒ぎ立てる者は嫌いだったし、白々しい事を言う奴も嫌だった。しかしナッパは違う。彼女が殊更驚いた時や、分り切った事をくどくどと説明する時も、僕は何故か素直にそれを受け止める事が出来る。

 当然の事ながら、確かに彼女は他の誰とも異なるが、彼女は僕を優しい人間にしてくれる。彼女の存在があるというだけで僕は落ち着き安らぐ。しかし彼女はどうだろうか。彼女は多くの物を僕に与えてくれるが、僕が彼女に与える物は何も無い。そう何一つ・・・。僕はしかし、彼女に対し誠実であればいい。自分を偽らなければ、それでいい』

 殆ど妄想に近いこのような発想は、すべてクマの恋するが故の相手に対する盲目と過大評価が成せる業だった。

 

 クマは漸くあることに気づいた。『何故、僕はあんなに大切に想ってきたナッパに連絡も取らず、一人で無駄に時間を過ごしてしまったのか。多分それは彼女から交際打切りの最後通牒を突き付けられるのを、先延ばしして来ただけなのではないか』

 思い返せば、彼女から受け入れられなかった時のことばかりを恐れ、自分の想いを打ち明けられず、ナッパが自分ともっと親しくなりたいと思っている事を、ニッカとダンディーのラインを通じ伝え聞き、初めてデートに誘うのを決断した三月末と同じだった。結局これら決断力の無さは彼女から否定された時、自分の存在価値が損なわれてしまう、それがクマが最も恐れる事であった。

 「The river can be hot or cold. and you should dive right into it.」(川が熱かろうが冷たかろうが、お前さんは飛び込きゃならない)デイビッド・クロスビーは「ページ43」という曲でそう歌っていた。そして、クマはついに決心した。

 先ず電話の受話器を取り上げ大きく深呼吸をする。『まるでフェアウェルコンサートで歌った「恋のダイヤル6700」の歌詞みたいな心境だ』

 彼は苦笑いを浮かべ、暗記してしまった番号を回す。そして呼び出し音が鳴り始めた。

 クマの耳元ではピーナッツ・コミックのビーグル犬が、世界的に有名な第一次世界大戦パイロットに扮してこう呟いている、「こんな出撃の繰り返しは、間違いなく彼をダメにしてしまうだろう」

 

  「私ね、本当は高校の間ずっと、男の子とこんな風に二人っきりで話すなんて絶対無いと思っていたの」あんみつを食べながらナッパはそう言った。「学校で男の子がたむろしていると、何だか怖いの。一人一人はそうでもないかも知れないけど。だから、こんな事初めてだから、何だかあがちゃった」

 店の窓からは西に傾き始めた太陽が、雲の切れ間を通して幾重にも長い光の帯を差掛けているのが見えた。

 「笑わない」彼女は既に自分で吹き出しそうになりながらクマに訊ねた。

 「うん。でも何が」彼は何があっても笑わない準備をした。

 「本当に笑わない。この間ニッカに話したら大声で笑われちゃった」

 「約束するよ。僕は日本語を話すようになってから嘘をついたことは無い」

 「あのね、あんな風に光の筋があると」ナッパは夢を見ているような瞳で窓の外を見つめながらそう言った。「あのうちの一本がすうっと伸びて来て、私を何処かへ連れて行ってしまうんじゃないかって、いつもそう考えるの。クマさんはそんな風に考えた事ない」

 クマは笑わなかったし、別に笑うような事ではないと思った。

 『これは現実逃避願望か他力本願的冒険心か』彼はそう考えたが、口には出さなかった。「そんな事考えたこともないよ、まるでかぐや姫みたいだね」それが回答だった。彼女は少し笑った。

 「クマさんはいつも何を考えているの?」ナッパは水を一口飲んで聞いた。

 「僕はね・・・。うん、何を考えているのかなあ。きっとろくでもない、取るに足りない事ばかりだと思うよ」実際クマはナッパの事以外、自分が何を考えているのかよく分からなかった。

 「何だか自己嫌悪になってるみたい」

 「うん、そう・・・かな」クマはその時いっその事、実はずっと前から君の事が好きだった、とナッパに言えばよかったと思いながら黙り込んでしまった。

 彼女も暫く何も言わなかった。

 「寒くない」ナッパは急に思い出したように、両手で肘を覆いながらそう言った。確かに店の冷房は少し効き過ぎだった。クマは同意し席を立った。

 帰りのバスの中では、また文化祭の話で二人に取り留めの無い会話が戻った。クマが先に降りる別れ際、ナッパは「今日はとっても楽しかった。どうもありがとう」と微笑んで見せた。彼は『あれは社交辞令なのかな』と思った。

 

 「もしもし」受話器を通して、クマが愛して止まないナッパのハイトーンの声が聞こえた。しかしそれから先の記憶を、彼は悉く失くしてしまった。過度の悲しみはその記憶を消し去る事で、辛うじて自我を維持出来るよう仕組まれているのかも知れない。

 唯、彼はおぼろげながら新たに認識した事がある、『悪い予感ほど良く当たる』

 ナッパは雲の切れ間から差し込んだ光の帯に乗って、クマを置き去りにしたまま何処か遠い所に行こうとしているか、既に行ってしまったのだ。まるで留まる事を知らずに休みなく飛び続けるジョナサン・リヴィングストンのように。<続>

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ただその40分間の為だけに(4)

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 アグリーとヒナコの誘いを振り切り学校を出たクマは、バス停に向かう途中、彼とは逆方向に移動する若い女性の集団とすれ違った。辺り構わず大声で会話をする彼女達は、上下ともジャージのトレーニングウェアを着用し、髪はボサボサ、運動靴はかかとを履きつぶしている。

 集団の正体は深沢高校に隣接する学生寮に住む女子大生で、クマ達はそのだらしない装いを、学校名から「日体スタイル」と呼び完全に馬鹿にしていた。日体はその名の通り日本体育大学のことであり、校舎はすぐ目と鼻の先にあった。

 しかしその日のクマは、彼女等には目もくれなかった。

 

 暫くすると深沢八丁目の停留所に渋谷行きのバスが来た。二人は前扉から乗車し定期券を運転手に見せる。座席は空いていなかった。

 「私ね、夢を見るのが好きなの。朝起きたらすぐに見たばかりの夢をノートに書いておくの」ナッパは吊革につかまって、流れ去る外の景色を眺めながら唐突にそう言った。その大きな瞳は美しく輝いている。

 「それでね、夢で見た事が、後になって本当に起きるの」

 『えっ、おいおい、オカルトみたいな話は勘弁してもらいたいな』とクマは思いつつ、少し前に買ったまま放置しているG.フロイトの「夢判断」を読んでおけば良かったと後悔した。彼女に明解な解答、と言うよりも知ったかぶりが出来るチャンスを逃してしまったからだ。そして彼女の会話がいつも脈絡がなく、支離滅裂である事を不思議に思うのだった。

 『確かに彼女は時々、考えもつかないような事を突然口にする癖があるように見える。それが本性なのか、それともあまり饒舌ではない僕への思いやりで、思いつくままに話しかけて来るのだろうか』

  二人が乗ったバスは各駅停車だった。そしてその事は重要な問題であった。何故ならナッパの家は三宿にあり、クマはその手前の三軒茶屋に住んでいる。これが「急行」であれば三宿は通過するので、二人共三軒茶屋で降りる事になるが、「各駅」の場合はクマが先に降りなければならない。従って今の親密な状態を更に延長する為には、彼三軒茶屋に着く前に勇気を振り絞り、何らかの形でもう少し一緒にいたい、という自分の意志を示す必要があったからだ。

 冷房が効いた車内で吊革に掴まり並んで立っていると、それまでクマに視線のやり場を困らせていた彼女の透ける赤い水玉のシャツも、汗の乾きと共に正常に戻って行き、それはそれで彼を残念な気持ちにさせていた。

 そんな事は全くお構いなく、バスは国道246号線のだらだら坂を登って行き、もうじき駒沢という時、クマとナッパは殆ど同時に「あの・・・」と言いかけ、彼は彼女にその先を譲った。

 するとナッパは少し恥ずかし気に、しかしはっきりと「駒沢に美味しいあんみつ屋さんがあるの。もし良かったら、これから一緒に行きませんか」と天使のような声で誘ってきたのだった。『なんと、彼女も同じ事を考えていたのか』クマの心拍数は急激に上昇し、気が付くと不覚にも少し勃起していた。

 クマは以前からそのあんみつ屋の噂は聞いていた。それは学級委員をしているメガネユキコが、時折音頭を取って女生徒だけを集め、井戸端会議をしているという話で、それが彼女を皆が「安美津子」というあだ名で呼ぶ所以でもあった。

 当然クマに異存などあろう筈は無く、今度は自分の下半身の異変に対する彼女の視線を気にしながら、大きく頷いて「はいっ、勿論、喜んで」と上ずった声で答えた。その声は思いのほか車内に大きく響き、数名の乗客が何事かと二人の方に顔を向けた。それを見た彼女は、下を向き声を殺して肩を震わせている。

 『もしかしたら僕達は恋人同士に見えるかな。そしてそんな風に思う感覚って、何て素敵な事なんだろう』

 車窓から少し賑やかな景色が見え始めた時、運転手は次の停留所が駒沢であることを告げた。クマは待ちかねたように降車ボタンを押してナッパに微笑みかける。すると彼女は、他の乗客には悟られないような素振りを見せ、いわくありげに眼だけで不敵な笑みを浮かべた。まるでこれから二人で銀行強盗に行くみたいに。

 

  歩きながらクマは考えていた。何故自分は世田谷区民会館のステージという魅力的な誘いに賛同しないのだろうか。小学校高学年で洋楽に目覚め、サイモン&ガーファンクルに心酔してギターを始め、C,S,N&Yを聴いて3パート・ハーモニーにハマった。

 彼はそこから得た物を自ら体現する為、練習に励み、曲を作り、多重録音を覚え、またアグリーやセンヌキと共にバンドを組んでささやかなコンサートも開いた。もし区民会館に出演すれば、全校生徒千人を前に演奏する事になる。『何をためらう理由があるのか』

 そう考えた時、彼はふと最近あまりナッパに連絡をとっていない事に気づいた。『彼女と話してみたら何か答えのようなものが見つかるかも知れない。明日にでも三階の8組へ行ってみよう』<続>

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ただその40分間の為だけに(3)

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 「イ、ヤ、だ。くどいよ。何でもいいからオレを巻き込むのだけは止めてくれる」いつになくクマは声を荒げた。

 5月下旬、デューク・エリントン死去の報が世界を駆け巡っている頃、ジャズとは殆ど縁の無い、それでもミュージシャンの端くれを自認するクマとアグリーの二人は、難しい顔をして3年1組と2組の間の廊下に立っていた。

 その少し前、クマが帰ろうとしているとヒナコがやってきて「ねえクマさん、アグリーどんが話があるって」と伝えた。

 『用があるなら自分で来ればいいのに』何となく嫌な予感がするクマだったが、3年生になってから出来た数少ない友人であるヒナコの言うことを聞き、脱色ジーンズ地のバッグを肩に掛け廊下に出た。 

 「待ってて」ひとこと言うと全方位外交のヒナコは、何のためらいもなく2組の教室にズカズカと入り、事も無げにアグリーを連れて出てきた。

 「それで、なに」クマが面倒くさそうに口を開く。通常彼は言葉には一応気を使っていたが、アグリー達親しい間柄の者には結構ぞんざいな言い方をする。

 「ああ、相談があるんだけど・・・」

 「めんどうな話はごめんだよ」そう念をおしたクマは、想像以上に面倒な話を聞くことになったのである。

 

 「演劇の事、随分詳しいのね」深沢八丁目のバス停への道、汗を拭きながらナッパはそう切り出した。「そんなことないよ。僕の姉が高校の時、演劇部にいてね、それで少し教えて貰っただけ」下着が透けて見える彼女の胸から慌てて視線を逸らしクマは答えた。

 「ふうん、そうなの。メイクアップも」「うん、そう」

 「去年のクリスマスキャロルの時、メがネユキコさんにしてあげたでしょう」彼女はいたずらっぽく少し笑った。そして「私にはしてくれなかったけど」と呟いた。彼女もマーサという役で出演者の一人だった。

 クマは彼女の真意を図りかねた『前に一緒に帰った時は、バスの中で一言も口をなかったのに、今日は妙に思わせぶりな事を言う。女の子は判らない事だらけだ』

 

 アグリーの相談とは10月末に行われる文化祭に、ヒナコとムー二人と一緒に出演し演奏しようというものであった。

 「はあっ」驚いたクマが思わずヒナコを見ると、肩をすぼめてニヤッとした。その表情から、彼女がいきなりクマを誘うと即座に断られると踏んで、先ずは与し易そうなアグリーを篭絡し、クマを説得させようとの魂胆である事は容易に理解出来た。チャコの提案をクマが断った時呟いた「でもねぇ」はそういう意味だったのだ。

 「なんで」クマは言った。「ギター要員が必要ならムーとアグリー二人いればそれで十分じゃない。まあライブなんだから、そんなに難しい事をするんじゃなくて、ストロークならストローク、フィンガーならフィンガー、リズムだけしっかり押さえて基本に忠実なプレーに徹すれば、それで十分格好つくと思うけど」

 クマの言うことは、技巧に走り大ゴケしたあの2-4フェアウェル・コンサートでの苦い経験に裏打ちされたもので、特に当事者の一人であるアグリーに対しては説得力があった。

 するとヒナコが初めて会話に参加した。「ううん、ムーは自分じゃあ無理って言っているし、やっぱりギター2本欲しいし」

 「だったらセンヌキでいいじゃない」

 「いや、アレンジとか考えると、やっぱアナタがいなきゃ始まんないよ」すがる様な目をしてアグリーが言った。クマは『それで一体何をやろうと思ってるの』と言おうとして、それを言うと興味があると勘違いされると気づき「俺のギターを貸してやるから、それで勘弁してくれよ」と首を横に振りながら妥協案を提示した。

 「ギターならもうセンヌキから借りることにしてるんだ」

 「なるほど、やっぱりね」何故、クマはやっぱりと言ったのか。彼等の根底にあるのは、憧れのスーパースター達の模倣であり、その為にはステージに何本ギターを並べるかが重要なポイントであった。相変わらず音楽の本質でミュージシャンしている訳では無かったのだ。

 しばらく沈黙の後、突然アグリーが落語家のような口調になった。「しかし何だねえ、ところでクマさん」

 「へえ、何です、ご隠居。とでも言うと思ったか、冗談じゃない。もう懲り懲りなの」

 「でも世田谷区民会館だよ。あのイーゴリ・マルケヴィチが日本フィルを指揮して録音した」

 アグリーが言うように、本職のオーケストラが世田谷区民会館を使ってレコーディングした事はクマも知っていた。そして彼等が通う東京都立深沢高校は、毎年文化祭の初日をそこで行っていたのである。

 『そんなに音響がいいのだろうか。そんな風には思えないけど』クマは小学生の頃、そこで世田谷区主催の作文コンクールに応募し表彰状を受け取った事を思い出していた。そしてふと、そのステージにアグリー達がいるのを客席から眺めるのは、少し寂しいかも知れないなと一瞬考えた。しかし直ぐに気を取り直した。『いや、ダメだダメだ』

 「クラッシックには興味無し、何度言われても答えはノー、ナイン。これにて一件落着」そう言うとクマはアグリーとヒナコに背を向けて歩き始め、振り向きもせず手を振った。

 「やっぱりダメかなあ」アグリーの顔を見上げてヒナコが呟くと、アグリーは意味不明な例えを出して胸を叩いた。「いや大丈夫、クマはきっとやる。マグロは泳ぎ続けなきゃあ死んじまうって事さ」<続>

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ただその40分間の為だけに(2)

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 「クマさーん、お客さーん」 三年でもまた同じクラスになったメガネユキコが、彼等のホームルーム、3年1組の出入り口からそう呼びかけた。何事かと訝しがりながらクマがそこまで行くと、全く知らない女生徒が立っている。

 「あのう、私、3年7組のチャコと言います。あなたが演劇に興味を持ってるって聞いたので、演劇部を作ろうと思って来ました。一緒にやりませんか」 メガネの先にある真面目そうな眼差しでクマを見つめ、彼女が口を開いた。

 「・・・」思いもよらない突然の提案にクマは一瞬言葉を失ったが、せっかく校舎の三階から一階まで訪ねてくれた見知らぬ少女が、もう少し可愛ければ良かったのになどと邪念を抱きながらも、相手が傷つかないよう慎重に言葉を探した。彼をそうさせる何かが脳裏をよぎったからだ。
 

 四月初め、学校は春休み。二人は月並みに渋谷のハチ公前で待ち合わせた。それは、二年間同じメンバーであった4組の最期を飾る合宿が終了し、渋谷からの帰路、クマがナッパを誘った初めてのデートだった。

 彼等は「公園通り」と呼ばれる大通りを抜け、オリンピックプールがある代々木の室内競技場を通り過ぎて目的地、明治神宮に到着した。 

 参道の砂利道に人影は疎らで、二人は恐ろしく退屈な話ばかりしながら歩いた。

 「この道も正月参賀日は人がいっぱいで動けないんだ。それでも親父が行こうと言って聞かないものだから、毎年その度に喧嘩。それなのに今日ナッパさんをここに誘ったのも、おかしな話だよね」

 彼女はその言葉に少し微笑んだ。本殿の前には正月とは打って変わったように控えめな賽銭箱が置いてあり、二人は並んで作法にのっとり二礼二拍一礼した。クマは本気で二人の関係がこのままずっと続くようにと祈った。

 ところがその後、見頃には未だ早い菖蒲苑に入場し、池の畔のベンチに腰を下すと、クマの願いとは裏腹に二人の会話は少し口論のようになっていた。

 「・・・だから僕は、もし僕がこうすれば、こんな事を言えば、相手が喜ぶだろうって分かっている時でも、敢えてそんな事をしようと思わない。そういうのは何か見せかけの白々しい優しさみたいで嫌いだな」

 「そうかしら。私はそうは思わない。私はやっぱり人の為に何かしてあげたいわ。人間には思いやりが必要よ」日頃とは違い彼女は意外な程、強い口調で答えた。

 「でも仮に、人を思いやることで自分が疲れるとしたら、自分を抑える事で人に尽くすとしたら、それは誠意とは言えないんじゃないかと思うけど」

 「そうかも知れないわ」

 「だから僕は人に対して優しくあるよりも、誠実でありたいと思うんだ」

 「でもそれは、クマさん自身に対しては誠実であっても、相手の人に誠実であるとは限らないでしょう。たとえ自分の本心はそうでなくても、人を思いやる事が出来るのが本当に優しい人ではないかしら」

 「そうかな、それは見せかけの優しさだと思うよ。自分を偽るということは、裏を返せば相手を欺いてる事になるんじゃないかな。例えば女の子はよく、どういう男性が好きかと聞かれると、大概は優しくてユーモアのある人って答えるけど、その優しさというものが、相手の喜ぶ事をしてあげるだけならば、僕はきっと全然優しい人間じゃないね」

 しばし小休止があった。

 「いいえ、クマさんはやっぱり優しい人だわ」彼女は殆ど自分に言い聞かせるように小さく呟いた。

 

 『あの時何故あんな話をしてしまったのだろう。他にもっと伝えたい事があった筈なのに』クマはその記憶を思い起こしながら口を開いた。「あのう、折角の提案なんだけど、ちょっと難しいかな。受験もあるし・・・。確かに演劇に興味が無い訳じゃないけれど・・・。悪いけどこの話はお断りします」漸くそこまで言い終えてチャコと名乗る女生徒の目を見返した。

 「今すぐに結論を出さなくても、一週間後にまた来てもいいですか」

 「いや、その必要は無いと思います。あなたの夢が叶うことを陰ながらお祈りします」クマはそう言って少し微笑んでみせた。『これが精いっぱいの優しさかな』

 チャコは落胆を隠そうともせずに立ち去った。すかさずメガネユキコとヒナコが寄ってきて話の内容を尋ねた。

 「もう演劇とか文化祭に情熱なんか湧かないし、今更夕方、学校に残ってようとは思わない。その為に水泳部も辞めたし、アグリーともギターを弾いていない。だいたい新年度はもう始まっているんで、仮に演劇部を立ち上げても予算がつく筈が無い。どうやって活動するつもりなんだろう、ちょっと考えが甘いんだよね。そう思うでしょ。でもどうして今頃演劇の話が出てくるのかな」クマは二人に本心を明かしながら、これがもしナッパからの申し出であったらどう対応したのだろうかと考えた。

 メガネユキコは「そりゃあそうよね、そのまんま言ってあげれば良かったのに。案外クマさんは優しいね。演劇の話は多分2年4組が四散して、クマさんの事を誰かが流したせい。情報が広がる速度は今日は町内、明日は世界よ」といつも通りの適切な例えで答えた。

 一方ヒナコは少し難しい顔をして「でもねぇ」とだけ独り言のように呟いた。その呟きの理由をクマは間もなく知ることになる。<続>

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