遠い日の夏休み (2/2)

 前回からの続き。

 

 お目当てのあんみつ屋は玉川通り沿いの、凡そあんみつとは無縁の洒落たビルの二階にあった。この沿線は数年前に開通した首都高三号の高架が空を覆い、今は真夏の日差しを遮っている。店に入るとすぐ僕等は窓際の席に案内された。  

 「来年の今頃は受験勉強で真っ青になっているかな。」何から切り出そうかと散々考えた割には、僕が選んだ話題はあまり面白くないものだったが、彼女は「何処を受けるの、大丈夫よ。」そう答えた。

 店内には駒沢大学の学生らしき男女が五人、どうやら連日報道されている金大中とかいう韓国人絡みの事件について話しているようだった。その中の女性一人が、やけに細長く茶色い巻紙のタバコを吸っているのが目に留まった。

 店員が注文を取りに来て彼女は勿論迷わず「あんみつ」を、僕は散々悩んだ挙句「コーラ・フロート」を頼んだ。僕には喫茶店に行ってコーヒーを飲む習慣が無かった。

 「まだ決めてないけど、国立は無理だし。」「どうして。」

 「数学が全然ダメ。物理も化学も。僕は数字や記号が出て来ると、それだけでもうゾッとしちゃう。」「でも、英語は出来るでしょう、それに現国や古典も。」

 「英語は好きだけど出来るって程じゃないよ。」「そう、でもこの間の英語のテスト、100点じゃなかったと悔しがってたって、ユッコさんから聞いたわ。」「そうかな、覚えてないけど。」

 彼女の声はまるで母親のように優しかった。しかし僕は口に出して言う程、大学受験を気にしていない。ただ少し同情を買おうと、気の弱い振りをしただけなのだ。

 『それにしても何かもっと楽しい話をしなくちゃ。でも楽しい話って一体何だろう』

 「あっ、金魚が跳ねた。」彼女は店内の中央にある、少し大きい水槽の波紋を指して、さもそれが大事件のように叫んだ。

 『普段なら』と僕は思う。『そんなどうでもいい事を騒ぎ立てたり、白々しい話を言う奴は嫌いだった筈だ。しかし今は違う。彼女が殊更驚いた時や、些細な事をくどくどと説明する時も、僕は何故か素直にそれを受け止める事が出来る。当然の事ながら、彼女は他の誰とも異なり、僕を優しい人間にしてくれる。彼女の存在があるというだけで僕の気持ちは落ち着き安らぐ。しかし、彼女はどうだろうか。彼女が僕に与えてくれるように、僕が彼女に与える物は何かあるのだろうか』

 これらはすべて僕の恋するが故の、相手に対する盲目と過大評価が成せる業だった。

 「私ね、本当は高校の間ずっと、こんな風に男の子と二人っきりで話すなんて、絶対無いと思っていたの。」あんみつを食べながら彼女はそう言った。「学校で男の子達がたむろしていると、何だか怖いの。一人一人はそうでもないかも知れないけど。だから、こんな事初めてだから、何だかあがちゃった。」

 店の窓からは西に傾き始めた太陽が、雲の切れ間を通して幾重にも長い光の筋を差掛けて、空と雲と彼女の頬をほんのり赤く染めていた。その時僕は、彼女が美しいと思った。

 「笑わない。」彼女は既に自分で笑い出しそうになりながら僕に訊ねた。「うん。でも何。」僕は何があっても笑わない覚悟を決めた。

 「本当に笑わない。この間みんなに話したら大声で笑われたの。」「約束するよ。僕は日本語を話すようになってから嘘をついたことが無い。」

 「あのね、あんな風に光の筋が見えると、」彼女は夢を見ているような瞳を窓の外に向けた。「あのうちの一本がすうっと伸びて来て、私を何処かへ連れて行ってしまうんじゃないかって、いつもそう思うの。そんなこと考えたりしない。」

 僕は笑わなかったし、別に笑うような事ではないと思ったが、どう反応すればいいのか分からなかった。

 『これは現実逃避願望か他力本願的冒険心か』僕はそう考えた。でも口には出さなかった。「いや、そんな事考えたこともないよ、まるでかぐや姫みたいだね。」それが精いっぱいの回答だった。彼女は少し笑った。

 「ねえ、いつもどんな事を考えているの。」彼女は水を一口飲んで聴いた。「僕はね・・・。うん、何を考えているのかなあ。きっとろくでもない、取るに足りない事ばかりだと思うよ。」実際僕は彼女の事以外、自分が何を考えているのかよく理解していなかった。

 「何だか自己嫌悪になってるみたい。」「うん、そう・・・かな。」僕はその時いっその事、実はずっと前から君の事が好きだった、と彼女に言えばよかったと思いながら黙り込んでしまった。彼女も暫く何も言わずに外を見ていた。

 「寒くない。」漸く彼女は急に思い出したように、両手で肘を覆いながらそう言った。確かに店の冷房は少し効き過ぎだった。僕は同意して席を立った。

 帰りのバスの中では、また文化祭の話で二人に取り留めの無い会話が戻った。僕が先に降りる時、彼女は「今日はとっても楽しかった。どうもありがとう。」と微笑んで見せた。僕は『多分あれが社交辞令というものなのかな』と思った。

 間もなく文化祭が終わり、それから秋が過ぎ、冬を迎え、やがて春が巡って来た。その間に僕等は何度も二人で会い、色々な事を話した。僕は手を繋いだりキスをしたりしてみたかったが、一度もそういう事は起きなかった。

 そして五月の連休が始まる頃、僕等に突然別れが訪れた。僕には何も思い当たる事は無かったが、後からユッコさんに聞いた話によると、彼女は自分の事を何でも知っている僕がだんだん怖くなったと言っていたそうだ。

 『多分僕のせいなんだろう、でも僕に一体何が出来たというのだろうか』

 もしかしたら、彼女が求めていたのは眉間に皺を寄せ、深刻な問題を議論したりする事ではなく、テレビの青春ドラマみたいに臭くてちょっぴり切なくて、最後は夕陽に向かって走りだすような、そんな事だったのかも知れない。

 それでも僕は考えた。たとえ短い時間であったとしても、彼女の気持ちが僕の方に向いたとしたら、それだけでも僕の17年間は無駄ではなかったのではないかと。

 そして彼女は僕を置き去りにして、雲の切れ間から差し込んだ光の筋に乗り、何処か遠い所に行ってしまったのだ。まるで留まる事を知らず、ただひたすら飛び続けるジョナサン・リヴィングストンのように。 

     f:id:kaze_no_katami:20190907051331j:plain