ただその40分間の為だけに(3)

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 「イ、ヤ、だ。くどいよ。何でもいいからオレを巻き込むのだけは止めてくれる」いつになくクマは声を荒げた。

 5月下旬、デューク・エリントン死去の報が世界を駆け巡っている頃、ジャズとは殆ど縁の無い、それでもミュージシャンの端くれを自認するクマとアグリーの二人は、難しい顔をして3年1組と2組の間の廊下に立っていた。

 その少し前、クマが帰ろうとしているとヒナコがやってきて「ねえクマさん、アグリーどんが話があるって」と伝えた。

 『用があるなら自分で来ればいいのに』何となく嫌な予感がするクマだったが、3年生になってから出来た数少ない友人であるヒナコの言うことを聞き、脱色ジーンズ地のバッグを肩に掛け廊下に出た。 

 「待ってて」ひとこと言うと全方位外交のヒナコは、何のためらいもなく2組の教室にズカズカと入り、事も無げにアグリーを連れて出てきた。

 「それで、なに」クマが面倒くさそうに口を開く。通常彼は言葉には一応気を使っていたが、アグリー達親しい間柄の者には結構ぞんざいな言い方をする。

 「ああ、相談があるんだけど・・・」

 「めんどうな話はごめんだよ」そう念をおしたクマは、想像以上に面倒な話を聞くことになったのである。

 

 「演劇の事、随分詳しいのね」深沢八丁目のバス停への道、汗を拭きながらナッパはそう切り出した。「そんなことないよ。僕の姉が高校の時、演劇部にいてね、それで少し教えて貰っただけ」下着が透けて見える彼女の胸から慌てて視線を逸らしクマは答えた。

 「ふうん、そうなの。メイクアップも」「うん、そう」

 「去年のクリスマスキャロルの時、メがネユキコさんにしてあげたでしょう」彼女はいたずらっぽく少し笑った。そして「私にはしてくれなかったけど」と呟いた。彼女もマーサという役で出演者の一人だった。

 クマは彼女の真意を図りかねた『前に一緒に帰った時は、バスの中で一言も口をなかったのに、今日は妙に思わせぶりな事を言う。女の子は判らない事だらけだ』

 

 アグリーの相談とは10月末に行われる文化祭に、ヒナコとムー二人と一緒に出演し演奏しようというものであった。

 「はあっ」驚いたクマが思わずヒナコを見ると、肩をすぼめてニヤッとした。その表情から、彼女がいきなりクマを誘うと即座に断られると踏んで、先ずは与し易そうなアグリーを篭絡し、クマを説得させようとの魂胆である事は容易に理解出来た。チャコの提案をクマが断った時呟いた「でもねぇ」はそういう意味だったのだ。

 「なんで」クマは言った。「ギター要員が必要ならムーとアグリー二人いればそれで十分じゃない。まあライブなんだから、そんなに難しい事をするんじゃなくて、ストロークならストローク、フィンガーならフィンガー、リズムだけしっかり押さえて基本に忠実なプレーに徹すれば、それで十分格好つくと思うけど」

 クマの言うことは、技巧に走り大ゴケしたあの2-4フェアウェル・コンサートでの苦い経験に裏打ちされたもので、特に当事者の一人であるアグリーに対しては説得力があった。

 するとヒナコが初めて会話に参加した。「ううん、ムーは自分じゃあ無理って言っているし、やっぱりギター2本欲しいし」

 「だったらセンヌキでいいじゃない」

 「いや、アレンジとか考えると、やっぱアナタがいなきゃ始まんないよ」すがる様な目をしてアグリーが言った。クマは『それで一体何をやろうと思ってるの』と言おうとして、それを言うと興味があると勘違いされると気づき「俺のギターを貸してやるから、それで勘弁してくれよ」と首を横に振りながら妥協案を提示した。

 「ギターならもうセンヌキから借りることにしてるんだ」

 「なるほど、やっぱりね」何故、クマはやっぱりと言ったのか。彼等の根底にあるのは、憧れのスーパースター達の模倣であり、その為にはステージに何本ギターを並べるかが重要なポイントであった。相変わらず音楽の本質でミュージシャンしている訳では無かったのだ。

 しばらく沈黙の後、突然アグリーが落語家のような口調になった。「しかし何だねえ、ところでクマさん」

 「へえ、何です、ご隠居。とでも言うと思ったか、冗談じゃない。もう懲り懲りなの」

 「でも世田谷区民会館だよ。あのイーゴリ・マルケヴィチが日本フィルを指揮して録音した」

 アグリーが言うように、本職のオーケストラが世田谷区民会館を使ってレコーディングした事はクマも知っていた。そして彼等が通う東京都立深沢高校は、毎年文化祭の初日をそこで行っていたのである。

 『そんなに音響がいいのだろうか。そんな風には思えないけど』クマは小学生の頃、そこで世田谷区主催の作文コンクールに応募し表彰状を受け取った事を思い出していた。そしてふと、そのステージにアグリー達がいるのを客席から眺めるのは、少し寂しいかも知れないなと一瞬考えた。しかし直ぐに気を取り直した。『いや、ダメだダメだ』

 「クラッシックには興味無し、何度言われても答えはノー、ナイン。これにて一件落着」そう言うとクマはアグリーとヒナコに背を向けて歩き始め、振り向きもせず手を振った。

 「やっぱりダメかなあ」アグリーの顔を見上げてヒナコが呟くと、アグリーは意味不明な例えを出して胸を叩いた。「いや大丈夫、クマはきっとやる。マグロは泳ぎ続けなきゃあ死んじまうって事さ」<続>

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