ただその40分間の為だけに(最終回)

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 半年後、クマは晴れて大学生になっていた。「晴れて」という表現が第三志望の合格に相応しいかはさて置き、アグリーやセンヌキを始め、他の仲間の男子生徒は軒並み浪人暮らしが確定し、それとは対照的に女子では唯一人国立大学を目指すメガネユキコを除いて殆どが短大等に合格していた。

 尤も世間では一年間の浪人生活である「一浪」を「ひとなみ(人並)」と読み換え、ごく当たり前の事として認知しており、クマにしてもそれは選択肢のひとつではあったが、とにかく一日も早く自由の身を手に入れようと現役合格を目指していた彼は、迷わず入学手続きを取る事に決めたのだった。

 前年9月27日、「ヒナコさんグループ」の演奏を終えて世田谷区民会館から帰宅したクマは、ギターを始めた中学1年から伸ばしていた右手の爪を短く切り揃え、楽器は綺麗に拭きあげてケースにしまった。予定ではそれは、大願成就の日まで封印される筈であった。

  ところがその夜、センヌキからの電話が早くもクマの計画を狂わせる事になる。

 「あのさあ、明日28日と29日、ウチらの3年2組の教室でやる音楽喫茶で出演者が足りないんだ。で、一緒に出てくれない」

 「えー、何それ」クマはこのところセンヌキの態度が何か言いたげだった事を思い出した。『これの事だったのか』

 結局クマとアグリーはセンヌキに付き合う事に決め、彼の要望通りニール・ヤングの曲など演奏する為急遽I,S&Nを再結成したが、考えてみればその場所に「ヒナコさんグループ」も出演する事が可能だったのだ。しかし誰からもその話は出ないまま文化祭はあっけなく終了した。

 「ヒナコさんグループ」はあの40分間のステージの終了と共に自然消滅し、二度と共に演奏する事は無かった。それは最初からの取り決めというよりも、むしろ暗黙の了解だったと言うべきかも知れない。

 それから五ヶ月後、クマが大学の合格通知を受け取った頃、暫く何の接触も無かったチャコから手紙が届いた。しかもそれは航空便で、彼女がアメリカに留学した事と、昨年病死した仁昌寺教諭は実は自殺だった事実を伝えた。『あの司書教諭の身に一体何が起きたのだろう』クマは本人に会って問い質してみたい欲望に駆られたが、最早それは叶う事のない望みであった。

 

 『ふうー』そこまでタイプすると彼は大きくため息をつきパソコンの画面から顔を上げ、キッチンで夕食の支度をする妻に向かって独り言のように話しかけた。

 「それからチャコはアメリカで、ホームステイ先の家族と一緒に車で出掛け、事故に巻き込まれて亡くなったんだ」

 「メガネユキコ女史は一年後、志望通り国立大学に合格し、卒業後はダンナの実家がある富山県で小学校の教員になった。他の連中も一浪したら概ね進学出来たみたいだ。ただセンヌキの東大はダメだったけど」

 「ヒナコは聞いた話によると、しつこく言い寄って来る男がいて、そいつから逃げるように大坂に行き、そのままそこで誰かと結婚したらしい」

 「それと大学の時、ムーから一度手紙で一緒にやってくれないかと言って来たけど、その時はもう既に別のバンドで活動してたから断ってしまったんだ」

 「それで、こないだアグリーに電話でこの物語の話をしたら呆れられたよ。まだそんな事やってんのかって。で、なんでも深沢高校は今やFランまで落ちぶれたらしいんだ。Fランって学校のランク付けがAから数えて六番目のFで、入試なんか名前さえ書けば合格するような底辺校って事だって。まあ、もともと受験校じゃなかったけど、そこまで酷いとはね。卒業生として情けないよ」

 「ねえ、何ひとりでブツブツ言ってるの」キッチンから声が聞こえた。 

 それには答えず彼は彼女に訊ねた。「それでマドンナのナッパはどうなったのか知ってる」

 すると、無知で無邪気でほんの少し純粋だった「あの頃」と変わらない高い声が答えた。「ナッパさんはね、色々あったけど、今こうしてクマさんとかいう高校の同級生のお嫁さんになったみたいよ」<完>


あなたに会えて/風のかたみの日記

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  この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

ただその40分間の為だけに(24)

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 遂にその時が訪れた。しかし「ヒナコさんグループ」に緊張感や気負いは無かった。それは偏にこれまでの膨大な練習量の賜物と言えよう。クマにしてみても同じ曲をこれ程繰り返し演奏した経験はかって無かった。

 「行くよ」ステージへ続く暗い通路に響いたクマの言葉に、ヒナコは大きく頷いてムーの肩を軽く叩き、両手にギターを抱えていたクマとアグリーは、目だけで互いに合図し合う。そして足を踏み出した。

 その30分程前、彼等に文化祭準備委員長から持ち時間短縮の要請があった。「二曲位カット出来ないか」それは十分予想出来た事だったがスケジュールは押していた。

 だがそれに対しクマは毅然として答えた「それは受け入れられない。僕等はこの40分間、ただその為だけに、この半年間を送って来たんだ。一曲たりとも外す訳にはいかない。それでも可能な限り曲と曲の間を短くするように努力はする」

 スポットライトに照らされたステージからは、客席は暗い海面のようにざわざわとした音だけが聞こえ全く何も見えなかった。それは昨年修学旅行の帰路、高知から乗船した「さんふらわあ」から眺めた夜の海と同じだった。 

 『しかし』クマは思った。『しかしこの闇の中には、それぞれの物語を背負った千余名の人間がいるのだ。この二年半の歳月、歓びと悲しみを分かち合った人達、ナッパやチャコ、「深沢うたたね団」の面々・・・。しかしあの司書教諭はいない』

 彼の脳裏には一瞬走馬燈のように幾つもの顔が浮かんで消えた。『これは、そう、彼等へのささやかな贈り物、レクイエムなのだ』


観覧車/風のかたみの日記


さようなら通り過ぎる夏よ/風のかたみの日記


ゆりかご/風のかたみの日記


秋祭り/風のかたみの日記


君に捧げる歌~君への讃歌/風のかたみの日記


ぎやまんの箱/風のかたみの日記


もう帰ろう/風のかたみの日記

 

 そして全ての曲が終わった時、時計の針は午後2時丁度を指していた。<続>

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ただその40分間の為だけに(23)

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 世田谷区民会館は隣接する区役所と同様、外壁が無くコンクリートの地肌を剥き出しにした灰色の建物だ。竣工が1959年である事を考えれば、当時としては斬新なデザインだったのかも知れないが、それから15年を経た今では単に無機質で冷たい外観の構造物という印象の方が強い。

 クマは以前、何度かその中に入った事がある。殆どは小学生の頃、学校で無理矢理書かされた読書感想文が世田谷区主催のコンクールに入選し表彰を受ける為だった。「そう考えるとあの時はここが出来てまだ間もない頃だったのか」クマは思った。 

 都立深沢高等学校の文化祭は3日間の日程で行われる。変わっているのは初日は学内ではなく、この施設を借り切って全校生徒と教職員のみ観覧する形が採られていた事だ。

 『一体誰がそんな事を決めたのだろう』誰もが一度は思う事だが、深く追求する者は無く、『まあ、どうでもいいか』そんな白けたアウトサイダー的考え方が当時の風潮とも言えた。

 「リハーサルは26日の9時からだって」文化祭準備委員会からの通知をヒナコがメンバーに伝えた。

 「どうやって行く」

 「バスだったら松陰神社前かな。僕は三軒茶屋だから世田谷線でも行けるけど」

 「あの辺りにシカンがあるだろう。あんまり行きたくないな」アグリーが言った。

「シカン」とは国士舘大学の事で、確かにすぐ近くに校舎があった。

 「なんで行きたくないの」

 「いや、何と言うか、あの学校は右翼みたいだろう。そんな所に長髪にジーパン姿でギターを抱えて行くのは危ないんじゃないか」

 「まさか、そんな事がある訳ないだろう」

 勿論それは冗談だった。彼等は唯、新聞委員会のアガタのように学生運動にシンパシーを感じていた訳ではなく、単に黒い学生服を着た応援団のような学生ばかりの大学とは一線を画したいと思っていただけだった。

 尤も、そのような服装をした者は実際のところ応援団くらいのもので、一般学生は皆ごく普通の格好をしていたのは言うまでもない。

 

 当日の朝、彼等が区民会館に到着すると、舞台裏にある控室で待機するように言われた。控室は男女別に二つの大部屋が用意されており、それは演劇等での着替えに対応する為だったが、ヒナコとムーはメガネユキコと共に、クマとアグリーはセンヌキと三人でそれぞれの部屋に入った。

 リハーサルは翌日の本番のプログラム通りに行われるとの事で、午後1時が出番の「ヒナコさんグループ」はそれまで別々に時間を潰さなければならない。クマとアグリーはセンヌキの提案に従い仕方なくIS&Nを復活、去年フェアウェルコンサートで演奏した曲などを歌って待つ事にした。


I,S&N at the Farewell Concert/風のかたみの日記

  「それはそうと昼飯はどうするんだよ」

 「ああ、近所の店にでも行ってみるか。役所や大学があるんだから食堂だってあるだろう」クマ達がそんな会話をしていると、何とチャコが大きな紙袋を持って現れた「こんにちは。これ、差し入れ」

 それを見たアグリーは大声で叫んだ。「おおっ、都立大のサンジェルマンだ」

 「知ってるのか」

 「ああ、ここのパンは抜群に旨い」

 「どうもありがとう」クマが包みを受け取ると、チャコは「明日、楽しみにしています」とだけ言って、ぺこりと頭を下げ出て行った。

 

 そして1時間遅れでリハーサルが始まった。スタッフは放送部員が中心となってやっているようだったが、如何せん彼等も慣れていない為、モニターは聞こえずハウリングはしまくり、とてもではないがまともに演奏出来る状況では無い。

 全体の指揮をとる文化祭準備委員長が声を荒げ叱咤するものの、改善は望めなかった。

 客席に座り音のバランス等をチェックしていたセンヌキが舞台の袖までやってきて「メチャクチャだよ」と報告する。

 「これで明日やるのか」アグリーの言葉にヒナコの顔が曇るのをクマは見逃さなかった。<続>

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ただその40分間の為だけに(22)

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 1974年9月、新学期が始まると校内の雰囲気は一気に文化祭一色に染まった。各クラスとも連日夜まで居残り準備に追われていたが、学級単位の催し物には一切関わっていない「ヒナコさんグループ」の面々も同様に連日連夜練習に明け暮れていた。

 午後6時以降校内に残る場合、本来ならば所定の用紙に人数、用件、下校時刻を記入、担任の認印を取った上で、学校へ届け出る旨校則に定められていた。しかし何故かクマ達は一度も書いた事は無く、それでいて特に咎められもしなかった。

 勿論それは、これまで彼等が素行上、何ら問題を起こしていないという実績のお陰かも知れなかったが、校内で喫煙している生徒など掃いて捨てる程いたにも拘らず、誰かが停学処分や厳重注意を受けたという話も殆ど聞いた事がなかった。すべては70年初頭まで吹き荒れた「学生運動」によって、「規律」という言葉が荒廃し形骸化したせいだったのだろう。 

 そのような中、本番を間近に控えた「ヒナコさんグループ」の状況を、音楽的リーダーの立場であるクマは次のように分析していた。

 『アンサンブルはある程度のまとまりが出てきたが、自分が示したハーモーニーの旋律は、各人の勝手なセンスが微妙に反映されてしまい、完璧な3パートとは言い難い状況である。しかし、事ここに至って、これ以上の修正を要求する事はかえって混乱を招くだけと判断されるので、言いたい気持ちをグッと堪え、甘んじてそれを受け入れるべきだろう。当初の目標だったヒナコとムーが主役で自分とアグリーはバックアップというスタイルは崩れてしまったが、最早、ああだこうだと言ってるような時期ではない。今、大切な事はこの「ヒナコさんグループ」を如何に操縦し、アポロ11号のアームストロング船長ように、目的地に無事軟着陸させる事なのだ』 

 そんなクマの気持ちを知ってか知らずか、アグリーは相変わらず三度下のハモりのパートを平気で逸脱、いきなり三度上に飛んだりしてクマの神経を逆なでにしていた。

 一方、彼等の練習にはメガネユキコがまるでステージママのように常に現れ、黙って聞いていたが、彼女に言わせればそれは「かよわいヒナコちゃん達を危険なクマやアグリーから守る為」で、音楽に関してのアドバイスは全く期待出来なかった。尤も、彼女自身が醸し出す安定感は得難いものであったのは言うまでもない。

 また、元I, S & N のメンバーであるセンヌキも頻繁に顔を出して、気がついた部分に茶々を入れたりしていたが、殆ど役に立つ指摘ではなかった。それよりも彼が何か他の事を言いたげな素振りを見せる方がクマは気になっていたが、敢てそれを聞くことはしなかった。『これ以上、面倒な事は抱え込みたくない』

 

 「そろそろ」クマはそう切り出すと皆の顔を見ながら続けた。「演目を全て決めないと間に合わなくなると思うんだけど」その言葉にアグリー、ヒナコ、ムーの三人は黙って頷く。

 結局「ヒナコさんグループ」には40分間が与えられる事が決まり、その時間内で演奏する曲を確定しなければならない状況だった。世田谷区民会館の本番は27日、もう時間は残っていなかった。

 「それで整理すると、決まっているのは、アグリーの『観覧車』。それからヒナコの『さようなら通り過ぎる夏よ』と『秋祭り』。そしてムーの『ぎやまんの箱』と『ゆりかご』。以上五曲だけど、これでいいよね」

 「そうだね、後二、三曲必要って事か」アグリーが答えるとヒナコがそれに続けた。

 「あとはクマさんの曲じゃない」

 「うん、それで考えたんだけど、僕の『君に捧げる歌』とアグリーの『君への賛歌』をメドレーにして一曲にしたらどうかと思うんだ」

 三人は黙ってクマの顔を見た。

 「この二曲は言ってみれば僕等の記念碑みたいなもので、これをカップリングする事に意義があると思うんだ。勿論フルコーラスじゃなくて短くしたものをくっ付けて。そうすれば1.5曲分くらいの長さで済むと思う。それでキーが僕のがDで、アグリーのがEだけど、繋ぎの部分で転調すれば割とすんなりいける筈だ」

 「そうするとあと一曲」とヒナコ。

 「うん、ほぼ制作完了」クマが答える。

 「どんなん」アグリーが聞く。 

 「デモを作って来たんで聞いてくれる」そう言うとクマはSONYカセット・デンスケのプレイボタンを押した。


もう帰ろう(DEMO)/風のかたみの日記

 「なかなかいいじゃない。軽くてキャッチーだし。これで全部出揃った訳だ。で、この題名は」アグリーの言葉に「出来ればもっとアップテンポの曲があればいいんだけど。取敢えずリストにしてみると」そう言ってクマは黒板に書き出した。

  1.観覧車

  2.さようなら通り過ぎる夏よ

  3.ゆりかご

  4.秋祭り

  5.君に捧げる歌/君への賛歌

  6.ぎやまんの箱

  7.もう帰ろう

 「『もう帰ろう』って言うのか。ラストに相応しいタイトルだな。こうやってリストを見ると、結構それっぽいね」アグリーが笑いながら言う。

 「うん、題名だけだと実際の音が無い分いいかもね」クマは肩をすぼめた。

 「またクマさん、そんな事ばっかり言って」ヒナコが肘で突っつきながらクマを見た。<続>

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ただその40分間の為だけに(21)

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 「それで、お葬式には行ってきたの」ヒナコがクマにそう尋ねた。梅雨明けは未だ発表されていなかったが、校舎の屋上に上がると乾いた風が優しく頬を撫で、遠く駒沢給水塔の青いドーム状の屋根がくっきりと浮かび上がって見えた。

 「いや、それが何でもごく内輪で済ませたらしくてチャコも行ってないんだ。それに病名もはっきりしないし、学校側も口を継ぐんだまま。何か訳でもあるのかな」

 「そう、でも何だかクマさん、仁昌寺先生が亡くなってから元気が無いみたい」 

 「そうかな、身近な人が急に死んだって聞いたら、やっぱり気が滅入るよ。何でそんな事が起こらなければならないのか。未だそれ程経験がある訳じゃないけど、もう少し歳取ったらこんな事も当たり前になるのかな。当たり前になりたくもないけど」

 「そうねえ」ヒナコはそう言うと後の言葉を探すように空を見上げた。

 「もう夏休みだね。去年の今頃は文化祭でやる劇の練習に掛かりっきりだったけど、随分昔の事のような気がする」クマも空を見上げてそう言った。

 「父帰る、でしょ。私も見たわ。今考えるとあのフラフラ帰って来るお父さん役ってアグリーどんだったんだ」

 「文化祭が終わって奴に『それにしてもよくやったもんだ』と言ったら『お前が無理矢理やらせたくせに』と怒られた。でもあの劇は結構観客が多かった。まあ、この学校の文化祭で演劇の出し物は極端に少ないからね」

 「劇は準備や何だかんだ手間がかかって大変だから誰もやりたがらない。でもクマさんは一人で二年四組を纏め上げてやり切った。その実行力は凄いってメガネユキコさんがいつも言ってるわ」

 「そんな事もないよ。最近特に自分は何も出来ないんじゃないかと思う事が沢山ある。仁昌寺先生の事だって、例えばもっと頻繁に図書室に行ってたらどうだったんだろうとか」

 「そうかな、どうして」

 「僕はね、今まであまり挫折って、したことがないんだ。大成功とまで言えなくても、そこそこの成果は挙げられる・・・。そんな風に考えて来たんだ。でもその為には人に対しては随分気を使ってきた心算だし、ある意味考え過ぎな位にね。でも偶に、本当に偶になんだけど、信じられないようなミスを犯してしまう事がある。

 相手が自分に賛同してくれてると勝手に思い込んだり、特に何も言わなくても十分理解されていると勘違いしたり、それでいて言わなくてもいいような何気ない一言を言ってしまったりとか・・・。そしてそのせいで一瞬にして一番大切に思っていたものをみすみす失くしてしまったり。何だか、僕って信じられない位バカみたいだな」

 「そんな事ないよ、少なくとも私やムーは幸せにしてもらってるし、みんなクマさんの事が好きだよ」

 「何故なんだろう、そこに恋愛だとか普通ではない特別な感情が入ってくると、急に冷静に判断出来なくなって必ず間違いをしでかすんだ。そしてその間違いは殆ど致命的で取り返しがつかないような影響を与えてしまう」

 クマはそれだけ言うと少し困ったような顔をして黙った。するとヒナコはいきなりクマの頬にキスした。クマが驚いてヒナコの顔を見ると、彼女は照れ臭そうに呟いた。

 「ナッパさんじゃなくてゴメンネ。でも私、誰にでもこんな事はしないよ」クマはそれには答えずに頷き、少し間を置いて言った。

 「もっとバカな話をしようか。僕がナッパと付き合い始めた時、どんな事を考えていたと思う。僕はもう音楽なんか止めてしまって、勉強に精を出し、いい大学に入っていい会社に就職して、そうやってナッパと幸せな家庭を築く事を真剣に考えたんだ。全く笑っちゃうよね」

 ヒナコはただ黙って首を横に振った。

 「ところがさ、あっという間に振られてしまって。それで今度はもうありふれた幸せになんかに背を向けて音楽だけに生きようなんて、全く反対方向に方針を変えたりするんだ。それってどう思う」

 「クマさんは考え過ぎなのよ。仁昌寺先生が亡くなって感傷的になっているのよ。そんなに突き詰めなくても物事はなるようになるものよ」

 「ケル、ケッサラか」

 「えっ、ドリス・デイの歌」

 「いや、それは『ケセラセラ』。そうじゃなくてサンレモ音楽祭ホセ・フェリシアーノが歌った方」

 「あっ、知ってる。越路吹雪が歌ってた」

  「そうそう。越路吹雪と言えば 『イカルスの星』はいいよね」

 「えー、クマさんってそんなのも聴くの。それとももしかして宝塚ファンだったりして」 

 「いやあ、宝塚ファンはアグリーの母上がそうだけど」

 「ふうん、そうなんだ。アグリーどんのお父さんは警察なんでしょ」

 「うん、あの『あさま山荘事件』があと二、三日延びてたら現地に行く事になっていたみたい」

 取り留めの無い会話を止める者は誰も居なかった。ヒナコはクマの表情が少しずつ柔らいでゆくのが判った。そしてクマは改めて考えていた。『何故、ナッパとはこんな風にフランクに話せなかったのだろう』<続>

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ただその40分間の為だけに(20)

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 「ヒナコさんグループ」を続けながらも、クマは来年二月に迫った大学受験の事を忘れた訳ではなかった。バンド練習の無い日は今まで通り帰宅後直ぐに午睡を取り、夕食を済ませ午前三時まで机に向かう。そして翌朝七時に起きて登校、そのような生活を続けていた。

 これにはある程度ストイックな姿勢必要とされたが、クマは様々な誘惑に対し一旦距離を置いてしまえば、再びそこへ戻るという事は極めて少なく、また苦痛に感じる事も無かった。尤もそれは煙草やアルコールといった常習性のある物を一切嗜んでいないから言える事かも知れなかった。

 テレビに関しても、その頃NHKでは土曜日の夜「刑事コロンボ」という非常に興味をそそる番組が放送されていたが、その時間クマだけは居間から二階の部屋に行き、一度もそれを見た事が無かった。

 唯一彼が視聴するのは同じNHKの「ステージ101」で、その番組の音楽監督を務める東海林修のアレンジを聴く為だった。尤もそれは表向きの理由。実際は「ヤング101」のメンバーの一人、髪が長く瞳が輝いて見える温碧蓮という女性に、あのナッパの面影を追い求めていたからだった。その意味から言えば彼は未だナッパという存在に距離を置く迄に至ってはいなかったのかも知れない。

 

 そんなある日、クマはセンヌキから電話を受けた。

 「オタク、夏休みどっかの講習に行く予定ある」

 「いや、別に何も考えてなかったけど」

 「だったら一緒に行こうよ」

 「うん、でもアナタは東大志望でしょ、コースが違うんじゃないかな。だいたい何処に行こうという話」

 「共通の授業はあるし。それで代ゼミはちょっとなんだから、一橋学院がいいんじゃないかと思うんだけど」

 「代ゼミって良くないのか」

 「いや、メジャー過ぎて大衆向けなんじゃないかと」

 「そんなもんかな、まあいいけど。一応親の承諾が無いと金が出て来ないんで、それを聞いてから返事するよ。応募の締め切りとかあるの」

 「まだ充分余裕がある」

 

 夏期講習の受講を決めて数日後、クマが登校すると校門の前にチャコが立っていた。彼女はいつになく難しい顔をしているように見えた。

 「Long time no see、どうしたの」クマが声を掛ける。

 「あっ、待ってたの。あのう・・・」彼女はクマを見ると酷く動揺し殆ど泣きそうな顔になった。「あの、仁昌寺先生が・・・亡くなったの」

 「・・・」クマは言葉を詰まらせ、チャコの顔を見つめたまま凍り付いたようにその場に立ち盡した。

 彼女が続ける。

 「先生は秋田県玉川温泉っていう湯治場にずっと行ってたんだって。それでしばらくは体調も安定してたらしいんだけど、二週間くらい前、急に具合が悪くなって救急車で病院に運ばれて、それでそのまま意識が戻らなくて、一昨日の晩息を引き取ったんですって」彼女は完全に泣きながら説明した。

 少ししてクマは漸く口を開いた。「うん、そう、そうか、そうなんだ。仁昌寺先生は、死んでしまったのか」クマはゆっくりと一言ずつ嚙み締めるように言った。そうする事によって、今聞いたばかりの話を事実として自分に納得させようとしているかのようだった。

 『それにしても、今時湯治などという前時代的な治療法は通用するのだろうか。そしてそれを選んだ仁昌寺和子という司書教諭は一体何を考えていたのだろうか』

 クマの脳裏に最初で最期になった唯一度きりの彼女との会話が駆け巡った。それは五月、暖かな午後の日差しが注ぐ図書室だった。

 「どうかしましたか」知らぬ間にクマの横には司書教諭が立っており、怪訝そうな顔をしてそう訊ねた。

 「先生」クマは今まで一度も口をきいた事のない彼女に対し、思わず自分でも予期せぬ言葉を発した。

 「先生は取り返しのつかない出来事を経験した事はありますか」

 「・・・それは何度もあると思うけど。例えば歳を取ったりとか」

 「いいえ、そんなのではなくて、何て言うのか、そう、言わなくてもよかった事を言ってしまったりとか」

 「・・・今こうして会話をしているけれど、私は私が作り上げた君という虚像と話していると思うの。こう言えば君がどう反応するか、君の隣にいるもう一人の君の顔色をうかがいながら次の言葉を探しているの。だから、どれだけ言葉を尽くしても、それは想像の領域のコミュニケーションでしかない。でも私達は切れば血の出る現実に生きている・・・言っている意味が解る」

 部屋の中に、話の内容とは裏腹な司書教諭の屈託のない声が響いた。

 「多分、判る、と、思います」クマは考えながら答えた。

 「だったらオーケー。失恋でもしたの、人を好きになるのは理屈じゃないわ。大抵は一瞬の気の迷いか、大いなる勘違い。まあ若いんだから元気を出しなさい。月並みな言葉だけれど」

 「先生は恋愛に何か含みでもあるんですか」クマは思わず笑顔で言った。

 「そんな事はないけど、でも些細な言葉の行き違いで壊れてしまうような繋がりなら、元々大した事が無い証拠。そんな関係なら幾らでも転がっている。それで相手が本当は何を考えているかなんて誰にも判る筈がない。だって自分で自分の事さえ判らないんだから。君は完全に自分自身を把握していると思う。人は誰でも、決して日の当たらない月の裏側みたいな部分を持って生きているって、私はそう思うけど」

 

 『何故だろう、初対面の自分に彼女は何故そんな事を言ったのだろう』クマが記憶を辿っている間、チャコはまた別の世界に浸っている彼の顔を、ただ黙ってじっと見つめていた。<続>

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ただその40分間の為だけに(19)

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 世田谷区民会館の舞台に立つまで既に三ヶ月を切っていた。「ヒナコさんグループ」が使える時間は未だ不明だったが、レパートリーにムーの二曲目が加わり、取敢えずはこれをメインに練習を続けていた。

 しかし未だ四曲では足りない。ステージを30分以上維持するには、少なくとも後二、三曲は用意しなければならず、最も手っ取り早い解決法はアグリーとクマが既に作った歌から選ぶ事であったが、それはいつでも出来る最後の手段で、クマはヒナコの顔を見る度にあと一曲何とかするようプレッシャーをかけていた。

 その日の練習でも同様、開口一番こう切り出した。

 「ねえ、何か無いの。取敢えずさ、曲か歌詞か、どっちかあれば後はどうにかするから」

 「そうねえ、ないことも無いんだけど、ちょっとねえ、あんまりねえ」

 「ちょっと何よ、いいからやってみてよ」クマに促されヒナコは自信なさげにギターを持ち上げてボソボソ蚊の無くような声で歌い始めた。

 「 ♪ 秋祭り 秋祭りのお囃子の音が・・・」彼女は最初の四小節を歌うとそこで止めて首を横に振りながらクマの顔を覗き込むように見た。

 「いいじゃない、ねえ」クマはアグリーに同意を求めた。

 「全然オーケーだよ。秋祭り、季節感もピッタしだし」アグリーは自分に与えられた役割をきっちりと果たす。

 それは極ありふれたフォーク調の曲で、しかもキーは定番のAm。これでもかと言う程マイナーな歌だったが、散々せっついて出させたものであり今更貶す訳にも、ましてや別の曲を要求する事など出来る筈も無かった。

 一応最後まで通して聴くと、クマはいつも持ち歩いている五線譜を取り出し大雑把な譜割をしてコードをすらすらと書き込みながら、ヒナコに確認した。

 「タイトルは『秋祭り』でいいんだよね。で歌詞は」

 クマがそう言うとヒナコはスヌーピーの便箋を取り出して書き始めた。 

  

  秋祭り 秋祭りの人混みの中で

  あなたとはぐれて一人の私

  浴衣姿 裸電球

  赤い風船が手を離れ

  暗い夜空に消えてった

     

  秋祭り 秋祭りのお囃子の音が

  私の寂しい心に染みる

  金魚すくいに風船釣りと

  いつかあなたの事も忘れて

  一人はしゃいで夜は更ける

     

  秋祭り 秋祭りの終わったその後で

  気がついてみたら一人の私

  綿あめの甘い香りを残し

  散らかった神社の境内を

  秋風も寂しく吹き抜けた

 

 「最高じゃん」アグリーが大袈裟に叫ぶと、ヒナコは照れ隠しなのか彼の背中を平手で叩いた。

 一方、クマの灰色の脳細胞にまたしても灯りが点灯した。

 『そうだ、これはイントロと間奏で、C,S,N&Yかガロのような癖のあるリードギターを入れれば、ちょっとはハイセンスになるのではないか』

 その為にはAmよりはDmの方が自分としては弾きやすい、しかしキーは五度高くなる。早速クマは自分がDmで演奏し、ヒナコの声のチェックをした。

 その結果一番音程が高くなる部分で時折声が裏返りそうになるものの、これは歌い込めば何とか解消されそうだと彼は思った。

 クマは相変わらず、こと音楽にかけては自分本位で冷酷な迄非情であり尚且つ容赦が無かった。

 「クマさんって高い声ばっかり求めてない」ヒナコは半ば呆れたように言ったが、クマは『それはもしかしたら、暗に自分が未だあのアグネス・チャンが歌うような甲高い声のナッパの呪縛から解き放たれていない事を指しているのか』と考えた。しかしその事を声に出して言う事はなかった。

 

 その日もクマは帰宅するとヒナコの新曲に罹りっきりになった。そして何度か繰り返しギターを弾いている内にある事実を発見した。

 『このコード進行は何処かで聞いた事があるぞ』

 試しにその思いついた歌を重ねて歌ってみると、彼の仮説は確信に変わった。それは間違いなくラジオ番組「コッキーポップ」で流れている、「ウイッシュ」という女性デュオが歌う「六月の子守歌」そのものだっだ。

 クマは一瞬、人の秘密を暴き、隠れていた本性を垣間見たような、密かな快感に近い感覚に陥ったが直ぐに思い直した。

 『これは単にコード進行が同じだけでメロディーは違うのだから、何ら問題はない』

 それは全くその通りであり、少なくともクマが神とも仰ぐポール・サイモンの名曲「サウンド・オブ・サイレンス」を盗用し、「夜明けのスキャット」などという駄作を恥ずかし気もなく世に出して、莫大な印税を稼いだであろう『いずみたく』とかいう名の作曲家よりはずっとましだ。そう考えたクマは折角の自分の大発見を封印する事にした。

 「秋祭り」のアレンジにはそれ程手間はかからなかった。基本的には典型的なスリーフィンガーを使い、後半からは少しずつストロークを入れてエンディングを盛り上げるといういつものパターンだ。

 『代り映えしないかな、でもそれ以外に何か方法はあるだろうか。精々6弦をEからDにドロップする位か』

 いつしかクマの指はこの曲に使う心算のC,S,N&Y「Find The Cost of Freedom」に於けるニール・ヤングの泥臭いフレーズをつま弾いていた。<続>


Find The Cost of Freedom/風のかたみの日記

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