失われたもの

 1ヶ月前の10月31日、沖縄県那覇市にある首里城が焼け落ちた。早朝のニュース速報を見た時点では、既に消防も活動を開始しているようだったので、ここまで悲惨な状況になるとは想像もつかなかった。 

 琉球王の居城であった首里城は、1945年、太平洋戦争末期の激しい地上戦により焼失。この復旧に30年余年の歳月と約240億円の費用をかけ、今年の1月に完工したばかりである。

 沖縄文化の神髄、復興のシンボル、ウチナーチュウの魂、観光施設の中核等々、様々な側面を持つ首里城ではあるが、そんなに大切な物ならば、日頃の防火訓練は一体どうなっていたのかと嫌味のひとつも言いたくなる。今更「城郭構造が消火の妨げになった」では通らない。 

 また誤解を招くような報道も散見された。それは火災発生当初、世界遺産焼失と伝えられていたものが、遺産に登録されているのは地下の遺構にある古い城壁跡で、建物は関係無いという事実を後になって知らされた事である。

 とは言え、観光の他、然したる産業の無い沖縄にとって、首里城は重要な名所なので、出来れば早期に再建されるに越した事はないと思う。

 ところで世界遺産と言えば今年の4月15日、パリのノートルダム大聖堂も大規模火災が発生、木組みの屋根と鉛の尖塔が崩落した。

 こちらは建物自体が登録されているので、首里城とは若干意味合いが異なり、また石組の柱や壁は、木造建築のように跡形もなく失われる事はなかったが、倒壊の可能性は捨てきれず、更に400トンの鉛が溶けて飛散した為、鉛害の恐れもあるという。

 ノートルダムとは「我が貴婦人」、即ち聖母マリアを意味する。そういった意味では沖縄の心の拠り所と、相通じるものがあるとも考えられる。。 

 さて、私は何故か沖縄には未だに行った経験が無く、当然首里城も見た事は無い。もしかしたら、それが今回の消失に対し、思い入れや喪失感が湧かない原因かも知れない。その代わりと言っては何だが、ノートルダム大聖堂は訪ねた事があるので、その時の未だ健在だった姿をご覧頂きたい。

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スマホの脅威

 政府広報によれば運転中の「ながらスマホ」が、来月から厳罰化されるようになるらしい。大変いいと言うよりも、当然の事だと思う。

www.gov-online.go.jp

 運転中、どんなに前を凝視していたとしても、見えない相手と会話をすると、その内容に伴って、別の映像が浮かんでくるような錯覚に捉われる事がある。 かっての携帯電話の時代でもそうであったのだから、スマホの場合は完全に前方から目が離れてしまい、これほど危険な事はない。歩きスマホをしている者が、全くよけないのを見ればよく判る筈だ。

 少なくとも運転免許を所持しているのであれば、何が危険か位は判ると思うが、実際、「ながらスマホ」をしているドライバーを目撃する事がしばしばある。

 では、厳罰化をすれば問題は解決するのか。一概にそうとは言えないのではないかと思う。何故なら根本的原因は、運転中でさえ見たくなるという、異常とも思えるスマホへの依存性であると考えられるからだ。

 とにかく今や何処へ行っても先ずスマホなのである。例えば電車に乗って直ぐスマホを取り出す。人と会話をする時でさえ必ず傍らにスマホを置く。果ては映画館で上映中にスマホを操作、その明かりが問題化しているという話まで聞く。

 特にミレニアム世代は、映画を2時間ずっと見続けていられない、それどころか一つの事に対する集中力は、5分間しか持たないという説もあるらしい。恐らく彼等にとってスマホは、もはや腕の一部になったとさえ言えるかも知れない。そう考えれば全て納得がいく。

  ところで、スマホがもたらす弊害は、多方面にわたって取り沙汰されている。目や姿勢など身体的な部分にダメージを与える。また脳に影響し、前述した集中力欠如の他、学力低下、記憶喪失、生活破綻等々、指摘されている危険性や問題点は枚挙に暇がない。

 おまけにスマホのプラットホームに準拠したSNSが、犯罪の温床にさえなったりもする。このところ「家出したい」という呟きから、誘拐事件にまで発展した事例が幾つか報じられたばかりである。

 心身共に不健全、危険で、挙句に金もかかる、それなのに止められない。これではまるで麻薬と同じではないか。

 しかしながら弁護する訳ではないが、全てがスマホのせいとは言えないだろう。スマホ利用者全員が依存症になった訳ではないし、SNS登録者全てが犯罪を犯すという事もありえない。かってテレビが人間の想像力や思考力を低下させ、一億人総白痴化を招くと言われた事もあった。何人かは本当にそうなったかも知れないが、何となくそれに似ているような気がする。

 勿論、スマホの多機能には目を見張るものがあり、これさえあれば財布はいらず、ゲームも出来るし、電車はおろか飛行機にだって乗れて、知らない場所まで案内もしてくれる。勿論情報の伝達や共有がリアルタイムで可能、しかもそれは文字より遥かにインパクトがある、写真や映像を使用出来るのである。これこそが少し前に言われたユビキタス社会なのかと思う位だ。

 さて、かく言う私自身も、既にスマホが無ければ少し困った状況になってしまう生活を送っている。ただ最近、加齢のせいもあると思うが、視力が急激に低下しているのも事実である。

  ♪ 街の明かりがとても綺麗ねヨコハマ~ ♪ などのブルーライトではなく、目に悪いとされている青色光が原因に違いない。 

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まだまだ紅葉狩り

 今月6日、奥日光まで紅葉狩りに出掛けた。しかし樹々の色づきは今一つ。満たされない想いを抱いたままでは、精神衛生上良くないと考え、次なるターゲットを物色していた。

 15日をもって来春まで閉山する上高地や、伝承の巨人「ダイダラボッチ」が盛り土して出来たという榛名山等を候補に考えたが、遠すぎたり濃霧注意報が出たりして断念せざるを得なかった。

 そんな折ネットを眺めていると、埼玉県川口市安行にある「興禅寺」が隠れた名所だという紹介文と写真を見つけ、ここならそれ程遠くないし、なかなか良さそうなので、早速カメラを持って行くことに決めた。

 地図を見るとかなり判り辛い場所だが、まあナビが案内してくれるだろうと思って車を走らせた。すると近くまで来たところで突然ナビが「この先、道が狭くなります。十分気を付けて下さい」と言う。そんな言葉は初めて聞いたが、しかし警告通り、道は次第に狭く曲がりくねり、それでいて歩行者や車の往来は激しい。

 そうこうしているうちに目的地を通り過ぎてしまい、一周してまた戻って来ると今度は入口は確認出来るものの、車は入れず駐車場も見当たらない。しかもハザードランプを点け減速すると後続車まで止まってしまうので、一時停止も出来ない。

 仕方なく飛び込んだ物流会社の倉庫らしき所で道を尋ねた挙句、図々しくも車を置かせて貰い、漸くそこから歩いて興禅寺を目指した。

 あいにく寺の参道の紅葉はまだまだであったが、折角来たので奥まで進むと、住職と思われる和尚さんが掃除をしており、挨拶をすると境内や周囲の見どころ等を丁寧に教えてくれた。少し先には冬桜も咲いているらしい。

 尚、ここは室町時代に創建された由緒ある曹洞宗の寺で、大正時代に建てられた現在の本堂は耐震工事中であった。

  ところで、安行は兵庫県宝塚市山本地区、福岡県久留米市田主丸町と並んで日本三大植木産地と呼ばれ、古くから植木の盛んな地域だという。興禅寺のすぐ傍には「世界のもみじが揃う」が謳い文句のもみじ専門業者、「小林もみじ園」があって、園内を無料開放しているので、これに行かない手はない。残念な事に、ここの紅葉もまだ進んでいなかったが、もう少しすれば恐らく見事に染まる事だろう。

 という訳で、以下の写真は6枚目(お地蔵様が木に取り込まれている)までが興禅寺、後は小林もみじ園で撮影したもの。

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 どうやら今年は気温がなかなか下がらなかったせいもあって、紅葉は遅れ気味のようだ。という事はまだまだ楽しめる。そして私は、次は何処へ行こうかと思案中なのである。 

エチケットをお忘れなく

 今日11月21日はボージョレ・ヌーヴォーの解禁日。我が国では一時期、随分騒がれたような気もするが、最近は殆ど話題にも上らなくなってしまった感がある。

  出来立てのこの若いワインについて、昨年はこんな事を書いているのを見つけた。

kaze-no-katami.hatenablog.jp

 あまり話題にならないのは、それだけこの年中行事が風習になったのか、それとも飽きられてしまったのか。かってまるで生マグロの美味しさを知った中国人のように、ボージョレを買い漁り、輸入量世界一を誇っていた日本は、2004年以降徐々に減少。今年のシェアはついに全輸出量の50%を切ったらしいので、多分後者の方なのだろう。

 それでもワイン全体から見れば、現在日本の成人は年間4.5本を消費しており、その量は30年前の3倍にあたるという。このような状況下、ボージョレを含むフランスワインが減っているのは、味が判る人が増えたというよりも、新興勢力であるチリワインの数字が伸びているせいと思われる。

 ちょうどフランスワインの減少が始まった頃から、チリワインの増加傾向が見られるようになったが、これはチリの気候がぶどう栽培とワイン製造に向いていた事と、日本とチリの間で経済連携協定EPA)が結ばれていた為、関税がかからないという優位性があった為である。

 従って今年の2月、EUとのEPAが発効し関税が撤廃されたので、今後フランスワインの巻き返しが起きる可能性も充分に考えられる。

 さてここ数年、私はワインをよく飲むようになった。例えば鮨屋など和食の店へ行っても、先ず最初はビールで始め、後は大概白ワインというパターンで、日本酒は殆ど飲まない。多分、今はワインが体に合っているのだろう。

  ところでフランス料理のフルコースとなれば、魚は白で肉は赤と相場は決まっているようだが、それはフランス人の味覚によるものであろうし、日本人が無理にそれに合わせる必要はないと思う。だいたい生ハムとメロンを一緒に食べるような舌など、信じられる筈がない。

 では私自身の舌はどうかといえば、これが非常に心許ない。甘いとか酸っぱい位は判る様な気もするが、ソムリエみたいに語彙の限りを尽くして、何かに例えたりは出来ないし、する気も無い。

 レストラン等でテイスティングを促されても、昔は一応グラスを揺らして香りを嗅いだり、少量口に含んで味を確認するフリをしていたが、はっきり言って時間の無駄なので今は全くしない。もしかしたらマナー違反になるのかも知れないが、それで咎められた事は無い。

 ただ一般的に言える事は、日本では白は冷え過ぎ、赤はぬる過ぎの傾向はあると思う。

 さて、ここからが今日の本題。今回のタイトルの「エチケット」。聡明な読者諸氏がご存知の通り、これはワインのラベルを意味するフランス語である。これを見れば、そのワインの素性が全て判る履歴書みたいな物だ。

 そこで店のギャルソンに「ちょっとエチケットを見せて」などと言えば、さも通のようなフリが出来て、連れの女性からは「XXさんって、素敵!」と思われるかも知れない魔法の呪文なので、今日からはラベルと言わずエチケットと覚えて頂きたい。尚、それが原因で嫌われたとしても、当方は一切責任は持たないので悪しからず。

 閑話休題、話をボージョレ・ヌーヴォーに戻す。 

 フランスは今年の夏、記録的な猛暑となった為、ボージョレ地方のぶどうの収穫量は2割減との事であったが、その後好天に恵まれ完熟して糖度が増したらしい。そしてワインのお味はと言うと、生産者によれば「凝縮した果実味と上品な酸味」。テレビではワインよりも芋焼酎の方が似合っていそうな女性が「瑞々しくて飲みやすい」とかほざいていたが、果たしてどうだろうか。

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SOLO LIVE 2019 ~元気であれば~ (後編)

 11月16日、週末の川崎駅はカジュアルな装いの若者で賑わっていた。2階にある改札口から自由通路を5分程歩くと、川崎ラゾーナプラザのエリアに入る。ここは以前東芝の本社があった場所を、三井不動産が仮名「ららぽーと川崎」として開発した5階建ての大型ショッピングモールである。 

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 中央の広場は人工芝が張られ、その日ステージでは家族向けに童謡を歌うバンドがフリーコンサートを行っていた。他にも各フロワーにはキッズスペースが設けられており、ある種、市民公園的機能も兼ね備えて作られているとの印象を受けた。

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 目的地であるライブ会場は5階の多目的空間「プラザソル」。定員200名とは言え、予想以上にこじんまりとして、にも拘らず、受付横に貼られた「当日券あり」の文字が少々切ない。

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 チケットに記載された通り整理番号順に入場すると、そこに舞台は無く、最前列の客席と同じフロワーに、サンタクルーズアコースティックギターが1本置かれていた。鈴木康博氏愛用のシングルカッターウェイ、ドレッドノートスタイルである。

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 全席自由、折角の機会なので迷わず最前列中央に居を定める。あの康さんの立ち位置からは凡そ5m、こんなに近くに座るのは初めてだ。因みに後方は段差がある。

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 定刻16時、鈴木氏が上手から登場しギターを持つや否や、いきなりチューニングを始めた。私も若干ギターを弾く者の一人として、その行為はミュージシャンとして大切だという事はよく判る。幾らスタインウェイストラディバリウスであろうとも、調律が狂っていれば楽器とは言えない、しかもこのギターは開演前からずっと置かれたままであった。

 しかし、と私は思う。例えば楽屋でチューニングを済ませて出てくれば、無用な時間を費やす事なく、直ぐに演奏を開始する事が出来る筈である。彼はチューニングをしながら雑談を始めたので、多分アットホームな雰囲気を狙っての事だろうと考えられるが、これではピリッと引き締まった緊張感も何もあったものではない。

 そして本人の口から当日のセットリストの中に、オフコース時代からの歌は数曲だと告げられた時、会場に無言の失望感のような空気が立ち込めるのを私は感じた。最近では客が喜ぶからと、昔の曲も演奏すると聞いていた事もあり、正に ♪ 大きく僕がついた溜息はあの人に聞こえたかしら ♪ と歌いたくなるような気持ちである。

 かって彼がソロになって間もない頃のコンサートでアンコールが始まった時、客席から「一億~」と叫ぶ声と、それを支持する拍手が起こった。勿論それはオフコース時代、ライブで人気があったナンバー「一億の夜を越えて」の演奏を求めていた事は言うまでもない。しかし、そのリクエストは完全の無視され、歌われる事は無かった。

 同様にその頃から、多くのファンが聴きたかった初期の名曲「でももう花はいらない」も、封印されてしまうという長い冬のような時代も続いた。

 それは多分、彼の意地のようなものだったに違いないと私は思う。一人、人気絶頂のオフコースを脱退し、自らの音楽性で勝負に出たのである。過去の栄光にしがみつき、ノスタルジーに浸っている訳にはいかなかったのだろう。

 さて、コンサートは最新作アルバム「元気であれば」に収録された曲を中心に構成され、昔ながらの声とギターを披露して進行した。だが、演奏される曲はどれも、頻繁なコードチェンジ、しかもそれが分数コードや所謂ジャズコードを多用し、結果としてキャッチーでは無い旋律ばかりなのだ。

 確かに本人がMCで語ったように、オフコースとして活動した時間よりは、ソロになってからのキャリアの方が遥かに長い事は事実だ。しかし、その結果到達した境地が、複雑、難解、自己満足の世界では、到底オーディエンスの理解は得られないのではなかろうか。

 現に当初のインフォメーション通り、数少ないオフコース時代からの選曲の中で、「のがすなチャンスを」が始まった瞬間の観客の歓迎振りを、彼はどう感じたであろうか。

 ところで、私のような素人が、さも偉そうに批判ばかりしている事に、ご異議、ご異論も多々あろうかと思う。しかし、初めて彼の歌を聴いてから、既に45年もの歳月が流れ、そしてその間も鈴木康博というミュージシャンの動向を、ワッチし続けて来たのだ。まるで古くからの友人のように、何やかや言っても彼の事が好きなのだ。そうご理解頂きたい。

 途中15分の休憩を挟み、後半はアップテンポの曲が続く。ただ如何せん生ギター1本では今一つ乗る事が出来ない。実に不完全燃焼である。しかし漸くアンコールで、突然聞きなれたギターのフレーズが始まった。何と「一億の夜を越えて」である。

 私は通常、コンサートで立ち上がる事は無い。前列の者が立つとステージが見えなくなるので甚だ迷惑だとさえ思って来た。だが今日、自分は最前列にいて、このまま座っている訳にはいかない。それは観客の一人としてマナーのような物。そして一旦立ってしまえば最早怖いものは無い。

 殆ど周囲がスタンディングオベーションする中、私はそれだけでは留まらず、手拍子と共に声を張り上げ一緒に歌った。暗記したつもりは無いが、歌詞は自然と口をついて出て来る。時折、鈴木氏と目が合ったような気もして余計に力が入った。

 本来ならば間奏でギターソロが入る曲だ。しかし残念ながらギター1本なのでそれは無い。それでも会場はこの日一番の盛り上がりを見せ一体となった。そして最後はしっとりとしたバラード「燃ゆる心あるかぎり」でコンサートのプログラムはすべて終了した。

 人は誰しも歳を重ねれば、若さ故に許せなかった様々な人間関係も、恩讐の彼方のすえ、上辺だけでも収まりがいい状態を望むようになる。何故なら、恨みつらみをずっと維持するには結構労力を要するからだ。

 鈴木康博氏はかっての盟友、小田和正氏に対し、わだかまりは無いと発言しており、昨年は小田氏のラジオ番組で録音ながらコメントも出している。今更と思われるかも知れないが、最近私は、また二人のハーモーニーを聴きたいと考えるようになった。

 ほんの少しの勇気があれば、一度だけでもオフコースの再結成は、夢ではないのではなかろうか。せめて二人の素晴らしい声が出る内に、そして私がそれを聴く事が出来る内に、実現する事を願って止まない。

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 蛇足ながら、コンサートが終了し、出口の所で元オフコースのベーシストだった清水仁とばったり出くわした。私が手を差し出すと彼は握手をしてくれた。もしかしたら、これが一番の収穫だったのだろうか。

SOLO LIVE 2019 ~元気であれば~ (前編)

 今年6月27日、さいたまスーパーアリーナへ「ENCARE !!  ENCARE !! 」と題された小田和正のコンサートを見に行った。その模様の一部はNHKBSプレミアムで放送されたので、ご覧になった方もいるかも知れない。

 とにかく小田氏の年齢を感じさせないパフォーマンスに、3時間に亘り圧倒されるばかりであったが、それについては以前書いたので良ければ以下を参照頂きたい。

kaze-no-katami.hatenablog.jp

kaze-no-katami.hatenablog.jp 

 その後、登録しているチケットサービスからのメールで、小田和正の昔の相棒である鈴木康博のコンサートがある事を知り、これをスルーしては筋金入りのオフコースファンとして、片手落ち(放送禁止用語です)ではないかと考え、早速申し込んだところ、すんなりと入手する事が出来た。 

 小田氏のチケット争奪戦で散々抽選に外れまくった事を考えれば、全くもって月とスッポン、バラとぺんぺん草、水爆と竹槍くらいの違いだ。しかも、全席自由で入場整理番号は何と1番、真っ先に会場に入る事が出来る。喜びというよりも一抹の不安さえ覚える状況である。

  これまで私は、鈴木氏がソロになって以降も度々コンサートに足を運んできた。最初の頃は中野サンプラザや、今は無き新宿厚生年金会館大ホールといった、比較的大きな会場でバックバンドを従えてというスタイルだったが、次第に活動が控えめになり、それでも地方の小さな小さなライブハウス等で、地道に演奏を続けている事は知っていた。

 昨年11月は、東京日本橋室町にある三井ホールのコンサートで、久々にバックにセンチメンタルシティーロマンスのメンバーを迎えての公演というので、当然のことながらこれを見に行った。

 その時の偽らざる感想は、やはり最近の曲はどうにもしっくりこない、もっと端的に言えば「ツマラナイ」であり、それに引き換えオフコース時代の曲が始まると、観客のノリも全く異なり、イイ時代だったあの頃を彷彿とさせる熱狂を感じる事が出来た。

 オフコースの殆どのシングルA面を担う小田氏に対し、鈴木氏はその対角として、いぶし銀のような職人技が持ち味であった筈なのに、単なる懐メロ歌手に落ちぶれてしまったのかとさえ思わせる凋落ぶりは、あたかも美しかった恋人が、見る影も無く太ったオバサンになってしまったような、はたまた長年の友人に裏切られたような、非常に残念な思いを私にさせる事となってしまった。

 そして今回は最初から最後まで完全にソロ・ライブ。ギター1本の弾き語りである。

 ここで彼のギターに関して言えば、オフコースが売れていない頃、ギター教室の講師をしたり、洋楽のレコードを耳コピして楽譜起しのアルバイトをしていた事もあって、アコースティックギターに於いてはかなりの腕前である事は確かだ。

 例えばオフコースのデビューアルバムに収録されている小田氏の曲「地球は狭くなりました」では、ジャズによく用いられるオクターブ奏法をアコースティックギターでプレイしたり、他にはスティーヴン・スティルスを思わせる変則チューニングを使用する事もあった。

 それでも今時のコンサートの、オープニングからいきなり観客総立ちで、そのまま一気に3~4曲続くという一般的な流れに対し、かって全く売れていなかった頃の、あのお通夜みたいな演奏会では、聴く方もかなり辛い。

 今回の会場はJR川崎駅前にあるラゾーナ川崎プラザソル。客席数200、小田氏の数万人収容のさいたまスーパーアリーナとは比べる由もないが、その方がかえってこじんまりと纏まる可能性もある。

 そして11月16日、折しも新駅、高輪ゲートウェイ開業に伴った線路切り替え工事の影響を受け、軒並み鉄道が運休する中、私は昔の魔法が復活する事を期待して、一路川崎へ向かったのだ。

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水の都

 イタリアのベネチアが1m87cm の高潮に見舞われて、市内の8割が浸水しているとの事である。主たる原因は大雨の影響でアドリア海の水位が上昇、他に地下水汲み上げによる地盤沈下やお馴染み地球温暖化もあるらしい。

 元来、潟の上に出来た都市であり、これまでに幾度も高潮に見舞われているとは言っても、これは「水の都」とは意味合いが全く違う。

 詳細は不明ながら、サンマルコ寺院にも深刻な被害が及んでいると言うが、フランスのノートルダム寺院といい、世界的大聖堂はご難続きである。

 かって日本ではベネチアの事を英語風にベニスと呼んでいた筈で、男装の麗人ポーシャが、ユダヤ人高利貸シャイロックが契約通り、貸した金の形に肉1ポンドを要求するのを、「肉はええけど、血はあかん」と屁理屈を捏ねてやっつけしまうという、シェークスピアの有名な喜劇のタイトルは「ベニスの商人」だった。

 それにしても C.ディケンズの「クリスマス・キャロル」のスクルージといい、物語とはいえユダヤ人への偏見や差別は実に酷い。いまなら間違いなく人権問題である。それとも今流行りの表現の自由でお咎めなしか。

 何れにしても、少なくともどちらの話も最後は、善良なキリスト教徒のような人間に改心するというところも、何となく説教がましい。

 と、いつものように話があらぬ方向に逸れてしまったが、以前、ベネチアへ行った事を思い出したので、またしても写真を張り付け、手抜きのブログをでっち上げようと考えた次第。

  尚、東洋のベニスと言われれる中国の蘇州へも二度行った事があるが、運河がある以外あまり共通点はないと思う。

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宿泊はリド島のホテル・エクセルシオール。室内の色彩がイタリアっぽい。

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リドから本土へは水上バスで移動。

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        サンマルコ大聖堂の裏手。

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 サンマルコ広場から見た大聖堂。

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      大聖堂内部。

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サンタ マリア デッラ サルーテ聖堂

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運河

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      ゴンドラからの眺め。

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ゴンドラで歌うカンツォーネ歌手。

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サンマルコ広場の楽団

 

 それがこんな事になっている。(NHKニュースより)

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 注:本文はキリスト教並びにキリスト教徒を誹謗中傷する意図は全くありません。また「クリスマス・キャロル」のスクルージは明確にユダヤ人として描かれてはいないという説もある事を申し添えます。