日本橋の空

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 『日本橋』と言っても大阪にある電気街の話ではない。字は同じだが読み方が微妙に異なり、大阪の「にっぽんばし」に対し、こちらは「にほんばし」で所在地は東京都中央区日本橋である。

 この橋は1603年(慶長8年)、江戸幕府創設と同時期に初代が架橋され、翌年には五街道の起点と定められた。 

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 民謡『お江戸日本橋』に歌われるように「七つ立ち」、即ち日本橋を午前4時に出発すると高輪付近で日の出を迎え「・・・夜明けで提灯消す」という事になる。

 現在の石造りの橋は1911年(明治44年)に改築された物で、20代目にあたるという。因みに我が国の道路の中心を表す「日本国道路元票」が橋の中央付近に今も設置されている。

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 しかし、そのように日本を代表する橋梁でありながら、殆ど日の当たらない存在になってしまったのだ。理由は見ての通り。  

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 あろうことか1963年(昭和38年)首都高速道路都心環状線」の高架が上空を塞いでしまったのである。その頃、東京は翌年に開催される「東京オリンピック」の為、至る所で工事が行われており、この高速道路整備もその一環であった。お陰で我々は、半世紀以上日本橋から空を望む事は出来なくなった。 

 私は何も当時の施政者達に先見の明が無かったと言いたい訳ではない。そんな後出しジャンケンが許されるのならば、幾らでも自分を正当化出来る。あの頃、既に過密化していた東京都心に新たな道路を建設するには川を利用するしかなかったのだろう。

 ところが先日、その日本橋に架る首都高にある「呉服橋」と「江戸橋」の出入口が、今年の5月10日午前0時をもって廃止される事をニュースで知った。しかもその理由が「竹橋」から「江戸橋」の区間を地下に移設する為だとの由。

 実を言うと、この計画が20年以上も前から検討されていた事は、それとなく聞いてはいたが、いよいよ本格的な工事が始まるのである。これで日本橋から青い空を見上げられる日が遂に訪れるのだ。 

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 さて、そこで気になるそのスケジュールである。現在の計画では2035年に地下トンネルが開通。2040年迄には高架が撤去されるらしい。「えっ、未だ20年も先の話!」

 果たして私は新しい景観をこの眼で眺める事が出来るのだろうか。

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緊急投稿「新型コロナからの生還」

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 本年1月8日から再発令中の緊急事態宣言が、今日2月2日、東京や大阪など10都府県を対象に3月7日まで延長された。感染者数の状況等を鑑みて、ある程度予想は出来た事なので特に驚きはしないが、これから述べる「ある知らせ」の方は思いもかけないものだった。

 Facebookの友人の一人が新型コロナウイルスに感染、殆ど九死に一生を得て生還した経緯(いきさつ)を投稿したのだ。その内容を見て何時になく強い衝撃を受けた私は、これをより多くの人にシェアすれば注意喚起の一助になるのではないのかと考え、本人に連絡を取って本ブログへ転載の了承を得た。

 以下に引用する出来事は決してフィクションではない。都内在住の50代男性が実際に直面した新型コロナ闘病記である。先ずはお読み頂きたい。

 

 

 『死んでたまるか』意識を失ったら終わりだと直感し、初めて自分の為に救急車を呼んだ。

 1月14日、軽い咳から始まった風邪は3日目に40℃の熱をもたらし。5日目には重篤な肺炎となった。

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 21日にPCR検査結果の陽性が判明、保健所の指示は「自宅療養」という名の実質「放置」だった。

 23日、遂に死を覚悟する呼吸困難に襲われた。空気で満たされているはずの部屋の中で溺れ死ぬのだ。言葉にならない電話で119番通報し、防護服姿の救急隊員が来た時には思わず涙が溢れた。

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 保健所と消防本部、そして救急隊が必死に搬送先をあたり、3時間程探したところで 都内の〇〇〇病院が受け入れを表明してくれた。

 約1時間の搬送で到着するや、直ぐに胸部のX線写真を撮って「レムデシビル」の大量投与が始まった。また、急変時の気管内挿管や延命に関する同意書にも署名した。

 レムデシビル - Wikipedia

 治療が奏功して入院3日目に熱が下がり始め呼吸が安定した。激しい咳は続いているものの次の感染患者の為に、数少ないコロナ感染症棟のベッドを空けなければならない。 

 酸素飽和度は90程度しかないがコロナに関する完治証明書が交付され、5日目に退院した。発症から13日後、1月27日の事だった。

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 もう誰にも感染させる事はない自分のコロナだが、体には深刻な爪痕を残していった。グレープフルーツ用のギザギザスプーンで肺を削り取られたような痛みが常にある。平坦な道も息が上がって2分も歩けない。肺の機能はかっての7割以下だろう。身体を起こしているのが辛い。平癒には年単位の時間が必要かも知れない。

 COVID-19、この悪魔のウイルスにだけは絶対に罹ってはいけない。このウイルスは健康な人間を3日で殺してしまう。

 本当に人が死ぬ恐ろしい病気が、こんなに身近に溢れている事を、死の淵から帰って来た今だから自分にはよく理解出来る。

 今思えば入院出来たのは偶然が重なった奇跡だった。

 

 同じように感染しても年齢や性別、基礎疾患の有無等により、症状は異なると思われる。しかし私は医者でも感染症専門家でもないので、どのような施策が正しいのかは断言出来ない。 

 唯、今私達に必要な姿勢は誰かに責任を転嫁したり、声高に非難したりする事ではなく、為すべきは兎に角感染を避けるべく、もう一度初心に帰って日常の行動を見直し、細心の注意を払う事ではないか。私は上記の文章を読んでそう感じた。読者諸氏は如何だろうか? 

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 尚、掲載した写真はすべてFacebookに投稿されたものである。

季節の花 (令和三年一月 Ⅱ)

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 ここ暫くYouTube用の動画を作成していない。散歩がてらカメラは持っているものの、この時期咲いている花の種類は少なく、おまけにマスクから漏れる息でファインダーが曇ってしまう。

 そんな状況を察してか「謎のWord 絵師」だるころ9216 (id:darucoro9216kun) さんから弊ブログ20万アクセス祝いに素敵な花束を頂戴した。

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  ふと最後に花束を貰ったのは目黒区民センターホールのステージだったかな? などと記憶を辿ってみたが定かではない。あの時、生まれて初めて奥行275cmのコンサートグランドピアノを弾いた事だけは覚えているのだが。

 それはともかく、私は一回の散歩で200枚近く写真を撮る。どれもイマイチでパットしない。それでも撮り貯めた中から Instagram 等に少しずつアップしたりして様子を見て来たが、矢張りこの「はてなブログ」に鳴り物入りで投稿するのが私のスタイルである。

 しかしひとつ問題がある。ブログにリンクさせる為、動画を編集し YouTube にアップすると、決まって「低評価」が付く事だ。それも精々100回前後の再生回数に対し7つも8つも付くのである。

 勿論、自分でも優れた作品などとは思っていない。それでも何が気に入らないのか必ず低評価を食らう。少なくとも私は今まで人の動画に対しそんな事をした覚えは無い。

 なにも高評価をしてくれと言っている訳ではないのだ。唯、わざわざ低評価をクリックする事はないんでないかい、と思うのである。あの下向きの f:id:kaze_no_katami:20210130000350p:plain を見る度、私のガラスのハートが砕けて止まりそうになるのを知った上での狼藉か。

 せめて低評価をした何者かのIDでも判れば、一族郎党を率いて敵陣に乗り込み無茶苦茶にしてやるのに残念でならない。

 まっ、物騒な本気(マジ)の話冗談はさておき、花が少ない分は偶々出くわした野鳥達でカバーしようと考えたが如何なものだろうか。

 因みにBGMは随分昔に作った曲である。実は歌入りもあるのだが、これ以上評価を落としたくないのでインストルメンタルにした次第。


季節の花 令和3年1月(その2)/風のかたみの日記

 

 そう言えば昨日,、病が癒えたら家族でサボテンの写真を撮りに行きたいと書いている方をお見受けした。心ばかりのお見舞いに手元にあった一枚を貼ってみた。気に入って貰えれば幸甚である。

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20万アクセス

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 2018年3月27日、私はこのブログを始めた。これまでに投稿した記事数は312。決して多くはない。むしろ少ないと言った方が正しいだろう。

 取り立てて文章が巧い訳でも、内容が役に立つ訳でもなく、その時々に「心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくって」来たに過ぎない。

 また時折添付する写真や楽曲も同様。どれも取るに足りないガラクタみたいな物ばかりである。 

 それでも長く続けているうちに僅かながらもアクセス数は増加し、今般、その累計が20万に達した。

 「だからどうしたの」、口の悪い私なら多分そう言うと思う。当事者以外、そのような数字に興味がない事は素より承知の上だが、折角なので(他にネタが無かったので)ご報告する次第である。

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 本ブログは一応有料の「はてなPRO」に登録しているものの、そもそもボケ防止が目的であって、アドセンス等で何らかの収入を得よう等という大それた考えはサラサラ無い。逆に「PRO」にした理由は鬱陶しい広告を表示させない為である。

 従ってアクセスが幾ら増えようと関係ないのであるが、とは言っても投稿する以上は一人でも多くの人に読んで貰えた方がイイに決まっている。更に「はてなスター」や「ブックマーク」も少ないよりは多い方が純粋に嬉しいし励みにもなる。

 「承認欲求」という言い方は好きではない。しかし人は多かれ少なかれそのような部分を持っているものかも知れない。

 出来れば読者として登録もして頂けると尚良いが、冒頭で述べた通り何の取り柄もない駄文であり贅沢は言えない。

 さて、これまで3年近く続けていると、それなりに様々出来事に直面して来た。突然ブログから去っていった人達。読者登録だけが残り更新されなくなったアカウント。互いに「はてなスター」を付け合う間柄から、気が付くと疎遠になってしまった先輩ブロガー、等々。

 また反対に、中には「はてなブログ」だけに止まらず、ツイッターやユーチューブ、インスタグラムに於いて新たな関係が始まった人達も何人か存在する。

 ブログの世界は、まさに 市毛良枝  一期一会という言葉が相応しいのかも知れない。

 この先、いつまで続けられるのか判らないが、更新する以上は少しでも良質なブログになるよう努める所存である。

 末尾ながら、これまでの読者諸氏のご厚情に深謝すると共に、引き続き倍旧のご愛顧を賜りたくお願い申し上げます。

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ニンドスハッカッカ

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 昨年12月7日、稀代のコメディアン小松政夫が逝った。享年78歳。少し早いような気もするが肝細胞癌だったという。

 私が彼を認識する切っ掛けは遠い昔、映画評論家「淀川長治」の物まねからだった。淀川は毎週日曜日、テレビの洋画劇場の解説者として番組の始めと終わりに登場。独特の語り口で冒頭「はい、またお会いしましたネ」に始まり、本編終了後「さよなら、さようなら」で終了する。後にオフコース小田和正がこれをヒントにヒット曲「さよなら」を書いた、というのは嘘である。

 小松はその様子を、淀川に似せた太い眉毛が上下に動く仕掛けを使いながら口真似をするのであるが、これが特徴を捉えて実に面白い。そもそもこれを真似ようと思いつく着眼点が素晴らしい。

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 その後「笑って!笑って!!60分」(TBS 1975.4~1981.3)の頃からは元てんぷくトリオ伊東四朗とコンビを組み、やがて「電線音頭」や「しらけ鳥音頭」を生み出した伝説のバラエティー番組 「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」(NET 1976.10~1978.3)へと繋がっていった。

 何せ放送局は当時未だ「NET」と名乗っていたテレビ朝日である。N=日本、E=教育、T=テレビの略であったなどと今時誰が覚えているだろうか。

 とにかくあの頃の伊東四朗小松政夫のコンビは突き抜けていた。PTAから「教育上好ましくない低俗番組NO.1」との批判を受けるが、それを物ともせず、片や解散に向かってひた走るキャンディーズの三人と共に更にヒートアップしていった。

 今見れば確かに小松が扮する「政太郎」は家族から寄ってたかってイジメられているみたいだが、当事者によれば全ては綿密に仕上げられた台本通りに進行していたのとの事である。 

 

 小松の死が公になった翌日、偶々ラジオの生番組に出演した元キャンディーズ伊藤蘭によれば、一昨年行われた彼女のソロコンサートに、小松は自分でチケットを手配し「小松の親分さん」さながらに真っ白なスーツを着て現れたという。

 一方、人をド突く以外然したる芸も無い自称芸人達が、こぞって思い出話を語り始め、さも小松と親しかったかのようにコメントするのを耳にした。他者の死を利用してまで自分を宣伝したいのかと、私は大切な思い出を汚されるよう気がしてならなかった。

  さて今回のタイトル「ニンドスハッカッカ」。小松の小学校の担任教諭の口癖だったそうである。一体どのような状況の中で発せられたのか。その答えは以下のYouTubeで。

 キャッホランラン!

 

 もしかしたらこのような「笑い」はいわゆる「昭和」であり、今の若い人達にとっては面白くも何ともないのかも知れない。

 しかし私にしてみれば、単なるノスタルジーではない、最も多感な頃に出会い、年齢差はありながら同時代を駆け抜けた輩のような存在だったのではないか。そんな気がしてならない。

 ここに在りし日の故人偲び、謹んで哀悼の意を表するものである。

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シンクロニシティ(初回投稿2020年1月17日)

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 あの日から26年の歳月が流れた。それは即ち、日本の人口の凡そ2割が「阪神・淡路大震災」をリアルタイムで知らない事を意味する。だが別に不思議な事ではない。私達の大部分もまた、1923年(大正12年)に起きた「関東大震災」を知らないのだから。

 しかし私の中では、我が国を揺るがしたあの大災害に対し、どこかアウトサイダー的な感覚が今もなお残っている。それは多分、あの日あの時、遠く離れた場所にいたからかも知れない。否、恐らくそうに違いない。

 以下はその当時の状況を昨年記述したものである。思う所があって再掲する事とした。

 

 先ず最初に。この「シンクロニシティ」というタイトルを見て、大集団女性アイドルの歌についての記述だと思った方、申し訳ない。そうではないので悪しからず。

 さて、1995年1月、未だお屠蘇気分が抜け切らない内に、私は初めてインドネシア共和国へ向かった。目的は観光ではなく、旧通産省所管の外郭団体から委託されたF/Sの為で、経費は突き詰めればすべて税金で賄われるが、それなりの調査を行い報告書作成義務を負っていた。

 調査内容について書き始めると、それだけで紙面が尽きてしまうであろうし、また道中で起きた様々な出来事も非常に興味深く得難い体験であったが、今回の本題では無いので、いずれ機会があればご披露する事としたい。

 真冬の成田から赤道直下のジャカルタを経由、空路スマトラ島最北端の都市バンダ・アチェへ。そこからペダンまで車で南下するという行程で、所要日数は10日間。「飯はナシ、人はオラン、私はサヤ」等と呟きながら、メンバー3名並びに現地同行者と共に1月17日、最初の目的地バンダ・アチェに到着した。

 古くは港町として栄えたこの都市は、敬虔なイスラム教徒が居住する事で知られ、流石に高層ビル群は無いものの、広い大通りには美しいモスクと様々な商店が並んでいる。

 治安があまり良くないとの事前インフォメーションがあった為、我々は集団で行動したが、中心街を歩く人々はまるでスローモーションの動画を見るように、のんびりと正にジャラン・ジャランしているのであった。

 調査終了後、夕食を済ませホテルの部屋に入り、取敢えずテレビを点けた途端、私の目は映し出された画面に釘付けになった。

 何処か場所は定かではないが、それは間違いなく日本の都市だった。少なくとも見慣れた東京ではない事だけは確かだ。 そして、そこでは、信じられない事に、高速道路の高架が土台から倒壊している。

 大地震が発生したように見えた。しかし幾ら地震大国の日本とは言え、このような壊滅的な破壊が起きる筈はない。これはではまるでパニック映画ではないか。そう思った。

 それが私が見た、後に「阪神・淡路大震災」と命名される大災害の第一報だった。

 テレビのニュースは華僑向けの衛星放送だったのだろうか。音声は中国語、字幕はアラビア文字。もし逆であれば、漢字を見て少しは推測出来たかも知れないが、当然何を言っているのか全く理解出来ない。そのうち場面が変わると、今度はなんと大正12年に起きた「関東大震災」の白黒の記録映像である。

 私は部屋から、茅ヶ崎市の実家に電話をかけ、当時未だ健在だった父親から、大きく被害を受けたのは阪神地区である事、また倒壊したのは高速道路だけではなく新幹線や在来線の橋脚も同様との事、おびただしい数の犠牲者が出ている事などを聞いた。 

 眠れない夜を過ごした翌朝、ジャカルタに支店を置く日本の商社が国内の新聞記事をFAXで送ってくれ、連絡を取りたい人の有無を訊ねて来た。その活字を読んで漸く、何が起きたのか受け入れる事が出来た。それが私の1月17日だった。

 

 それから9年後、2004年12月26日。その日は日曜日で自宅のテレビを見ていると、ニュース速報のテロップが流れた「インドネシアスマトラ島沖で地震発生」。

 やがて現地の映像が届いた。あのゆっくりと時が流れていたバンダ・アチェの街と人々が巨大津波に飲み込まれてゆく。

 それがアチェの南南東250kmで発生した「スマトラ島沖地震」である。この天変地異はマグニチュード9.1という凄まじいエネルギーを放出し、1960年に起きた「チリ地震」の9.5に次いで2番目に大きな地震と記録された。

 更にその直後に発生した津波は、時速700kmというジェット機並みの速度でインド洋を駆け抜け、その高さは平均10m、最大34mに達し、バンダ・アチェの地形を変えたと言われている。

 取敢えず、話はそれだけである。

 これは唯「阪神・淡路大震災」が起きた日に私がいた場所が、偶々後になって大きな津波に襲われた、という事に過ぎず、そこには何ら関連性や因果関係は無く、まして私の身に起きた超常現象や怪奇現象、神秘体験などでは有り得ない。よくある偶然と言ってもいい。

 それでも今日1月17日、25年前のこの日に起きた大震災を伝える報道を見聞すると、どうしてもあのスマトラ島の景色が重なって見えてくる。

  恐らくその感覚を、スイスの心理学者カール・ダスタフ・ユングが提唱した「シンクロニシティ」と呼ぶのは間違いだろう。ただ私の意識の中では、今なお二つの災害が、時を越えて呼応し同期しているように思えてならないのである。

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 2004年10月23日、震度7を記録した「新潟県中越地震」が発生。その日、滅多に海外に行く事の無い私は何故か北京にいた・・・。

凍りついた声

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 年明け早々今季一番の寒波が到来、北陸、上信越を中心に広範囲に渡って大雪に見舞われた。積雪は年中行事の地域とは言え、場所によっては平年の6倍も積もったらしい。

 それに伴い雪下ろし中に転落して命を落とす人も後を絶たず、亡くなった方々の多くは高齢者と呼ばれる年齢層である。

 テレビなどで「雪下ろしは2名以上で」と呼び掛けてはいたが、果たして彼等が独居老人だったのか詳細までは判らない。何れにしてもこのコロナ禍の状況下、葬儀もままならないに違いない。

 自然災害に於いて多くの痛ましい犠牲者の報道を見聞きする度、つくづく「これだけ科学が発達した今日、何か打つ手立ては無いものか」と思うが、唯、言い様も無い虚しさばかりが心に残るだけだである。

 せめてもの気分転換に、子供の頃聞いた雪に因む昔話を元にして、一大抒情詩でも書いてホッコり和もうと考え、正月ボケの頭を捻りくり回してみたが、どうもシックリこない。

 そこで念の為、「雪」「竹」「声」「凍る」をキーワードにネットを検索したところ、何と既に先人がおり、しかも私などより遥かに本格的で優れた文章、尚且つリンクフリーという太っ腹なサイトを見つけてしまった。

 ついては自前の駄文は放棄し、有難く使わせて頂く事に決めた。だが、肝の部分が借り物という今回の状況に、いつになく悔しいような安堵したような、少し複雑な気持ちなのである。

hukumusume.com

 

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