結局ニクソン大統領は辞任、軍用ヘリコプターに乗ってホワイトハウスを去った。そのニュースが極東の日本に伝えられた頃、東京は漸く梅雨空が晴れ、日に日に日差しが強まっていた。
「ヒナコさんグループ」は週一度の練習を欠かさず続けていたが、レパートリーは相変わらずヒナコとムーの二曲とアグリーの一曲のままで、それなりに仕上がってきたものの今一つ盛り上がりに欠けていた。
そんなある日、ムーが練習場所に発売間もないアイワのラジカセを持ってやってきた。「これを聴いて貰いたいんですけど」彼女は少し恥ずかしそう言うとプレイボタンを押した。ムーの男言葉は次第に無くなりつつあるようだった。直ぐにピアノの音がして歌が始まった。どうやら新しいオリジナルらしい。
それは掴みどころの無い不思議な曲だった。一度聴いただけでは把握出来ない。もしかしたら大傑作、それともとんでもない駄作か。演奏が終わった時、誰も何も言わなかったが、少し間を置いて漸くクマが口を開いた「もう一回聴かせてくれる」
再びテープが回り始め、まるでインドの行者が瞑想を行っているかのよう時間が訪れ、三分が過ぎ曲が終わると今度はアグリーが言った。「渋いんじゃない」
それを受けてクマも頷いた。「難しい曲だよね。でもとてもいい、何と言うか、凄く個性的。まるでデイビッド・クロスビーの『デジャ・ヴ』みたいだ」
その曲を知っているアグリーは『その通り』と言わんがばかりにうんうんと首を振りながら手を叩き、同意であることを示したが、聞いた事の無いムーとヒナコはそれこそ狐につままれたようにキョトンとしていた。
それを見てクマは説明しようと考えて二、三言葉を探した結果、多分理解して貰えないと思い直し、笑顔を浮かべただけだった。そして全く関係の無いことを言った。「キーはCmかな。でもカポは使いたくないな」
「どうして」ヒナコが聞く。
「だって、カッコ悪いじゃない」
クマは何時の頃からか、ギターにカポタストを付ける事を極端に嫌うようになっていた。それは折角楽器が持っている音域を自ら放棄するような行為、そう言えば恰好良過ぎる。実際はただ単に面倒なだけだった。
「これ、コンサートでやれますか」ムーは心配そうな顔をしてクマを覗くように訊ねた。
クマは「うん」とだけ答えて暫く宙を見つめ、そして答えた。「このテープ貸してくれる」
その日クマは家に帰ると、早速テープを取り出して聴き直した。ヘッドフォンに流れる曲は相変わらず摩訶不思議な旋律だった。『これをどうやってギターで伴奏しコンサートで演奏するのか』クマは目を閉じたまま自分の眉間に皺が寄っているのを意識していた。
三度目の再生が終わった時、突然クマの脳裏にある言葉が蘇った。しかもそれは数時間前自分が発したものだった。「まるでデイビッド・クロスビーの『デジャ・ヴ』みたいだ」
『そうだ、その通り、「デジャ・ヴ」に使われているチューニングを使えばいいのだ』それはクロスビーがよく用いるEBDGADという変則チューニングで、これを使った「グィネヴィア」という曲をクマとアグリーは3月のフェアウェル・コンサートで演奏していた。
しかし、これで伴奏するとキーはEmになって、元のCmから大幅に高くなってしまう。後はムーの声の音域に期待するしかなかった。こと音楽に関してクマは全く相手を思いやる優しさは欠落していた。そしてライブで充分対応出来るようなアレンジに仕上げたのはそれから3時間後の事だった。
翌日、クマは「ヒナコさんグループ」を緊急招集した。用件は勿論、自分が考え抜いたアレンジを皆に聞かせ称賛を得る為で、気が短い彼にすればいつもの事だった。
その日の放課後、校舎の屋上にメンバーと殆どマネージャーと化したメガネユキコが揃う中、アグリーだけがいつになく暗い表情でやって来た。
「どしたの」すかさず全方位外交のヒナコが声を掛ける。
「ああ、今朝起きたら文太が死んでたんだ」
「えっ、文太」ヒナコが首を傾げた。それに対してはクマが代わって答える。
「手乗り文鳥の文太の事だよ」
「アグリーどんは文鳥飼ってたんだ」
「ああ、雛の頃からずっと、もう10年位になるんだけど」
「それって寿命が来たって事」
「いや、どうかな。そんなに弱ってたとは思えないんだけど。あの、歳取ると止まり木から落ちたりするらしいんだ」
「ふーん、鳥って結構長生きするんだ。でも悲しい」
「そりゃあ、結構なついていたからね。知らないと思うけど文鳥は優しくしてやると飼い主にすがりついて来るんだ」
「人間よりも人間性があるのかな」クマは遠くを眺めるような目をして呟いた。
「人間はなまじっか余計な知恵があるからややこしいだけさ。それよか、その画期的アレンジとやらを聞こうじゃないの」
「オッケー」クマはそう答えると、早速説明を交えながらギターを例のチューニングに合わせた。
『EBDGAD、一体どうやったらそんなチューニングを思いつくのだろうか。もしかしたら、マリファナとかいう覚醒剤でトリップしなければ考えつかないものかも知れない』しかしクマ達はマリファナはおろか煙草さえ吸った事は無かった。
アグリーは勿論そのチューニングを知っており、ムーとヒナコも3月の2-4フェアウェル・コンサートでI,S&Nが演奏した「グィネヴィア」を聞いた筈だったが、当然覚えてはいなかった。 仮にもし覚えていたとして、チューニング方法まで判る筈もない。それでもムーはまるで大事な授業を受けているような真剣な表情を浮かべ、食い入るようにクマの一挙一動を見守っていた。
チューニングが済むとそこからがクマの真骨頂であった。コード表などには一切記載されていない弦の押さえ方をして、独特のコード進行を披露する。もし仮にそれらのコードを表記するとしたら、多分sus4 や m(#5)という和音になると思われたが、ある程度熟練したギター小僧でも、とてもそのコードネームを見て瞬時に押さえる事は不可能な筈だった。
そして、一通り曲の最後まで弾き終えるとクマはムーに気掛かりだった事を尋ねた。「オリジナルのキーはCmだったけど、これだとEmになる。声が出るかな」ムーは実際にサビの部分を歌ってみてニコッと笑った。「大丈夫です。ちゃんと出ます」
それを聞いてヒナコはまるで子供を褒めるようにムーの頭を撫でたが、アグリーは少し渋い表情を浮かべて言った。
「よく考えたと思うけど、これじゃあ一般受けはしないだろう。キャッチーじゃないもん」
クマは苦笑いしながら答える。「今更僕にそれを望む訳」
それを聞いてムーが久しぶりに男の子言葉で言った「僕はこれは素晴らしいと思う」
「それじゃあこれで決定」
クマがそう言った時、頭上を鳶のような大型の鳥が、遠く多摩川付近の森を目指して飛んで行くのが見えた。彼は『文鳥の寿命が十年として、果たして野生の鳶は何年生きるのだろうか。あの鳥だって哀れな文太のように、いつかは突然命が燃え尽きるのだろうな』そんな事が頭をよぎった。
そして、何の音沙汰も無い司書教諭、仁昌寺和子の顔をふと思い出しているのだった。<続>