シンクロニシティ

 先ず最初に。このタイトルを見て、大集団女性アイドルの歌についての記述だと思った方、申し訳ない。そうではないので悪しからず。

 さて1995年1月、未だお屠蘇気分が抜けない内に、私は初めてインドネシア共和国へ向かった。目的は観光ではなく、旧通産省所管の外郭団体から委託されたFSの為で、経費はすべて税金で賄われるが、それなりの調査を行い報告書作成義務を負っていた。

 調査内容について書き始めると、それだけで紙面が尽きてしまうであろうし、また道中で起きた様々な出来事は、非常に興味深く得難い体験であったが、今回の本題では無いので、いずれ機会があればご披露する事としたい。

 真冬の成田から赤道直下のジャカルタを経由、空路スマトラ島最北端の都市バンダ・アチェへ。そこからペダンまで車で南下するという行程で、所要日数は10日間。「飯はナシ、人はオラン、私はサヤ」等と呟きながら、メンバー3名と共に1月17日、最初の目的地バンダ・アチェに到着した。

 古くは港町として栄えたこの都市は、敬虔なイスラム教徒が居住する事で知られ、流石に高層ビル群は無いものの、広い大通りには美しいモスクと様々な商店が並んでいる。

 事前に治安があまり良くないとのインフォメーションがあった為、我々は集団で行動したが、中心街を歩く人々はまるでスローモーションの動画を見るように、のんびりと正にジャラン・ジャランしているのであった。

 夕食を終えホテルの部屋に入り、取敢えずテレビを点けた。そして私の目は映し出された画面に釘付けになった。

 何処か場所は定かではないが、それは間違いなく日本の都市だった。少なくとも見慣れた東京ではない事だけは確かだ。 そして、そこでは、信じられない事に、高速道路の高架が土台から倒壊している。

 地震が発生したように見えた。しかし幾ら地震大国とは言え、このような壊滅的な破壊が起きる筈はない。これはまるでパニック映画ではないか。そう思った。

 それが私が見た、後に「阪神淡路大震災」と名付けられる大惨事の第一報だった。

 番組は華僑向けの衛星放送だったのだろうか。音声は中国語、字幕はアラビア文字。もし逆であれば、漢字を見て少しは推測出来たかも知れないが、当然何を言っているのか全く理解出来ない。

 そのうち場面が変わると、今度はなんと大正12年に起きた関東大震災の白黒の記録映像である。私は部屋から神奈川県に住む父親に電話をかけ、大きく被害を受けたのは阪神地区である事、また高速道路だけではなく新幹線や在来線の橋脚も倒壊した事、おびただしい数の犠牲者が出ている事などを聞いた。 

 眠れない夜を過ごした翌朝、ジャカルタに支店を置く日本の商社が、新聞記事をFAXで送ってくれ、連絡を取りたい人の有無を訊ねて来た。その活字を読んで漸く、何が起きたのか受け入れる事が出来た。それが私の1月17日だった。

 

 それから9年後、2004年12月26日。その日は日曜日で自宅のテレビを見ていると、ニュース速報のテロップが流れた「インドネシアスマトラ島沖で地震発生」。

 やがて現地の映像が届いた。あのゆっくりと時が流れていたバンダ・アチェの街と人が巨大津波に飲み込まれてゆく。

 それがアチェの南南東250kmで発生したスマトラ島沖地震である。この天変地異はマグニチュード9.1という凄まじいエネルギーを放出し、1900年に起きたチリに次いで2番目に大きな地震と記録された。

 更にその直後に発生した津波は、時速700kmというジェット機並みの速度で海を駆け抜け、その高さは平均10m、最大34mに達しバンダ・アチェの地形を変えたと言われている。

 取敢えずは、それだけの事である。

 これは唯「阪神淡路大震災が起きた日に私がいた場所が、偶々後になって大きな津波に襲われた」という事に過ぎず、そこには何ら関連性や因果関係は無く、まして私の身に起きた超常現象や怪奇現象、神秘体験などでは有り得ない。よくある偶然と言ってもいい。

 それでも今日1月17日、25年前のこの日に起きた大震災を伝える報道を見聞すると、どうしてもスマトラ島の景色が重なって見えてくる。

  恐らくその感覚を、スイスの心理学者カール・ダスタフ・ユングが提唱した「シンクロニシティ」と呼ぶのは間違いだろう。ただ私の意識の中では、今なお二つの災害が、時を越えて同期しているように思えてならないのである。

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