「クマさーん、お客さーん」 三年でもまた同じクラスになったメガネユキコが、彼等のホームルーム、3年1組の出入り口からそう呼びかけた。何事かと訝しがりながらクマがそこまで行くと、全く知らない女生徒が立っている。
「あのう、私、3年7組のチャコと言います。あなたが演劇に興味を持ってるって聞いたので、演劇部を作ろうと思って来ました。一緒にやりませんか」 メガネの先にある真面目そうな眼差しでクマを見つめ、彼女が口を開いた。
「・・・」思いもよらない突然の提案にクマは一瞬言葉を失ったが、せっかく校舎の三階から一階まで訪ねてくれた見知らぬ少女が、もう少し可愛ければ良かったのになどと邪念を抱きながらも、相手が傷つかないよう慎重に言葉を探した。彼をそうさせる何かが脳裏をよぎったからだ。
四月初め、学校は春休み。二人は月並みに渋谷のハチ公前で待ち合わせた。それは、二年間同じメンバーであった4組の最期を飾る合宿が終了し、渋谷からの帰路、クマがナッパを誘った初めてのデートだった。
彼等は「公園通り」と呼ばれる大通りを抜け、オリンピックプールがある代々木の室内競技場を通り過ぎて目的地、明治神宮に到着した。
参道の砂利道に人影は疎らで、二人は恐ろしく退屈な話ばかりしながら歩いた。
「この道も正月参賀日は人がいっぱいで動けないんだ。それでも親父が行こうと言って聞かないものだから、毎年その度に喧嘩。それなのに今日ナッパさんをここに誘ったのも、おかしな話だよね」
彼女はその言葉に少し微笑んだ。本殿の前には正月とは打って変わったように控えめな賽銭箱が置いてあり、二人は並んで作法にのっとり二礼二拍一礼した。クマは本気で二人の関係がこのままずっと続くようにと祈った。
ところがその後、見頃には未だ早い菖蒲苑に入場し、池の畔のベンチに腰を下すと、クマの願いとは裏腹に二人の会話は少し口論のようになっていた。
「・・・だから僕は、もし僕がこうすれば、こんな事を言えば、相手が喜ぶだろうって分かっている時でも、敢えてそんな事をしようと思わない。そういうのは何か見せかけの白々しい優しさみたいで嫌いだな」
「そうかしら。私はそうは思わない。私はやっぱり人の為に何かしてあげたいわ。人間には思いやりが必要よ」日頃とは違い彼女は意外な程、強い口調で答えた。
「でも仮に、人を思いやることで自分が疲れるとしたら、自分を抑える事で人に尽くすとしたら、それは誠意とは言えないんじゃないかと思うけど」
「そうかも知れないわ」
「だから僕は人に対して優しくあるよりも、誠実でありたいと思うんだ」
「でもそれは、クマさん自身に対しては誠実であっても、相手の人に誠実であるとは限らないでしょう。たとえ自分の本心はそうでなくても、人を思いやる事が出来るのが本当に優しい人ではないかしら」
「そうかな、それは見せかけの優しさだと思うよ。自分を偽るということは、裏を返せば相手を欺いてる事になるんじゃないかな。例えば女の子はよく、どういう男性が好きかと聞かれると、大概は優しくてユーモアのある人って答えるけど、その優しさというものが、相手の喜ぶ事をしてあげるだけならば、僕はきっと全然優しい人間じゃないね」
しばし小休止があった。
「いいえ、クマさんはやっぱり優しい人だわ」彼女は殆ど自分に言い聞かせるように小さく呟いた。
『あの時何故あんな話をしてしまったのだろう。他にもっと伝えたい事があった筈なのに』クマはその記憶を思い起こしながら口を開いた。「あのう、折角の提案なんだけど、ちょっと難しいかな。受験もあるし・・・。確かに演劇に興味が無い訳じゃないけれど・・・。悪いけどこの話はお断りします」漸くそこまで言い終えてチャコと名乗る女生徒の目を見返した。
「今すぐに結論を出さなくても、一週間後にまた来てもいいですか」
「いや、その必要は無いと思います。あなたの夢が叶うことを陰ながらお祈りします」クマはそう言って少し微笑んでみせた。『これが精いっぱいの優しさかな』
チャコは落胆を隠そうともせずに立ち去った。すかさずメガネユキコとヒナコが寄ってきて話の内容を尋ねた。
「もう演劇とか文化祭に情熱なんか湧かないし、今更夕方、学校に残ってようとは思わない。その為に水泳部も辞めたし、アグリーともギターを弾いていない。だいたい新年度はもう始まっているんで、仮に演劇部を立ち上げても予算がつく筈が無い。どうやって活動するつもりなんだろう、ちょっと考えが甘いんだよね。そう思うでしょ。でもどうして今頃演劇の話が出てくるのかな」クマは二人に本心を明かしながら、これがもしナッパからの申し出であったらどう対応したのだろうかと考えた。
メガネユキコは「そりゃあそうよね、そのまんま言ってあげれば良かったのに。案外クマさんは優しいね。演劇の話は多分2年4組が四散して、クマさんの事を誰かが流したせい。情報が広がる速度は今日は町内、明日は世界よ」といつも通りの適切な例えで答えた。
一方ヒナコは少し難しい顔をして「でもねぇ」とだけ独り言のように呟いた。その呟きの理由をクマは間もなく知ることになる。<続>