今週のお題「納豆」(用も無いのに納豆売りが)

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 久し振りに「今週のお題」について書いてみようと思う。因みにそのお題は「納豆」。何故この時期に納豆なのか考えてみたが、思い当るのは精々7月10日が語呂合わせ(7=ナ、10=トウ)で「納豆の日」だという事位しかない。

 それはさておき、結論から先に言えば私は納豆が好きではない、というかはっきり言って嫌いだ。全く何が悲しくてわざわざ腐った豆など食べなければならないのかと思う。「否、腐っているのではなく発酵しているのだ」。そういう反論が束になって押し寄せる事は百も承知。しかし、だからと言って嫌いなものが好きになる訳ではない。

 私が「納豆」を嫌う理由は極めて明快だ。何よりも先ず「美味しくない」。そして「臭い」。更に「ネバネバと糸を引く」。以上の三点が挙げられる。

 「美味しさ」については人間の五感や食品の旨味成分等を科学的に分析、研究したレポートもあるが、要は個人の嗜好と考えるべきであろう。とすれば「納豆」は私の嗜好では無いのだ。

 次に「臭い」。と言っても常温では「くさや」を焼く程の暴力的破壊力は無い。しかし暖かいご飯にかけると腐敗臭がプーンと漂ってくる。もし定食屋などで隣に座る御仁がそれをするならば、立派にスメハラとして成立するではないかと思う。

 そして「ヌルヌル・ネバネバと糸を引く」。通常、食品がこのような状態になっていれば、我々は「腐っている」と判断するが、それこそが異物誤食から身体を守る自己防衛本能、即ち『食べてはいけない』との警告に他ならない。

  確かに自然界にはネバネバする食材は他にもある。例えば山芋、オクラ、海藻類がそうだ。しかしそれらは人工的に発酵させた訳ではなく元来の性状なのである。しかも腐敗していないので臭いは殆ど無い。

 それでもなお「納豆」は体にイイという主張がある。私はそれを否定する心算は毛頭無い。食べたい人は食べればいいし、それで健康が保たれていると信じていればいい。

 しかし「納豆」を食べない私が不健康かと言えば、決してそうではない。中性脂肪コレステロール値は至って正常である。

 もし納豆に評価する点があるとするならば、かって体にイイという噂だけで一定期間スーパーの棚から姿を消し、そして忘れ去られてしまった数多の食品がある中で、唯一「納豆」だけが常に充分な供給量を維持し、安価なたんぱく源として、しぶとく生き残っている。この事実だけは認めざるを得ないだろう。

 だが食べ物に於ける健康志向も、度が過ぎれば反って逆効果、時として危険を伴う場合がある事を忘れてはならない。 例えば飲酒等により弱った肝臓には「しじみ」が効くとの神話がある。しかし貝類は鉄分を多く含み、肝炎や肝硬変を発症している場合、鉄分の過剰摂取は臓器自体に更なる負担をかける事にもなり得るのだ。

 また最近は時節柄、納豆は免疫力を高め「新型コロナウイルス」に感染しにくくなる、と吹聴するマスコミも散見される。だが、「感染者における納豆食の有無と傾向」なるデータでも示せば話は別だが、エビデンスの無い情報は、単なる流言飛語と何ら変わりないのではないのか。それとも日本の感染者数が他国に比べ少ない理由は「納豆」があるお陰とでも言いたいのだろうか。

 さて、ここまで思いつくまま支離滅裂、言いたい放題であった。かって私は友人から「納豆を食べられないのは日本人として不幸だ」とまで言われた事がある。しかし、私は別に不幸だとは思っていないし、第一、納豆を食べられない訳でもない。唯、自ら好んで食べないだけである。無論、納豆がこの世から姿を消しても何ら困る事は無い。

 余談ながら最後に「納豆」に関する逸話を。凡そ30年前、ニューヨークへ行った際、アテンドしてくれた現地アメリカ人商社マンに「先の大戦で我が国は敗れ焼け野原となった。戦後、廃墟の子供たちは、乗り込んで来た進駐軍の兵士に向かって片言で『ギブ・ミー・チョコレート』と言い、その甘い菓子をねだった。もしも日本が勝っていたら、米国の子供は日本兵に対し「納豆ちょうだい」と言っていたかも知れない」というジョークを話した事がある。しかし全く受けなかった。甘納豆と言えば良かったのだろうか。

 ところでアイキャッチ画像を撮る為だけに買ってきたこの納豆。捨てる訳にもいかず、仕方がないのでタップリの葱とカラシで食べる事にする。かき混ぜる回数は勿論、旨味成分がピークに達する400回に決まっている。

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