一年は長いか短いか

 一年は365日、厳密に言えばあと5時間48分程余分があり、それでは都合が悪いので4年に一度「うるう年」を設けて調整している。

 そんな事は誰だって知っている。それはともかく一日は24時間、その中に昼夜があり、我々は夜目が利かず行動が制限される為、普通暗い時には睡眠を取っている。否、睡眠を取る為に夜目が利かなくなったのか。私にはどちらかは判らない。

 さて、眠っていない時間、即ち起きている間、特に然したる事は何もせず、怠惰に時間を過ごすと、その日は耐えようもなく長い。反対に慌ただしく物事の処理に追われていると、気がつけば辺りはすっかり暗くなっている。

 しかし不思議なことに、後になって振り返ってみると、退屈な一日の印象は殆ど残ってはいないので極端に短く、あっと言う間に過ぎた一日は中身が濃い為か、とても長く思えてくる。そう感じるのは私だけだろうか。

 この長短の違いを一週間、一ヶ月、半年というように範囲を広げて見ていけば。自ずとその一年間の印象が決る。

  そもそも一年とは、地球が太陽の周りを一周する時間であり、人間が勝手に決めたものだが、その長さは一定で変わったりはしない。それなのに何故印象が異なるのだろうか。

 これを絶対時間と相対時間の違いと言うのかは疑問だが、確かにそのように感じる事が多い。

 その観点からこの2018年を振り返ると、とても長く感じられる。1月に起きた出来事など、もう何年も前の事のように見えてくるのである。

 と言う事は、中身が濃い時間を送ったのであろうか。そうかも知れないし、違うかも知れない。

 今年を長く感じる人、また短く思う人、それぞれの一年間がもうじき終わる。果たして来年、地球が太陽の周りを一周する間に、我々は一体何が出来るのだろうか。

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年年歳歳

 毎年この時期になると日本全国が年越しモードに突入し、何かと気ぜわしくなる。何もそこまで慌てなくてもいいのにと思うが、あっと言う間に時間は過ぎ、気が付けば年が明けている。

 しかし、考えてみればそれは決して珍しいことではなく、いつもの年末年始、もう何度も同じように経験して来た事ばかりである。

 珍しくないのであまり記憶に残る事も少ない。朧げな印象はあるものの、それが一体いつの出来事だったか甚だ定かではない。

  そんな風に思っていたら、今でもしっかり忘れずにいる年越しがあることに気がついた。以下はその羅列。

 

 高校三年の冬休み、家族で箱根へ泊りがけで出掛けた。私は目の前に大学受験、四歳上の姉は五月に結婚を控えていた。箱根は珍しく白銀の世界。深々と降り積もる雪を眺めながら、炬燵に入って未成年の私は熱燗を酌み交わしていた。考えてみるとそれが最後の家族旅行だった。

 社会人になって数年が過ぎた頃、御用納めの日、昼過ぎに退社すると地元の本屋へ行き、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を全巻購入した。その正月休みはテレビも見ず、寝る間も惜しんで、ただひたすら読み続けた。そして長い物語の終了と共に、私は仕事始めの日を迎えた。

 西暦が1999年から2000年に変わる節目、私は父親一人になった茅ヶ崎の実家へ行き、紅白歌合戦を見ながら二人で酒を飲んでいた。騒がしい「蛍の光」が終わり、一瞬沈黙が訪れると、雪深い永平寺の除夜の鐘がテレビから聞こえた。そしてその時、まだ部屋の灯りは点いたままだった。大騒ぎだった2000年問題を何とか無事に凌いだのだ。ただ、冷蔵庫には大量の水のペットボトルが取り残されてしまった。

 

 こんなところだろうか、意外と少ないものだ。何か心に残る年末年始が、もっとあってもいいような気がする。特に今年は「平成最後」という事でもあるし・・・。

 しかし、何事もなく静かに淡々と同じような時を過ごす。それはそれで何と素晴らしく、また幸せな事だろうか。そしてそれこそが「平成」の名に相応しい年の瀬と言えるかも知れない。

 物事をそんな風に思える程、いつの間にか私も歳を重ねてしまった。

 

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暖房には太平洋炭を

 クリスマス・ホリデーを迎え、めっきり寒くなって来た。流石に部屋の暖房が欠かせない。(尚、本日がクリスマス・ホリデーではなく、今上天皇陛下の誕生日である事は重々承知しております)

 暖房と言えば私はある宣伝文句を思い出す、「暖房には太平洋炭を」。北海道の地方都市郊外にあった朽ち果てた廃屋、その柱にこの言葉を書いた広告版が貼ってあった。それはあの有名な美空ひばりの「蚊取り線香」や水原弘の「ハイアース」の看板同様、ホーローで仕上ており、時を経て同じように錆びていた。

 ところで、ここに書かれた「太平洋炭」とは一体何の事なのか。「備長炭」と似たような物なのだろうか。山ではなく海で炭焼きを行う事などあるのだろうか。そう思う人も中にはいるかも知れない。

 1920年(大正9年)三井鉱山釧路鉱業所を引き継ぎ、太平洋炭礦株式会社が設立された。ここで炭礦に「礦」を用いたのは金属鉱山との差別化を図る為であったと推測される。

 このまま太平洋炭礦の沿革や言葉の由来を書き続けるときりがないので、興味がある方はウィキペディア等をあたって頂きたいが、要は「太平洋炭」とはこの炭鉱で生産される石炭の事を指す。

 さてこの炭鉱(炭礦)。言葉は多分誰でも知っているだろう。文字通り石炭を掘り出す(これを生産という)鉱山である。とは言え、その製品である石炭そのものを見た事がある人は、最早それ程多くはないと思う。

 以前から化石燃料はNOx、SOx、CO2等を排出する悪玉として、過去の輝かしい栄光は葬られ、実に哀れな存在になってしまったが、その中でも石油に比べハンドリングの悪い石炭は、早くから見捨てられてしまった。

 私は別に炭鉱会社の社員でも地質学者でもなく、石炭に対し特別思い入れがある訳でもないが、何故か不思議な縁のようなものがある。

 その最たる例が何と炭鉱の中に入る、いわゆる入坑。しかもそれは一度や二度ではなく、三度も経験したのだ。

 その内訳は福岡県大牟田市にあった三井鉱山三池炭鉱が一回、北海道釧路市の太平洋炭鉱が二度。

 もとより自ら望んで行った訳ではないし、それどころか当時は、出来れば避けて通りたいと考えたりもしたが、今となっては得難い体験だったと思っている。

 どちらの炭鉱も、地底奥深くにある作業現場まで行くには。かなりの時間を要する。その事からも、地表近くから掘り下げて行くだけの、いわゆる露天掘りの豪州に勝てるはずない事は、容易に理解出来た。

 因みに三池は、先ずエレベーターで500m降下、その後トロッコ、マンベルト(人用のベルトコンベヤー)を乗り継ぎ、切羽(採掘している最先端)まで2時間。考えてみれば8時間労働の内、往復4時間に休憩1時間、実働3時間である。

 また釧路に於いても、やはり人車と呼ばれる客車の形をしたトロッコやコンベヤーで片道約40分を要した。

 そのような場所から生産された石炭は、主として製鉄所や発電所で使用されたが、ごく一部は一般産業や一般家庭向けに販売された。

 そしてその名残が「暖房には太平洋炭を」であったのだ。

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           (備長炭の上の太平洋炭=これは私が所有する本物です)

年末寒波到来

 11月になっても全国的に暖かな日和りが続き、汗を拭きながら中々色づかない街を歩く人の姿が散見された。

 我家では衣替えのタイミングを逸し、大掃除が始まるこの時期、夏物、冬物が部屋中に散乱したまま収拾がつかない。

 ここに来て、漸くというか遂にというか、天気予報は年末、今シーズン最大級の寒波の到来を告げた。

 毎年の事とは言え、冬型の気圧配置はその程度如何によっては甚大な被害をもたらす事があり、願わくば何事も無く通り過ぎて貰いたいものである。

 という訳でもないが昨年末、私が別のブログに投稿した文章を思い出したので、ここに再掲してみたい。

 

           「留萌の思い出」2017年12月28日

 2017年もいよいよ年の瀬。今月に入って「この冬一番の寒さ」とメディアが報じる日が続き、ここに来て強力な冬型の気圧配置、所謂「爆弾低気圧」が北日本から日本海側を覆った。

 その中で、留萌港の灯台が殆ど跡形もなく破壊されるというニュースが目を引いた。「積丹半島以北は11月を過ぎると日本ではなくなる」と聞いた事はあるが、それだけ自然条件が厳しいという意味だろう。テレビで地元の人が「灯台がもげた。」と言っていた。余程激しい風と波浪があったに違い無い。

 かれこれ数十年前の夏、私は留萌を初めて訪問した。主たる目的は港湾施設の見学と関係各所への挨拶で、現地の人達は20代の無知な若僧を歓待してくれた。

 その時、北海道は記録的な猛暑、タクシーを含め一般車の殆どが冷房を装備していない状況に閉口しながら、スケジュールを消化していった。

 留萌港の入り口付近の岩場には、座礁した石炭専用内航船の錆びた残骸があり、波に洗われている哀れな姿が印象に残った。

 北海道の日没は早い。夕食は由緒ありそうな古い料亭に案内されたが、座敷に入って驚いた。昼間会った人とそうではない人、合わせて十数名が拍手をもって迎えてくれたのだ。

 私は深々と頭を下げ、勧められるままに上座に座り、長老の挨拶の後、慣れない感謝の言葉を述べ宴会は始まった。後から聞いた話だが、ご当地では遠来の客が来ると、大勢が集まって宴席を設けるのが習わしだったそうだ。もしかしたら海事関係だけかも知れないが。

 宴は進み、いよいよメインの登場である。「蛸しゃぶ」だった。大きな銅鍋に日本酒をたっぷり注ぎ、温まったところでぬめりを取ったスライスの生蛸をしゃぶしゃぶし、紅葉おろしのポン酢で頂く。私は勿論初めての経験で、味はともかく物珍しさで結構食したが、その頃には部屋中、酒の匂いが漂っていた。

 ようやく宴会が終了し、年配の方々が帰るのを見送っていると、残った船舶代理店の人達から「ちょっとキャバレーに行きましょう。」と誘われた。私はてっきり風俗店だと低俗な発想をして、必死に固辞したが結局行く事になった。ところが着いてみれば、これがまた古い建物で、中に入ると広いダンスホールのある所謂昔のグランドキャバレーだった。

私はひとまず安心したが、それから先の事は殆ど覚えていない。唯一つ、留萌港では水先案内人(パイロット)は代々青函連絡船の船長OBが務めて来たが、最近はなり手がいないと嘆いていたのが妙に記憶に残っている。確かに冬場、荒天の時、小さな通船からジャコップ(縄梯子)で外航船に乗船するのは危険だし、特に温暖な地域の暮らしに慣れた、ある程度地位のある人が、敢えて留萌まで移り住む事は考え辛い。この問題は現在解決したのだろうか。翌日、私は次の目的地、小樽へ移動した。

 その後、10年程して私は再び留萌を訪問した。その時も大勢で歓待して貰ったが、さすがにあのグランドキャバレーは閉店したようだった。更に時を経て、留萌港が関係する商談が決定した際、現地と連絡を取った若い担当が、先方が私の名前を知っていると驚いて報告に来た。

 以上が「灯台がもげた」というニュースで思い出した事を書いたものである。

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                      (引き上げられた留萌灯台

 

冬のかたみ

 食料品の買い出しは大抵近所のスーパーを利用している。歩いて行ける距離だが帰りの荷物の事を考え、いつも車を使う。

 開店時刻に合わせて行くのは駐車場やレジの混雑を避ける為で、決してお目当ての女性店員がいるからではない。

 朝一番なので当然駐車場は空いており、私はいつも同じ場所に車を止める。そこは出入口から一番近く、ここであれば雨の日も殆ど濡れずに済む。

 ある日、買い物を済ませ荷物を積もうとした時、何やら呼び掛ける声がした。その方向に目をやると、すぐ近くのベンチに老人が座っている。どうやら日向ぼっこをしているようだった。

 彼は私に「いい車だねえ」と言って、「車が命?」と続けた。私の車は取り立てていい車でもなく、国産の1,500ccである。

 私が笑みを浮かべながら右手を振ってそれを否定すると、「200万くらいするの?」と聞く。

 えっ、私の命は200万円か、と一瞬思ったが、相手は年寄りの事だし、仕方なく「いえ、もう少しします」と答えた。

 彼は少し驚いたように「300万?」と疑問を呈した。実は個人的趣味で純正エアロパーツ等を取り付けている為、300万円でも買えないのだが、面倒なのでウンウンと首を振り、その日の会話はそれで終わった。

 次に会った時、その老人は私の車を見て、「いい車だねえ、200万?」と同じ事を言った。それを聞き私は、彼があまり普通ではないと悟った。恐らく認知症みたいな状況なのだろう。

 それでも私はまた同じように対応し、ただ、あまり細かなところに拘るのは得策ではないと判断、価格は彼の査定通り200万円で手を打つ事とした。

 その後、彼と逢う度、全く同じシーンの繰り返しとなり、私もいいかげん鬱陶しくなってきたが、「明日は我が身」との想いと「どんな人に対してもきちんと相手をする」という、ある種の使命感のようなものが私を踏み止まらせた。

 時々こちらから「おはようございます」と声を掛けてみたが、その時彼は不機嫌そうに私を見るだけで、全く相手をして貰えず、少し寂しい気にもなった。

 そうしている内、ある日を境に、ぷっつりと彼の姿が見えなくなった。気温が下がって来たので外出を控えているのか、それとも症状が急に悪くなったのか。別段消息を知りたい訳ではないが、幾分気にはなる。

 やがて街はすっかり冬ざれて、私は相変わらず同じ場所に車を止めている。もしかしたら「いい車だねえ」という声を、またここで聞きたいと思っているのかも知れない。

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大つごもり(初回投稿2018年12月17日)

 時折「はてなブログ」から『過去のブログなどを振り返りませんか』とのメールが届く。殆どは無視しているが、ふと思い立って今回は以下の通り再掲してみることにした。

 

 今回もまた私が常日頃関心を持っている題材、「宇宙・天文・暦」について書いてみたい。先ずはおさらいから。

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 さて、今回のタイトルは「大つごもり」。漢字では「大晦」または「大晦日」と書く。『おいおい、それは「おおみそか」と読むのだろう』早くもそういう声が聞こえて来そうである。

 確かにその通り。しかし、聡明な読者諸氏は「みそか」は「三十日」と書くこともご存知であろう。和歌を「三十一文字」(みそひともじ)と言うようなものである。

 思い出して頂きたい。我が国の暦は長きに亘って「太陰暦」を用いていた事を。即ち月の満ち欠けが、往時最も大切な農作物の育成時期や、言葉の形成に多大な影響を与え、日本人の暮らし、そして感情に密接に作用して来た事実を。

  我々は月の始めの日にちを「一日」(ついたち)と言う。これは元々新月を意味し、それを「月が立つ」と表現した事に由来する。

 月はその後、次第に成長(明るい部分が増す)して、三日月、半月、十五夜(満月)となり、それ以降は月末に向かってまた欠けて行く。そして三十日(みそか)には月が完全に籠ってしまう。

 もうお分かりの筈だ。「みそか」は「月が籠る」から「つごもり」、全く目から鱗が落ちるように明解な論旨ではなかろうか。

 そうして十一回「晦」(つごもり)があり、一年の最後の十二月三十日または三十一日を「大晦」または「大晦日」(大つごもり)と呼ぶのである。尤も「おおみそか」と言う人の方が圧倒的に多い事は認める。 

 かく言う筆者も恥ずかしい事に比較的最近までこの言葉の意味を知らなかった。というか余り興味が湧かなかった。

 私は長い間これを「大津籠り」と勘違いしており、恐らく歴史上著名な人物が、何らかの理由で、琵琶湖の傍の大津にある延暦寺、若しくはその他の場所に閉じ籠っていたのだろう、などと漠然と考えていたのだ。

 それはさておき、如何だろうか、これから年末年始の時候の挨拶などで、この蘊蓄(うんちく)を披露してみては。あなたの雑学王としての地位が向上するのではと思うが。但し、周囲から単にうるさいジジババだと嫌がられても、その責任を負う心算は一切無いので悪しからず。

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夢を夢見て

 夢を夢見て・・・。我ながら何とロマンティックなタイトル! 思わずその言葉の響きにウットリしてしまいそう。しかし、これから書こうとしている内容は、残念な事に全くロマンの欠片も無い。

 さて、私が「夢」に対して少なからず興味を持っている事は以前何度か書いた。 

kaze-no-katami.hatenablog.jp

 

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  何やら昔の記事で紙面を埋めようとしているみたいだが、別名 Day Dream Beliver、またの名を夢遊病者の私としては、そろそろこの話題に触れざるを得ない状況になった。それと言うのも最近頻繁に夢を見ているからだ。尚、ここで「夢を見る」とは厳密に言うと「夢を見た事を覚えている」事である。

 その夢は毎晩のように見ているが、どうやら一つのストーリーとして続いているように思える。特に嬉しくも楽しくも悲しくも怖くも無い、淡々とした物語が少しずつ展開して行く。

 とは言え、夢の特徴である「時間」「空間」「距離」と、あらゆる「常識」を超越した世界で、物語が繰り広げられる事に変わりは無い。例えば、中学の同級生と現在の知人が一堂に会し、互いに知り合いだったりもするが、見ている本人はそれに対し、何の違和感も感じない。

 淡々とした物語なのであまり悪人も登場しないが、時折私をイライラさせる何者かが、私の邪魔をしたり、行く手を阻んだりする。

 夢の中で自分の思い通りに事が運ばず、不安やイラつきを覚えてどうしようも無い。そういう悔しい思いをした人は多い筈だ。

 しかしこれまで幾度となく悪夢や金縛りを経験し、次第に自らの意思を、夢の中に於いても行使出来るようになった私には、最早そんな初歩的な謀は通用しない。

 じわじわと私に圧力をかけてくる正体不明の何者かに向かって、私は思いっ切り大声で叫ぶ「うるさい!」

 その瞬間、私は自分の声で目が覚める。そしてこんな深夜に大声を出すと、流石に隣近所を起こしてしまったのではないかと不安になる。

 だが、それも本当は未だ夢の中の話なのだ。即ち私は、「大声を出して目覚め、近所を心配している夢」を見ていたのだった。

 これを理解するのは中々難しい。それには本当に声を出したのか確認する必要がある。しかしそれも容易ではないのだ。何故なら私は一人暮らしだから。

 確かめる方法として、一晩中ボイスレコーダー等で録音する手はあるかも知れない。しかし、そこまでやる気にはなれない。

 そうやって夢に勝った心算の私は、結局は相変わらずイライラする羽目になってしまう。

 さて、今夜こそ決戦だ!

(読者の関心を引こうと、姑息にもちょっと色っぽい画像を添付しました 。『悪夢ーThe Nightmare』)

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